恐ろしいと噂の婚約者様は、耳まで真っ赤でした
その婚約話がハーウッド子爵家にもたらされたのは、雨の降る午後のことだった。
細い雨が窓硝子を叩き、応接間の暖炉には小さな火が入っている。季節は春の終わりだというのに、屋敷の中にはどこか冷えた空気が漂っていた。
クラリス・ハーウッドは、母の向かいに座り、膝の上で両手を重ねていた。
父は書き物机の前に立ち、母は何度もハンカチを握り直している。二人とも、何かとても言いにくいことを口にしようとしている顔だった。
クラリスは、そういう顔を見るのが少し苦手だった。
父も母も、自分をとても大切にしてくれている。
それを知っているからこそ、二人がこうして言葉を選んでいるのを見ると、こちらまで胸がぎゅっとなってしまう。
「クラリス」
父が、ようやく口を開いた。
「お前に、縁談の話が来ている」
「まあ」
クラリスは瞬きをした。
貴族の令嬢である以上、縁談そのものは珍しい話ではない。クラリスも今年で十八になる。いずれ結婚の話が来るだろうとは思っていた。
けれど、父の声は明るくなかった。
母も、微笑もうとして失敗したような顔をしている。
「お相手は、レイヴン伯爵家の嫡男、エルネスト・レイヴン様だ」
レイヴン伯爵家。
その名は、クラリスも知っていた。
王都に広い屋敷を持ち、領地からの収入も多い名家である。近年は鉱山や運送業にも手を広げていると聞く。ハーウッド子爵家とは、家格も財力も違った。
そして、クラリスの家は今、決して余裕があるとは言えなかった。
ハーウッド家は代々、布や服飾に関わる商いをしてきた。上質な布地を仕入れ、王都の仕立て屋や貴族の屋敷へ卸す。流行に合う刺繍糸やレースを扱い、地方の職人と王都の流行を結ぶのが、ハーウッド家の仕事だった。
その春、ハーウッド家は商いの立て直しのため、領地ではなく王都の屋敷に滞在していた。
父も母も、商いを大切にしていた。
布を選ぶ時の父の目は、いつも楽しそうだった。母は流行の色や仕立ての形に詳しく、客先の令嬢に似合う生地を選ぶのが上手だった。
だが、ここ数年、悪いことが続いた。
大口の取引先が倒産した。流行が急に変わり、仕入れた布が思うように売れなかった。さらに輸送途中の事故で、高価な絹を積んだ荷が一部失われた。
すぐに家が潰れるわけではない。
けれど、このままでは職人への支払いを遅らせることになるかもしれない。長く仕えてくれた使用人を減らさなければならないかもしれない。積み重ねてきた信用を、少しずつ手放さなければならないかもしれない。
クラリスは、屋敷の空気が少しずつ重くなっていることに気づいていた。
父の帰宅が遅くなり、母が帳簿を見る時間が増えた。弟のルカが「最近、父上はずっと難しい顔をしている」と不安そうに言ったこともある。
「レイヴン伯爵家が、ハーウッド家との取引を広げたいと申し出てくださった」
父は苦しそうに言った。
「資金を貸しつける、という形ではない。伯爵家の運送網を使わせてくださることや、新しい取引先を紹介してくださることを考えているそうだ。先方は決して高圧的ではない。むしろ丁寧すぎるほどだ」
父はそこで一度、言葉を切った。
その沈黙だけで、クラリスは何かを察した。
「もともと、伯爵はうちの商いの誠実さを評価してくださっていたらしい。布や服飾の流通に強いハーウッド家との結びつきは、伯爵家にとっても無意味ではないとおっしゃってくださったそうだ」
「ありがたいお話ですわね」
「ああ。ありがたい。だが、そのうえで、両家の結びつきを深める意味も含めて、お前とエルネスト様の婚約を望んでおられるそうだ」
母が耐えきれなくなったように顔を上げた。
「ごめんなさい、クラリス。私たちは、あなたを家のために差し出したいわけではないの。でも、レイヴン伯爵家は信頼できるお家だし、伯爵ご夫妻も誠実な方だと聞いているわ。ただ……」
母はそこで言葉を切った。
その先を言いにくそうに、視線を落とす。
父が低く続けた。
「先方が丁寧だからこそ、私たちの方が苦しい。援助をちらつかせて縁談を迫られたわけではない。だが、こちらが苦しい時に差し出された話だからこそ、私たちは悩んでいる」
クラリスは、父の横顔を見た。
父は商売の危機を理解している。家を守らなければならない立場でもある。だが同時に、娘を取引の材料にしたいわけではない。
その二つの間で苦しんでいることが、声だけで分かった。
「それで、ただ、とは?」
クラリスは静かに尋ねた。
父と母は顔を見合わせた。
父が重い声で続ける。
「エルネスト様には、少々……その、怖い噂がある」
「怖い噂」
「睨まれただけで使用人が泣いた、とか」
「令嬢が挨拶したら、無言で見下ろされて倒れかけた、とか」
母が小さな声で補足した。
クラリスはまた瞬きをした。
「まあ」
それはたしかに、少し怖そうな話だった。
けれど、噂というものはいつも少し大げさになる。
誰かが「目つきの鋭い方だった」と言ったものが、次の人には「睨まれた」になり、さらに次の人には「睨まれて泣いた」になることもある。
服飾の流行も同じだ。誰かが「今年は淡い青が流行りそう」と言えば、いつの間にか「濃い青はもう古い」と言われたりする。
噂とは、布の染みのように広がるものだ。
最初の形のままでは残らない。
「お父様とお母様は、そのエルネスト様にお会いしたことは?」
「いや、まだだ」
「では、私もまだ分かりませんわね」
クラリスがそう言うと、父と母は同時にこちらを見た。
クラリスは、できるだけ穏やかに微笑んだ。
「お顔だけでも、噂だけでも、人のことは分かりませんもの。まずはお茶をご一緒してから考えます」
「クラリス」
母の声が震えた。
「無理をしなくていいのよ」
「無理かどうかも、お会いしてみなければ分かりませんわ」
クラリスはゆっくり言った。
「それに、家のことも心配ですもの。私だけが何も考えないわけにはいきません」
「お前に背負わせるつもりはない」
父が苦しげに言う。
クラリスは父の方を見て、ふわりと笑った。
「背負うのではありません。私もハーウッド家の一員ですもの。少し、一緒に考えたいだけです」
父は何か言いたげに口を開き、結局、言葉を飲み込んだ。
母はハンカチで目元を押さえた。
その様子を見て、クラリスは少し困った。泣かせるつもりではなかったのに。
しかし、母はすぐに顔を上げた。
