表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

マーク・ロスコについて(トマからの電話)

作者: 鏡杏花
掲載日:2026/04/19

トマという謎めいた男からの電話。

 その、薄暗い部屋にマーク・ロスコの絵があると彼は言った。赤の上の黄褐色と黒という作品がある、と。私はその絵を見るためにその薄暗い部屋に出向いた。梅雨の時期、普段なら昼寝をしている時間帯に、私はそこでマーク・ロスコの『赤の上の黄褐色と黒』を見た。とても静かで謎めいた印象だったが、私はほんの十分ほどその絵を眺めてすぐに帰ってしまった。実に静かで眠くなってしまい、私は傘をさして雨粒が残骸になるのを一歩ずつ観察しながら帰った。


 新調したばかりのネイビーのトラウザーズの裾が雨水で汚れた。鏡に映り込むようなはっきりとした息を漏らしながら、本棚の側にあるロッキングチェアの背もたれにトラウザーズを掛け、背もたれに背中を預けないようにしてロッキングチェアに座った。私は本を手に取ったが、どうしてかその本を開けないような気がした。というより、その本を開いても、どうしようもないような気配がした。そういう予見は普通のことではなかったし仮にそれがレコードであれば針を落としてもどうしようもないような気がするということなどこれまでに一度もなかった。しかし、この数週間私はこういう奇妙な動悸によく見舞われた。彼にマーク・ロスコの絵を見ろと言われてからのことだ。


 彼は私に、会う前に、マーク・ロスコの絵を見てきて欲しい、と電話で言った。彼の言葉には、妙に力が秘められているような感じがして、声が、 Esの領域に直接触れてくるような、受話器を置いた時には既に私の身体が彼に指定された薄暗い部屋へと向かい始めているような、奇妙な錯覚に私は陥った。


 私は彼のことをトマと呼んだ。とても静かで謎めいた男だったからだ。トマとは私が参加した「物質の円」という唯物論的イマージュを持ち寄るグループ展をきっかけに知り合った。知り合ったと言っても、私はそのグループ展の設営の段階で来る場所を間違えたと思いそれから搬出の日まで顔を出さなかった。トマは私の作品を見て主宰の永沢という男から番号を聞き出し、私に電話をよこしたのだ。


 一度目の電話はこういった内容だった。


 あ、あの企画展、酷かったですね、はは、柳川さんですよね? 僕、柳川さんの絵、凄く抒情的だなあと思って、なんだか、いたたまれない気持ちになっちゃったんですよね、ええ、だって、柳川さん、抒情的な人だから、誰かに騙されるような形であの企画展に参加したんじゃないですか? ああ、きっとそうだと思いましたよ、僕だって、外出できる日なんて限られてるのに、たまったもんじゃないですよ、いやあ、参ったな、柳川さんって結構無口な人なのかな、あの絵を見た時は、そんな風には思わなかったんだけどな、


 と、そんな調子のことを十分ほど話した。私は相槌を打ったり質問には本当のことを答える以外特に自分から何かを聞いたりはしなかった。よく喋る男だと思ったが、決して頭が悪そうな印象や不快感は与えてこなかったどころか、私はトマに対して静かな印象さえ抱いたのだった。窓の外から聞こえているはずの雨の音が、受話器の向こうから聞こえているように思えるほどだった。


 初めてトマから電話が来た時、私はロイヤルミルクティーを作っている最中だった。ステンレス製の雪平鍋に茶葉をティースプーン山盛り二杯入れて熱湯を注ぎ強火で煮込んでいる時に電話が鳴った。普段なら番号も見ずに無視することも多いのだが、どうしてか私はその時迷わず応じた。受話器からトマの声を聞きながら、沸騰する赤い液がずっと視界の先で震えたり泡立ったり消えたりしていた。


 十年以上使っている赤いマグがある。ミルクを加えた紅茶を赤いマグに注いだ時、瞬時に三つか四つの記憶が私の脳裏を走り抜けたのがわかった。それ自体は珍しい出来事ではなかったが、若干遅れてトマの声が後頭部のあたりで反芻され、少し眩暈がした。柳川さん、抒情的な人だから。私は初めてトマの声を聞いてからしばらくの間絵のことを考えられなくなった。