「ありがとう、クラリス。でも本当に、嫌だったらすぐに言ってちょうだい。私たちはあなたを大切に思っているの」
「はい。分かっています」
クラリスは頷いた。
「では、まずはお茶会ですねえ」
そう言うと、母は泣きそうな顔のまま、少しだけ笑った。
数日後、レイヴン伯爵家の嫡男エルネスト・レイヴンがハーウッド家を訪れた。
その日も、空は曇っていた。
雨こそ降っていなかったが、重たい雲が空を覆い、屋敷の廊下には薄暗い影が落ちている。
クラリスは応接間で、父母と並んで待っていた。
母は朝から何度もクラリスの髪を整え、ドレスの襟元を直してくれた。淡いクリーム色のドレスに、薄青のリボン。派手ではないが、顔色が柔らかく見える装いだ。
父は落ち着こうとしているのに、何度も懐中時計を確認していた。
クラリスはその様子を見ながら、父も母も自分よりずっと緊張しているのだなと思った。
やがて、使用人が来客を告げた。
扉が開く。
最初に入ってきたのは、レイヴン伯爵だった。穏やかな笑みを浮かべた、品のある紳士である。その隣には伯爵夫人がいた。彼女もまた、柔らかい雰囲気の人だった。
そして、その後ろに立っていた青年を見た瞬間、応接間の空気が少し止まった。
背が高い。
まず、クラリスはそう思った。
父よりも頭半分以上高い。肩幅も広く、黒に近い濃紺の上着がぴしりと合っているせいで、余計に大きく見える。姿勢は正しく、無駄な動きがない。
顔立ちは整っていた。
整っていたが、優しげとは言い難い。眉がきりりと濃く、目元が鋭い。薄く結ばれた唇はほとんど動かず、表情が読めない。
さらに、その目が緊張のせいか、ひどく鋭くなっていた。
まるで、応接間にいる全員を静かに睨んでいるように見える。
父が息を飲んだ。
母の指がクラリスの袖を、ほんの少し掴んだ。
クラリスは横目で母を見た。
母は笑顔を保っている。保ってはいるが、指先がやや白い。
噂は聞いていた。
けれど、ここまで怖いとは思っていなかった。
両親の表情は、そう言っていた。
クラリスはもう一度、エルネストを見上げた。
たしかに、怖い。
初めて見る人なら、萎縮してもおかしくない。
黙って立っているだけなのに、怒っているように見える。目が合うと、叱られる前の子どものような気持ちになるかもしれない。
けれど。
「エルネスト・レイヴンです」
低い声がした。
短い挨拶だった。
その声は硬く、響きも低かった。母の肩がまた少し跳ねる。
けれどクラリスは、別のところを見ていた。
エルネストの耳が、赤い。
顔はほとんど動かない。眉も唇も硬い。だが、黒髪の隙間から覗く耳だけが、明らかに赤く染まっている。
クラリスは小さく瞬きをした。
それから、ゆっくり礼をする。
「クラリス・ハーウッドでございます。本日はお越しくださり、ありがとうございます」
「……こちらこそ」
エルネストの返事は短かった。
けれど、声は低く硬いだけで、ぞんざいではない。
彼は一拍遅れて、きちんと頭を下げた。
はじめは、両家の親を交えて形式的な挨拶が交わされた。
レイヴン伯爵は父と商いの話をし、伯爵夫人は母と王都の流行について穏やかに言葉を交わした。クラリスは時折話を振られ、落ち着いて答えた。
エルネストは、ほとんど喋らなかった。
話しかけられれば短く答える。だが自分から場を広げることはない。大きな体で姿勢よく座り、鋭い目で正面を見ている。
父は何度か言葉を探すように口を開き、母は笑顔を保ったまま、膝の上の指をそっと握りしめていた。
クラリスは、その小さな動きに気づいていた。
やがて、伯爵夫人が柔らかく微笑んだ。
「せっかくですから、若いお二人で少しお話しされてはいかがでしょう」
母が一瞬だけ固まった。
父も、手元のカップを置いたまま動きを止める。
その提案は、礼儀としては自然だった。婚約を考える二人が、当人同士で少し会話をするのはおかしなことではない。
ただ、母の顔にははっきりと「本当に大丈夫かしら」と書いてあった。
クラリスは小さく頷いた。
「私は大丈夫ですわ」
「クラリス」
母が小さく呼ぶ。
クラリスは微笑んだ。
「少し、お話ししてみたいです」
母はまだ不安そうだったが、レイヴン伯爵夫妻の前で過剰に止めることもできない。やがて父が、覚悟を決めたように頷いた。
「では、私たちは隣室で少し話を続けよう」
部屋にはクラリスとエルネスト、そして壁際に控える侍女だけが残った。
先ほどまでより、応接間はずっと静かになった。
エルネストは黙っていた。
椅子に座っていても、存在感がある。背が高く、肩幅が広く、表情はほとんど動かない。目つきは鋭い。普通なら、睨まれていると思っても仕方がないかもしれない。
クラリスは、向かいの席で彼を見た。
怒っている人の耳は、あんなふうに赤くなるだろうか。
たぶん、ならない。
クラリスはそう思った。
沈黙が落ちる。
壁際の侍女が、かすかに息を詰めている気配がした。
エルネストはカップを持ち上げ、お茶を飲んだ。少し早い。熱いはずなのに、緊張をごまかすように口へ運んでいる。
けれど、勢いよく飲むわけではない。器を荒く扱うこともない。カップを置く時も、音を立てないよう細心の注意を払っていた。
クラリスは、その手元を見て少しだけ口元を緩めた。
「エルネスト様」
「……何だ」
「お茶は熱くありませんか?」
「問題ない」
「そうですか。よかったです」
「……ああ」
短い。
たいへん短い。
けれど、ちゃんと返してくれる。
「甘いものはお好きですか?」
クラリスがそう尋ねると、エルネストは少しだけ視線を落とした。
「……嫌いではない」
「では、この焼き菓子も召し上がれます?」
「ああ」
エルネストは皿の上の焼き菓子を一つ取り、慎重に口へ運んだ。
その動きは、やはり丁寧だった。
クラリスは少し考えてから、別の話題を出した。
「エルネスト様は、王都にお住まいなのですよね」
「……ああ」
「王都では、今どのような布が好まれているのでしょう。母は淡い色が戻ってきていると言っておりましたけれど」
エルネストは少し沈黙した。
けれどクラリスは急かさなかった。
彼は答えないのではなく、言葉を探しているように見えたからだ。
やがて、低い声が返ってくる。
「……淡い青を、見かけることが増えた」
「まあ。やはり」
「白に近い銀糸の刺繍を合わせるとも聞いた」
クラリスは目を細めた。
思ったより、詳しい。
「服飾にご興味がおありなのですか?」
「詳しくはない」
エルネストは視線を手元のカップへ落とした。
「伯爵家に出入りする仕立て屋が、話していた」
「それを覚えていてくださったのですね」
「……ハーウッド家は、布を扱うと聞いていたから」
クラリスは、思わず微笑んだ。
怖い方ではない。
それどころか、この方はきっと、今日ここで何を話せばいいのかを考えてきてくださったのだ。
クラリスの家が布や服飾に関わる商いをしているから。自分と話す時に困らないように。あるいは、少しでもこちらが話しやすいように。
仕立て屋の話を覚えて、持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
クラリスが言うと、エルネストの視線が少しだけ上がった。
「何がだ」
「私と話すために、覚えていてくださったのでしょう?」
エルネストは黙った。
鋭い目が、さらに鋭く見える。
けれど、クラリスにはもう分かっていた。
「……たまたまだ」
「まあ。そうでしたの」
「……」
「では、たまたまでも嬉しいです」
クラリスがそう言うと、エルネストはまた黙った。
しかし、カップを持つ手が一度止まり、ほんのわずかに目元が緩んだように見えた。
その後も、会話は決して滑らかではなかった。
クラリスが話しかけ、エルネストが短く答える。時には沈黙が長く落ちる。けれど、その沈黙はクラリスにとって、だんだん怖いものではなくなっていった。
エルネストはクラリスを睨んでいるのではない。
言葉を選んでいるのだ。
こちらを見ようとして、見すぎると怖がらせるかもしれないと迷っている。声をかけようとして、低い声で驚かせるかもしれないとためらっている。
それが、クラリスには少しずつ分かった。
やがて侍女が静かに時間を知らせ、クラリスとエルネストは隣室へ戻ることになった。
親たちと合流すると、母は真っ先にクラリスの顔を見た。父も、表情を保ってはいたが、明らかに心配している。
レイヴン伯爵夫妻が帰った後、玄関の扉が閉まるなり、父は額を押さえた。
「……クラリス」
「はい」
「やはり、この話は断ろう」
そう言い切った父の顔は、ひどく苦しそうだった。
断れば、ハーウッド家の商いはさらに厳しくなる。父にもそれは分かっている。家の信用を守るために、今どれほど苦しい状況にあるのかも。
それでも、娘を不安な相手に嫁がせるくらいなら、別の道を探すべきだと思ったのだろう。
母も勢いよく頷いた。
「そうよ。お父様の言う通りだわ。私たち、噂は聞いていたけれど、あそこまでとは思っていなかったの。あなた、怖かったでしょう? 無理しなくていいのよ。家のことはどうにかします。どうにかしますから」
「お母様」
クラリスは母の手に自分の手を重ねた。
「私は怖くありませんでした」
「でも」
「たしかに、少し迫力のある方でしたけれど」
「少し?」
父が思わず聞き返した。
クラリスは考えた。
少し、ではなかったかもしれない。
「では、とても」
「クラリス」
「でも、恐ろしい方ではないと思いますわ」
父と母は黙った。
クラリスはゆっくり言葉を選ぶ。
「エルネスト様は、ずっと緊張していらっしゃいました。お茶を飲むのが早くて、でもカップを置く時は音を立てないように気をつけていらしたでしょう。私が話しかけると、短くても必ず答えてくださいました。それに……」
「それに?」
「耳が、真っ赤でした」
父と母が同時に瞬きをした。
クラリスは微笑んだ。
「だから、睨んでいたのではなくて、どうしていいか分からなかったのではないでしょうか。きっと、とても恥ずかしがり屋なのだと思います」
「恥ずかしがり屋」
母が呆然と繰り返す。
「エルネスト様が?」
「はい」
「……あの方が?」
「はい」
父はしばらく言葉を失っていた。
やがて、深く息を吐いた。
「本当に、嫌ではないのか」
「はい」
「家のために我慢しているのではないか」
「いいえ」
クラリスは首を横に振った。
「私は、エルネスト様と婚約したいと思います」
母が息を飲んだ。
「クラリス」
「王都の布の流行について、仕立て屋から聞いた話をしてくださいました。きっと、ハーウッド家のことを考えて、覚えてきてくださったのだと思います」
クラリスは、あの時のエルネストの赤い耳を思い出した。
「怖い方ではありません。少なくとも、私にはそう見えました」
父も母も、すぐには頷かなかった。
それでも、クラリスの声が穏やかで、無理をしていないことは伝わったのだろう。
母は心配そうな顔のまま、けれど最後には小さく頷いた。
「では、もう少しだけ。何かあったら、すぐに言うのよ」
「はい」
こうして、クラリス・ハーウッドとエルネスト・レイヴンの婚約は、正式に進められることになった。
婚約が整ってから、エルネストは何度かハーウッド家を訪れるようになった。
最初の挨拶だけは父母も同席したが、その後はクラリスの希望で、少しずつ二人で話す時間を作るようになった。
もちろん、完全な二人きりではない。
応接間の壁際には侍女が控えている。庭を歩く時も、少し離れたところに使用人がいる。父母も最初のうちは隣室にいることが多かった。
それでも、クラリスにとっては十分に二人の時間だった。
エルネストは相変わらず無口だった。
応接間に通され、椅子に座り、出されたお茶に礼を言い、クラリスが話しかけると短く答える。
「今日は庭の薔薇が咲きましたの」
「……そうか」
「エルネスト様は花をご覧になります?」
「詳しくはない」
「では、あとで少しご案内しても?」
「……迷惑でなければ」
「まあ。迷惑ではありませんわ」
会話というには、あまりにも短い。
けれど、不思議とクラリスは苦にならなかった。
エルネストの沈黙は、人を拒む沈黙ではない。どう言葉を選べばいいか分からない人の沈黙だった。
少し待てば、彼は必ず答える。
それが分かると、沈黙は怖くなくなった。
庭へ出た時も、エルネストは無言でクラリスの少し後ろを歩いた。
大きな体のせいで、ただ歩いているだけでも護衛のように見える。使用人の一人が庭の端で彼を見て、びくりと肩を跳ねさせた。
エルネストはそれに気づくと、すぐに視線を逸らし、歩幅を少し小さくした。
怖がらせないようにしている。
クラリスはそう思った。
「エルネスト様」
「……何だ」