 一度目の電話があった六日後の午後、再びトマからの着信があった。しかし私はその時電話に応じなかった。昼寝の最中だった。


 私はその日、朝起きてすぐにシュガートーストと味のしないスクランブルエッグを食べ、三倍ほど濃くしたネスカフェの粉末コーヒーを飲みながら本を読もうとした。赤いマグの底に落とした粉末に熱湯を注いでロッキングチェアに腰掛けて、私はまず、半月前に紀伊国屋書店で買った新品の『百年の孤独』を開いた。しかし、目次の頁の裏面に書かれたブエンディア家の家系図をざっと見て、すぐに読むのを諦めてしまいそうだと思った。


 トマは私を無口な人だと言った、絵を見た時には、そんな風には思わなかった、とも言った。一体、どういう意味なのだろうか? 私はトマの言葉が奇妙に感じられるとともに、何故か、トマが、恐ろしく無口な人物のように思えてきた。


「ブエンディア家家系図」を捲ると、長い歳月が流れて、と続いた。私はそこで、ぱたりと本を閉じてしまった。長い歳月が流れて、という書き出しがそこにはあって、どうしてか私は海を眺めたいと考えていたのだった。十分に時間があったので、私は海を想像しようとした。


 ほんの数秒だけ、額の内側に海が見えた。それはごく平凡な海で、女性がうっとりするような海ではなかった。私はその海をしばらく眺めようとしたが、駄目だった。ある時から私は想像力の制御が難しく、ふと不安定になるとトマの声が途切れがちに聞こえてくるようになっていたのだ。


 あなた、無口な人でしょう? ええ、もしかすると、あの絵も、無口だったのかもしれませんね、僕、何か、勘違いしてたのかな、いや、違うな、奴らに騙されたんですよ、あの唯物論者達ですよ、酷いですよねえ、僕達みたいに無口な人間は、どうしてこうも騙されやすいんだろうか、そうは思いませんか?


 トマはそんなことを私に言った。それは、単なる私のセルフトークであったのかもしれないのだが、トマの声は、低く落ち着いていながらも、まるで、詩を朗読しているかのような説得力があって、私には、その声を真剣に聞くより仕様がないように思えた。


 海が見えなくなった後、私は、自分は無口な人物なのだろうか、と考え始めた。しかし、最初から答えを出すつもりはなかった。自分の意志を、聴こうとした。そうしているうちにコーヒーは冷め切っていて、冷たくなった赤いマグの手触りに長い歳月のようなものを感じて早くこのコーヒーを飲み干して眠ってしまおうそうしないと今度の眠りの機会はそう簡単にやって来ないだろう、今すぐだ、今すぐ眠ってしまおう、と思った。私の持つ意志などというものはその程度のものだった。


 眠りについてから四十分ほどの体感だったが、実際には私はもっと眠っていたのかもしれない。電話が鳴っていた。私は、わかった、雨は降り続けている、ガルシア=マルケスは偉大な作家で、私はどちらかと言えば無口な人物であり、トマからの電話だろう、と。


 もう、何日も雨が降り続けている。



 マーク・ロスコの絵を見てきて欲しい、という留守電が入っていた。女の声だったが、私に留守電で用事を伝えるような知り合いは一人もいなかったので、その女はトマの身内か何かだろうと私は思った。折り返しの電話をかけると、留守電とは違う声の女が出た。女は、電話に出るなり、XX病院から業務委託を受けている片山という者ですが、と、いきなりそう言った。相手の方も、そう頻繁に電話がかかってきたりすることがない環境を作っているのだろうと思った。


 トマという男を、いや、そちらの番号から、絵を見てきて欲しいと留守電があったのですが、と私は言った。


「あら、そう、すぐにJさんに代わりますから、そのまま、待っていてくださるかしら」


 女は、やけに馴れ馴れしくなって、そう言った。


 ジェイ?


「ええ、すぐそこにいますから、彼、朝食をとっている最中でして、大丈夫ですよ、もう、すぐに食べ終わりますから」


 まだ、七時だった。夜中に留守電を入れたということだろう。私は早朝から外出したりしないし、傘をさして歩くのが嫌いだから、この頃はほとんど外に出ていない。


「柳川さん?」


 馴染みのある、低い声だった。ああ、マーク・ロスコが、なんだって?