「その白い小花、可愛らしいと思いませんか」
クラリスが庭の隅を指すと、エルネストはそちらを見た。
薔薇ほど華やかではない。名前も知らないような小さな花だ。白い花びらが、控えめに風に揺れている。
「私は、ああいう花も好きです。目立たないけれど、よく見ると可愛いですもの」
「……そうか」
エルネストはそれだけ言った。
しかし次に訪れた時、彼は小さな花束を持ってきた。
豪華な薔薇ではなく、白い小花を中心にまとめた、控えめで優しい花束だった。
贈り物を受け取ること自体は初めてではなかったが、その日はクラリスも驚いた。
「まあ」
クラリスが花束を受け取ると、壁際の侍女がそっと目を細めた。
エルネストは花束を差し出したまま、視線を少し横へ向けている。
「覚えていてくださったのですね」
「……好きだと、言っていたから」
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
エルネストは黙った。
視線を逸らした横顔は相変わらず怖いくらいに硬いのに、耳だけが分かりやすく赤くなっている。
その赤みを見て、クラリスは胸の奥がふんわり温かくなるのを感じた。
また別の日には、小さな髪飾りを贈られた。
銀色の細工に淡い青の石が一つだけついた、派手すぎないものだった。クラリスが普段選ぶ装いに、よく合う。
「まあ、綺麗」
クラリスが箱を開けてそう言うと、エルネストは固まったように座っていた。
目つきは鋭い。
口元も引き結ばれている。
だが、膝の上に置かれた手が、ほんの少し強張っている。
緊張しているのだと分かった。
「エルネスト様が選んでくださったのですか?」
「……ああ」
「私の好きな色です」
「以前、青が好きだと」
「言いましたわ」
クラリスは髪飾りをそっと撫でた。
「覚えていてくださって、嬉しいです」
「……派手な方が、よかったか」
「いいえ。とても好きです」
エルネストは黙った。
クラリスは、また赤くなりかけている耳を見ないふりをした。
その髪飾りを次の茶会につけていくと、エルネストは応接間に入った瞬間、それに気づいたようだった。鋭い視線が一度クラリスの髪に向かい、すぐに逸れる。
その後、彼はしばらくお茶に手をつけなかった。
侍女が少し心配そうにしていたが、クラリスには分かっていた。
照れているだけだ。
そう思うと、何だか少し楽しくなった。
エルネストが怖がられていることに、クラリスは何度も気づいた。
訪問時、玄関先で若い使用人が盆を落としかけたことがある。エルネストはとっさに手を伸ばし、盆ごと支えた。
ただそれだけのことだった。
けれど使用人は青ざめ、「申し訳ございません!」と今にも泣きそうな声を出した。
エルネストはすぐに手を引いた。
「……怪我は」
低い声だった。
心配しているのだとクラリスには分かった。
しかし使用人はさらに震えた。
「ございません!」
「そうか」
エルネストはそれ以上何も言わず、少し距離を取った。
その横顔はいつも通り表情に乏しかったが、クラリスは彼の肩がほんの少し落ちたことに気づいた。
クラリスは少しずつ、エルネストのことが分かってきた。
彼は人を怖がらせたいわけではない。
むしろ、怖がらせないように、とても気を遣っている。
近づきすぎない。声を荒げない。動きを急がない。目を合わせすぎない。相手が怯えたら、すぐに離れる。
そうやって、彼はずっと生きてきたのだろう。
そんなある日の夕方、母がクラリスの部屋を訪ねてきた。
伯爵夫人が帰った後のことだった。
その日、伯爵夫人は母と長く話をしていた。クラリスはエルネストと庭を歩いていたため、二人が何を話していたのかは知らない。
母はいつになく静かな顔で、クラリスの向かいに腰を下ろした。
「クラリス」
「はい、お母様」
「伯爵夫人がね、少しだけエルネスト様の幼い頃のお話をしてくださったの」
クラリスは手にしていた刺繍枠を膝に置いた。
「エルネスト様の?」
「ええ」
母は膝の上で指を重ねた。
「あの方は、昔から誤解されやすかったそうよ。幼い頃、転んだ子に手を貸そうとしただけで泣かれてしまったことがあったのですって。周りの大人も、エルネスト様が泣かせたのだと勘違いしたそうなの」
クラリスは胸の奥が静かに痛むのを感じた。
幼いエルネストが、ただ手を伸ばそうとして、けれど相手に泣かれてしまった姿が目に浮かぶようだった。
「本当は優しい子なのです、と伯爵夫人はおっしゃっていたわ。でも、優しくしようとしても怖がられてしまうことが多くて、いつの間にか、何もしない方がいいと考えるようになってしまったのだそうよ」
母は小さく息を吐いた。
「私、少し恥ずかしくなったの。私たちも最初、噂とお顔だけで怖がってしまったから」
「お母様」
「あなたは、ちゃんと見ようとしたのね」
クラリスはしばらく何も言えなかった。
エルネストが怖がられて当然だと思っている理由が、少し分かった気がした。
彼は、最初から人を遠ざけたい人だったわけではない。
遠ざかる方が、相手を怖がらせずに済むと覚えてしまった人なのだ。
だから彼は、盆を落としかけた使用人を助けた後、すぐに距離を取った。
怖がらせないために。
これ以上、相手を怯えさせないために。
「お母様」
「なあに」
「私、次にエルネスト様がいらしたら、また庭をご案内しようと思います」
母はクラリスを見た。
クラリスは膝の上の刺繍枠をそっと撫でた。
「私は、エルネスト様とお話しする時間が好きですから」
母は何かを言いかけて、けれど言わなかった。
ただ、少しだけ目元を和らげた。
「そう」
「はい」
「では、そう伝えてさしあげなさい」
次にエルネストが訪れた時、クラリスは庭の白い小花の前で足を止めた。
「エルネスト様」
「……何だ」
「また、いらしてくださいね」
エルネストがこちらを見る。
鋭い目。
けれど今は、もう怖いとは思わなかった。
「私は、エルネスト様とお話しする時間が好きです」
エルネストは一瞬、何かを言いかけた。
けれど言葉にはならなかった。
代わりに、彼の耳が赤くなる。
「……ああ」
短い返事だった。
でも、その声は初めて会った時より、ほんの少しだけ柔らかかった。
婚約が進むにつれ、父と母も少しずつエルネストを知っていった。
クラリスが彼を怖がっていないこと。エルネストが乱暴な人ではなく、むしろ怖がらせないように気を遣いすぎる人であること。
それを理解してから、母は以前のように強く止めることはなくなった。
それでも、父も母も、クラリスが彼の言葉をもっと知る機会があればいいと考えたらしい。
ある日、母が一つ提案した。
「お手紙をやり取りしてみてはどうかしら」
「お手紙ですか?」
「ええ。あなたたちはお茶会でもきちんと会えているけれど、エルネスト様は少し口数が少ないでしょう? 文字なら、あの方も落ち着いて気持ちを伝えられるかもしれないわ」
母の言葉は、もうエルネストを疑うものではなかった。
ただ、彼が飲み込んでしまう言葉を、クラリスがもう少し受け取れたらいいと考えてくれているのだろう。
クラリスは少し考え、頷いた。
「そうですねえ。エルネスト様のお考えも、もっと知りたいですし」
その数日後、クラリスは初めてエルネストへ手紙を書いた。
内容はごく簡単なものだった。
先日いただいた花がまだ綺麗に咲いていること。髪飾りを母に褒められたこと。庭の薔薇がもうすぐ満開になりそうなこと。もしよろしければ、次に来た時にまた庭をご案内したいこと。
書き終えてから、少しだけ悩んだ。
あまり長すぎても困らせるかもしれない。
短すぎても、そっけないかもしれない。
結局、便箋二枚ほどに収めて封をした。
返事は三日後に届いた。
封筒はきちんと整っていた。字は少し角ばっているが、とても丁寧だった。
クラリスは自室の窓辺に座り、その手紙を開いた。
そして、一行目を読んで、思わず瞬きをした。
そこには、こう書かれていた。
『先日は、白い小花の名を教えてくださり、ありがとうございました。あれから屋敷の庭師に尋ねたところ、同じ花をレイヴン家の庭にも植えられると知りました。次の季節には、あなたが好む花をこちらでも見られるかもしれません』
クラリスはゆっくり読み進めた。
手紙の中のエルネストは、とてもよく話した。
庭で見た花のこと。クラリスが髪飾りをつけてくれた時のこと。淡い青がクラリスに似合っていたこと。ハーウッド家の布地の話をもっと聞きたいこと。
文章は控えめだが、丁寧で、温かかった。
『直接お伝えできればよいのですが、私は言葉を選ぶのに時間がかかります。沈黙が不快であれば申し訳ありません。ただ、あなたのお話を聞く時間を、私は嫌だと思ったことがありません』
クラリスはそこで手を止めた。
胸の奥が、ふわりと熱くなる。
さらに読み進める。
『あなたは、花や布を見る時、少し目元を和らげます。その表情を見ると、穏やかなものを穏やかなまま受け取れる方なのだと思います。私には難しいことです。だから、尊いことだと思います』
クラリスは便箋を持ったまま、しばらく固まった。
これは、本当にエルネストが書いたのだろうか。
あの、直接会うと「……そうか」と「……ああ」が多いエルネストが。
いや、字は本人のものかもしれない。けれど、誰かに文面を考えてもらったのではないか。
クラリスは真剣に悩んだ。
悩みながら、手紙を最初からもう一度読んだ。
すると、随所にエルネストらしさがあった。
言葉は丁寧だが、華美ではない。褒めてはいるが、過剰ではない。彼が実際に見て、覚えていてくれたことが書かれている。
これは、たぶん本人だ。
そう思うと、クラリスは何だか頬が熱くなった。
次にエルネストが訪れた時、クラリスはどうしても確かめたくなった。
その日は、二人で応接間にいた。
父母は最初の挨拶だけをして、すぐに席を外している。壁際には侍女が一人、静かに控えていた。
エルネストはいつものように椅子に座り、いつものように怖い顔でお茶を飲んでいた。
クラリスはしばらく迷った後、口を開いた。
「あの、エルネスト様」
「……何だ」
「先日は、お手紙をありがとうございました」
「……ああ」
「とても嬉しかったです」
「そうか」
エルネストの視線が、ほんの少しだけ逸れた。
クラリスはそれに気づいたが、見ないふりをして、思い切って尋ねた。
「あまりに素敵なお手紙だったので、少し疑ってしまいました」
エルネストの手が止まった。
壁際の侍女が一瞬だけ目を伏せる。
けれどクラリスは真面目だった。
エルネストはしばらく黙っていた。
鋭い目が、さらに鋭くなる。
「疑ったのか」
「はい。だって、お会いしている時のエルネスト様より、ずっとお話し上手でしたもの」
「……俺が書いた」
低い声だった。
いつもの礼儀正しい響きより、少しだけ素に近い声だった。
「本当に?」
「……本当に」
「どなたかに文面を考えていただいたわけでもなく?」
「違う」
低い声だった。
けれど、怒っているわけではない。
むしろ、ひどく恥ずかしそうだった。
クラリスはぱっと顔を明るくした。
「まあ」
「……そんなに意外だったか」
「少しだけ」
「……そうか」
「でも、嬉しいです。お手紙だと、とてもお話し上手なのですねえ」
エルネストは黙った。
クラリスは、彼の首筋まで赤くなり始めていることにも気づいたが、それもやはり見ないふりをした。
「……顔が、見えないから」
クラリスは瞬きをした。
エルネストはカップを置き、視線を落とした。
「直接だと、怖がらせる」
低い声が、静かに続く。
「声も、顔も、目つきも。何を言っても、怒っているように聞こえるらしい。だから、言葉を探しているうちに黙ってしまう。黙れば、余計に怖がられる」
応接間が静かになった。
侍女も、何も言わなかった。
「手紙なら、顔を見せずに済む。声も聞かせずに済む。だから……少しは、伝えられるかと思った」
クラリスは、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
その言葉は、あまりにも不器用で、あまりにも寂しかった。
エルネストはずっと、そう思ってきたのだ。
自分は怖がられる。
だから、言葉を飲み込む。
近づかない。
手を伸ばさない。
クラリスはゆっくり微笑んだ。
「では、私はお手紙も楽しみにしていますし、お会いしている時のエルネスト様のお言葉も楽しみにしております」
エルネストが顔を上げた。
「……俺の?」
「はい。短くても、ちゃんと嬉しいですわ」
彼は何か言おうとして、やはり言えなかった。
ただ、低く呟いた。
「……努力する」
「まあ」
クラリスはにこりと笑った。
「ありがとうございます」
その日から、手紙のやり取りは続いた。
エルネストの手紙は、回を重ねるごとに少しずつ長くなった。
クラリスが贈ったハンカチについて、丁寧に書いてくれたこともある。
『あなたの刺繍は、主張しすぎないのに目を離しがたい。小さな花なのに、そこに時間をかけた人の静かさまで残っているようでした。あなたらしいと思いました』
クラリスはそれを読んで、しばらくハンカチを見つめた。
刺繍を褒められたことはあった。
けれど、その刺繍をした時の自分まで見てもらえたように感じたのは、初めてだった。
またある時は、クラリスが「最近、雨が多くて庭に出られません」と書いた返事に、こんなことが書かれていた。
『雨の日の窓辺で本を読むあなたは、とても穏やかに見えます。その時間を邪魔したくはありませんが、もし許されるなら、次の雨の日に似合う本をお持ちしたいです』
クラリスはその手紙を読んだ後、しばらく頬を押さえた。
直接言われたら、きっとこちらが照れてしまう。
いや、直接言われることはないかもしれない。
エルネストは会うと相変わらず無口だった。
けれど、少しずつ変化はあった。
クラリスが「今日は雨ですね」と言うと、以前なら「そうだな」で終わっていた。
今は、少し間を置いてから、
「……足元が悪い。庭に出るなら、気をつけた方がいい」
と言う。
クラリスが「この布は、光に当てると色が変わって見えるのです」と言うと、以前なら頷くだけだった。
今は、布に視線を落とし、
「……綺麗だ」
と短く言う。
そのたびに、クラリスは彼の小さな変化に気づいた。
視線が一瞬だけ逃げること。
返事までに、いつもより長い間が空くこと。
カップを持つ指に、ほんの少し力が入ること。
そして、それを見ないふりをするのが、クラリスは少しずつ上手になっていった。
クラリスの気持ちも、少しずつ変わっていった。
最初は、怖い人ではなさそうだと思った。
次に、不器用で優しい人だと思った。
そして今は、彼が自分にだけ少しずつ言葉を渡してくれることが、嬉しかった。
怖がられ続けてきた人が、怖がらせないために飲み込んできた言葉を、少しずつこちらへ向けてくれる。
それは、とても大切なものを預けられているような気持ちだった。
だが、ハーウッド家の全員がエルネストを受け入れたわけではなかった。
ルカ・ハーウッド。
クラリスの三歳下の弟である。
十五歳になったばかりのルカは、姉をたいそう慕っていた。
幼い頃から、クラリスが本を読んでくれたり、破れた袖を直してくれたり、怖い夢を見た夜に手を握ってくれたりしたせいもある。
ルカにとって、クラリスは少しのんびりしていて、優しくて、放っておくと自分のことを後回しにする姉だった。
だからこそ、彼はこの婚約に最初から反対だった。
「姉上は騙されている」
ルカは何度もそう言った。
「エルネスト様は騙すような方ではないわ」
「姉上はそうやってすぐ人を信じる!」
「すぐではありません。ちゃんと見ました」
「見た結果、あれが怖くないって言うなら、姉上の目が心配だ!」
「まあ」
クラリスは困ってしまった。
ルカはエルネストと顔を合わせたことが何度かある。
そのたび、彼は物陰から警戒心いっぱいにエルネストを睨んでいた。もっとも、エルネストの方が目つきが鋭いため、睨み合いになるとルカが先に震える。
それでもルカは引かなかった。
「あの人、姉上の前では大人しいだけかもしれない」
「そうかしら」
「家が苦しい時に婚約の話なんて、絶対に何か裏がある」
「レイヴン伯爵家との取引は、正式な契約に基づくものよ。お父様も確認しているわ」
「でも!」
ルカは唇を尖らせた。
「姉上は、家のためなら我慢するだろ」
クラリスはその言葉に、少しだけ黙った。
ルカの心配は、的外れではない。
クラリスは家族が好きだった。ハーウッド家も、家業も、使用人たちも大切だった。
もし本当に家のために我慢しなければならない場面が来たら、自分は我慢してしまうかもしれない。
そういう自分を、クラリス自身も否定しきれなかった。
けれど、エルネストと過ごす時間を思い返した時、胸に浮かぶのは義務だけではなかった。
丁寧に置かれたカップ。
短くても必ず返ってくる言葉。
白い小花を覚えていてくれたこと。
手紙の中で、少しずつ言葉を渡してくれたこと。
それらを思い出すたびに、クラリスは少し嬉しくなる。
だからこれは、我慢ではない。
クラリスは弟の頭に手を伸ばしかけたが、ルカはもう十五歳である。子ども扱いされるのを嫌がる年頃だ。
代わりに、彼の袖口のほつれに気づいた。
「ルカ、袖がほつれています」
「今はそんな話じゃない!」
「あとで直しますね」
「姉上!」
ルカは怒ったような声を出したが、耳が少し赤い。
クラリスは微笑んだ。
この子も、分かりやすい。
だが、ルカの不信感はなかなか消えなかった。
父母が少しずつエルネストに慣れ、使用人たちも彼が乱暴な人ではないと分かり始めても、ルカだけは頑固だった。
そして、ある日の午後。
その頑固さが、ついに爆発した。
その日、エルネストはいつものようにハーウッド家を訪れていた。
クラリスは応接間で彼と向かい合い、王都で新しく流行り始めた薄紫の布について話していた。
父母は席を外しており、壁際には侍女が一人控えているだけだった。
「薄紫は綺麗ですけれど、合わせ方が難しいのです。白と合わせれば上品になりますが、少し寂しくも見えてしまいますし」
「……銀は」
「銀?」
「銀の糸なら、寂しくならないかもしれない」
クラリスは目を輝かせた。
「まあ。素敵です。エルネスト様、布合わせがお上手になっていらっしゃいますね」
「……そうか」
エルネストは視線を逸らした。
クラリスは、その反応を見ないふりをして微笑んだ。
その時だった。
廊下にいた使用人が止める間もなく、応接間の扉が勢いよく開いた。
「姉上!」
ルカが飛び込んできた。
普段ならありえない振る舞いだった。
だが、その日のルカは礼儀よりも姉への心配が勝っていたのだろう。
侍女が驚いて一歩動きかけたが、クラリスがそっと手で制した。
「ルカ?」
ルカは扉の前で立ち止まり、エルネストを見た瞬間、明らかに怯んだ。
エルネストも立ち上がる。
背の高い彼が立つと、応接間の空気が一気に狭くなる。
ルカの肩がびくりと揺れた。
けれど、彼は逃げなかった。
顔色を悪くしながらも、拳を握りしめ、エルネストの前に立ちはだかる。
睨んでいるつもりなのだろう。
少し涙目だったが。
「姉上を騙そうとしてるんだったら、ただじゃおかねぇ!」
「ルカ」
クラリスの声が、いつになく低くなった。
「そのお言葉遣いは、エルネスト様に失礼です」
応接間が静まり返った。
ルカはびくりと肩を揺らし、クラリスを見る。
エルネストは表情を変えなかった。
ただ、彼の目つきが緊張でさらに鋭くなった。
ルカが一歩後ずさる。
しかし、踏みとどまった。
「……姉上を欺くつもりなら、私は許しません」
言い直した声はまだ震えていた。
けれど、彼なりに必死に礼儀を取り戻そうとしているのが分かった。
「ルカ、落ち着いて」
「落ち着いています!」
「とても震えています」
「震えていません!」
震えていた。
だが、ルカは必死だった。
エルネストはしばらく黙っていた。
その沈黙が、ルカにはますます怖かったのだろう。彼は声を張り上げた。
「姉上は優しいから、家のために我慢しているだけです! エルネスト様が怖くても、嫌でも、きっと笑って大丈夫って言うんです! だから私が言います!」
クラリスは口を開きかけた。
しかし、その前にルカが続けた。
「姉上を不幸にするなら、私は絶対に許しません!」
その言葉は、乱暴で、未熟で、子どもっぽかった。
でも、そこには確かに姉を思う気持ちがあった。
クラリスは胸が痛くなった。
ルカは本気で心配してくれている。
だからこそ、きちんと伝えなければならない。
そう思った時、エルネストが低く口を開いた。
「……君の言うことは、分かる」
ルカがびくりとした。
エルネストの声は低かったが、怒ってはいなかった。
「俺は、怖がられる。君がそう思うのも当然だ」
「と、当然だと思うなら、姉上から離れてください!」
「ルカ」
クラリスがたしなめる。
だがエルネストは首を横に振った。
「いい」
そして、彼はルカを見た。
真正面から。
ルカは今にも逃げ出しそうだったが、姉の前だからか必死に踏みとどまっている。
「俺は、クラリス嬢を騙してなどいない」
エルネストの声は、ゆっくりしていた。
一言ずつ、確かめるように。
「家のために、彼女を縛るつもりもない。もし彼女が望まないなら、婚約は解消する。それでハーウッド家に不利益が生じるなら、俺個人ができる範囲で償う」
クラリスは驚いてエルネストを見た。
そんなことを、彼は考えていたのか。
「俺は、彼女に無理をさせたいわけではない」
エルネストの手が、かすかに握られる。
「ただ」
そこで、彼は一度言葉を切った。
逃げなかった。
視線も逸らさなかった。
「俺は、クラリス嬢を愛している」
クラリスは息を止めた。
ルカも固まった。
応接間の外で、誰かが何かを落としたような小さな音がした。
騒ぎを聞きつけたのだろう。
扉は開かない。けれど、母か父がすぐそこまで来ている気配がした。
エルネストは続けた。
「手紙では、彼女を大切に思っているとは何度も書いた。だが、口で伝えたことはなかった。怖がらせると思ったからだ。言葉に詰まって、困らせると思ったからだ」
彼の目は鋭かった。
それでも、クラリスには分かった。
今、彼はとても怖いのだ。
拒まれることが。
笑われることが。
また怖がられることが。
「だが、君が彼女の気持ちを疑うなら、俺も逃げるわけにはいかない」
ルカは何も言えなかった。
エルネストは、低く、はっきりと言った。
「俺は、クラリス嬢を大切にしたい。彼女が俺を選んでくれるなら、その気持ちを疑わせるようなことはしない」
クラリスの胸に、ゆっくりと熱が広がった。
手紙の中では、何度も優しい言葉をもらった。
でも、直接聞く声は違った。
低くて、不器用で、怖がらせないように慎重で、それでも逃げずに向けられた言葉。
クラリスは立ち上がった。
「ルカ」
弟がびくりとこちらを見る。
「私は、家のためだけにこの婚約を受けたわけではありません」
「でも」
「最初は、家のことも考えました。けれど今は違います」
クラリスはエルネストを見た。
彼はまだ硬い顔をしている。
クラリスは微笑んだ。
「私は、エルネスト様が好きです」
エルネストが目を見開いた。
ほんのわずかに。
だがクラリスには分かった。
「怖い人と、怖く見える人は違うのよ、ルカ」
クラリスは弟に向き直る。
「エルネスト様は怖く見えるかもしれないけれど、怖い方ではないわ。私が話したことを覚えていてくださる。使用人が困っていると助けようとしてくださる。私を怖がらせないように、いつも気をつけてくださる」
「姉上……」
「私は、我慢しているのではありません」
クラリスは少しだけ照れた。
でも、ここで曖昧にしてはいけないと思った。
「エルネスト様のお隣にいたいと思っています」
ルカは、泣きそうな顔になった。
怒っているようにも、安心したようにも見える。
「……本当に?」
「本当です」
「無理してない?」
「していません」
「怖くない?」
「怖くありません」
クラリスは少し考え、付け足した。
「たまに、目つきはとても鋭いですけれど」
ルカがエルネストを見る。
エルネストは気まずそうに視線を逸らした。
「……すまない」
「そこで謝るのかよ」
ルカが思わず呟いた。
空気が、少しだけ緩んだ。
クラリスは小さく笑った。
ルカはまだ納得しきってはいないようだった。だが、少なくとも姉が無理やり我慢しているわけではないことは伝わったらしい。
彼はしばらくエルネストを睨んでいたが、やがて小さな声で言った。
「姉上を泣かせたら、許さないからな」
「……ああ」
エルネストは真剣に頷いた。
「誓う」
その声があまりに重々しかったので、ルカはまた少し怯んだ。
だが今度は逃げなかった。
「あと、姉上は寒いのを我慢するから、冬はちゃんと暖かくしてやって」
「ルカ?」
「それから、針仕事を始めると食事を忘れる時がある」
「ルカ」
「甘いものは好きだけど、甘すぎるものは苦手で、焼き菓子なら木苺のジャムが入ったやつが好きで」
「ルカ」
クラリスは顔が熱くなってきた。
エルネストは真面目な顔で聞いている。
「分かった」
「本当に分かったのか?」
「ああ。冬は暖かくする。食事を忘れさせない。焼き菓子は木苺」
「……そこまで真面目に聞くとは思わなかった」
ルカが小さく呟いた。
エルネストは表情を変えない。
「クラリス嬢に関わることなら、覚える」
クラリスは今度こそ何も言えなくなった。
耳が赤いのは、エルネストだけではなかったかもしれない。
その後、扉の外で待っていたらしい母が涙ぐみながら入ってきた。
父も咳払いをしながら、その後ろに立っている。
「若い者同士の話を邪魔するつもりはなかったのだが、あれだけ大きな声が聞こえたら、さすがに放ってはおけなくてな」
「全部聞いてたのかよ!」
ルカが叫び、母に抱きしめられてさらに騒いだ。
エルネストはその騒がしさの中で、少し困ったように立っていた。
クラリスはそっと隣に近づいた。
「エルネスト様」
「……何だ」
「先ほどのお言葉、とても嬉しかったです」
彼の耳がまた赤くなった。
「……手紙では、書いていた」
「はい。でも、お声で聞くと、また違いますねえ」
「……そうか」
「はい」
クラリスは小さく笑った。
「また、聞かせてくださいませ」
エルネストは黙った。
すぐには答えられないようだった。
けれどしばらくして、彼は低く言った。
「……努力する」
その言葉が、クラリスには何より嬉しかった。
それから、ハーウッド家の空気は少し変わった。
父はエルネストを見ると相変わらず背筋を伸ばしたが、以前のように青ざめることは少なくなった。母は彼の好物を聞き出そうとし、伯爵夫人と手紙を交わすようになった。
使用人たちも、最初ほど怯えなくなった。
もちろん、初めて会う者は今でも驚く。玄関先でエルネストを見上げ、息を飲む者もいる。
けれどハーウッド家の使用人たちは知っている。
彼が落とした盆を拾ってくれること。
怪我はないかと、不器用に気にかけてくれること。
礼を言うと、少し困ったように視線を逸らすこと。
ルカもまだ完全には警戒を解いていなかったが、以前のように「騙されている」とは言わなくなった。
代わりに、エルネストが来るたびに妙な確認をするようになった。
「姉上に甘すぎる菓子を出してないだろうな」
「……出していない」
「姉上が寒そうにしてたら、ちゃんと言えよ」
「分かっている」
「姉上が大丈夫って言っても、本当は大丈夫じゃない時があるからな」
「覚えている」
エルネストは毎回、真面目に答えた。
ルカはそれを聞いて、満足そうな、悔しそうな顔をする。
クラリスはそのやり取りを見るのが、少し楽しかった。
婚約は穏やかに続いた。
ハーウッド家の事業も、レイヴン伯爵家との取引によって少しずつ持ち直していった。父は新しい仕入れ先を確保し、母は王都の流行に合わせた布の提案を始めた。
父の帰宅は、以前より少し早くなった。
帳簿を閉じる時のため息も、前ほど重くない。
それだけのことが、クラリスにはとても嬉しかった。
クラリスも、できる範囲で手伝った。
エルネストは時折、王都で見た服飾の流行を手紙で知らせてくれる。
『薄紫に銀糸を合わせたドレスを見た。あなたが以前話していた通り、白よりも輪郭が柔らかく見える。ハーウッド家の布なら、もっと上品に仕立てられると思う』
クラリスはその手紙を父母に見せ、母が「エルネスト様は本当に見る目がおありね」と感心した。
手紙の中のエルネストは、相変わらず優しかった。
そして、直接会うエルネストも、少しずつ言葉が増えた。
「その色は、似合う」
「今日は、顔色がいい」
「疲れているなら、座った方がいい」
「……会えて、嬉しい」
最後の一言を言った時、彼はしばらくクラリスを見なかった。
クラリスは、見ないふりをした。
見ないふりをしながら、ずっと覚えていようと思った。
ある晴れた午後、クラリスとエルネストはハーウッド家の庭にいた。
あの日、エルネストが覚えてくれた白い小花は、今も庭の隅で控えめに揺れていた。
薔薇のように人目を引く花ではない。
けれど、エルネストはそれを覚えていてくれた。
クラリスが彼の赤い耳に気づいたように、彼もまた、クラリスの小さな好きを見落とさなかった。
薔薇はまだ満開ではないが、柔らかな葉の間に色づいた蕾が見えた。
クラリスは薄青のリボンを髪に結び、以前エルネストから贈られた銀細工の髪飾りをつけていた。
エルネストは隣を歩いている。
相変わらず背が高く、肩幅が広く、表情はあまり動かない。庭師が遠くから見て少し緊張するくらいには、まだ怖い。
けれどクラリスは、もうその顔を見ても最初のようには思わなかった。
この人は、怖い人ではない。
怖く見えることを知っていて、それでも誰かを大切にしようとする人だ。
「エルネスト様」
「……何だ」
「最初にお会いした日のことを覚えていらっしゃいます?」
「ああ」
「お茶を、とても早く飲んでいらっしゃいました」
エルネストが黙った。
「……熱かった」
「まあ。そうでしたの?」
「いや」
彼は少しだけ視線を逸らした。
「緊張していた」
クラリスは笑った。
「知っていました」
「……知っていたのか」
「はい。耳が真っ赤でしたもの」
エルネストは片手で顔を覆いかけ、途中でやめた。
「見ていたのか」
「少しだけ」
「少しではないだろう」
「まあ」
クラリスは口元に手を当てた。
「では、たくさん」
エルネストは深く息を吐いた。
怒ってはいない。
困っているだけだ。
クラリスには、もうそれが分かる。
「エルネスト様」
「……何だ」
「私、あの日に気づけてよかったです」
彼がこちらを見る。
鋭い目。
でも、今は怖くない。
「耳が赤いことに?」
「それもですけれど」
クラリスは庭の白い小花に視線を落とした。
「怖い方ではないと、気づけてよかったです」
風が静かに吹いた。
エルネストはしばらく黙っていた。
その沈黙は、もう寂しいものではなかった。
「俺も」
低い声がした。
「君が、気づいてくれてよかった」
クラリスは顔を上げた。
エルネストはまっすぐ前を見ている。
けれど、耳が赤い。
クラリスは微笑んだ。
「エルネスト様」
「……何だ」
「今日も耳が赤いですわ」
「……見ないでくれ」
「では、見ないふりをいたしますねえ」
「ふりでは意味がない」
「まあ。難しいです」
クラリスが笑うと、エルネストは困ったように視線を逸らした。
それでも、彼は隣から離れなかった。
クラリスも、離れなかった。
きっとこれからも、彼は知らない人には恐ろしい人に見えるのだろう。
けれどクラリスだけは知っている。
その怖い顔の奥で、誰よりも優しい言葉を探している人だということを。
恐ろしいと噂の婚約者様は、今日もやっぱり、耳まで真っ赤だった。