「あのですね、僕、ずっと、柳川さんに一度お会いしたいと思っていたんです、それでね、会う前に、マーク・ロスコの絵を見てきて欲しいんです、要するにですね、柳川さんと、マーク・ロスコの話をしたいんです、どうです、見たこと、あったりします?」


 ないな、抽象的な絵は、精神的に、悪い影響を受けやすいから、あまり見ないようにしてるんだ、と私は言った。美術館で、通り過ぎたことはあるかもしれないな、と思った。


「そうでしたか、いやあ、そんな気はしてたんですけどね、僕、滅多に外に出れないもんですから、いつ会えるのかわからないし、まだまだ先になりそうですし、いつでも大丈夫なんで、是非、いや、ここはあえて、絶対に見てきてください、と言っておきます」


 外に出れないって、どういうことだ?


「僕ね、年中治験のアルバイトしてるんです、って言っても、インターネットで検索して出てくるようなやつじゃなくてね、詳しくは言えないけど、ほとんど黒に近いグレーなやつなんだ、だからね、詳しくは言えないんだけど、普通の治験モニターより、自由がなくてね、まあ、会える日があったら、こちらから連絡させてもらいますから、とにかく、マーク・ロスコを見てきてもらいたいんですよ」


 どんな薬を、試すのか、聞いてもいいか?


「いやいや、別に大したことないですよ、一番、危なかったのでも、LSDとか、その程度ですから、面白い話なんて、ありませんよ、曲がったって、ベッドで寝たきりですからね、ハハ、それで、場所、今伝えますから、メモ、できます?」


 私は、手帳とペンを用意するフリをするために、十秒ほど黙ってから、いいよ、と言った。


「県庁前に、大きな交差点がありますよね、和歌山城の、南側です、その辺りに、弁当屋さんがあるんです、いかにも、老舗って感じの、オレンジ色の看板を出してる、弁当屋さんがあって、その弁当屋さんから、右側を見たら、やけに薄暗い部屋があるんです」


 部屋?


「ええ、行ってみれば、僕の言ってること、わかると思います、薄暗い部屋、としか言いようがないんです、その、薄暗い部屋に、マーク・ロスコの絵がありますから、赤の上の、黄褐色と黒、という作品なんです」


 わかった。私は、外側から見て、それが薄暗い部屋だとわかるような家や建造物を想像しながら、そう言った。


 ところで、ジェイって、なんだ?


「ああ、一応、面接があったんですけどね、その時に、偽名でもいいってことだったんで、そう名乗っただけです」


 私には、どうしても薄暗い部屋というものがイメージできなかった。


「日本人だから、ジェイ、です。それじゃ、お願いしますね、片山に代わりますから、ええ、さっきの女です」


 もう一つだけ、いいか?


「何ですか?」


 永沢が、俺のことを、何か言っていなかったか?


「いやあ……特に何も、聞いてませんけどねえ、だってあの人、アートに関わっていたいだけの人じゃないですか? そうだ、柳川さんのこと、一つだけ言っていましたね、あの人、電話には出ないと思うよ、って言って、何か、柳川さんのことをよく知っている風に、笑ってましたね、ハハ」


 そうか、わかった、ありがとう。


 電話を代わると女はまた馴れ馴れしく話をし始めた。栄養を考慮するのは、スープだけでいいんです、その他は、患者の食べたいものにするのが、結局は、一番体にいいんです、と言ったところで、私は何も言わずに電話を切った。置いた受話器からまだ女の声が聞こえてくるような錯覚が五秒間だけ耳に残った。



 三度目の電話の後、数週間経ってから、私はマーク・ロスコの絵を見に行った。私の記憶では、トマにマーク・ロスコを見に行って欲しいと言われてから、私が絵を見に行くまでの間、ずっと雨が降り続いていた。


 弁当屋は閉まっていて、シャッターに張り紙があった。誠に勝手ながら世界亭は令和四年六月三十日をもちまして閉店する事となりました。私は張り紙を何度か読んで、右を向いた。道路を跨いで、ガードレールの向こうに、薄暗い部屋としか言いようがない薄暗い部屋があった。


 マーク・ロスコの絵は、とても静かだった。私は、マーク・ロスコは無口な人物だろうと考えた。トマにマーク・ロスコの絵が抽象的だと言ったことを申し訳なく思ったトマは私とマーク・ロスコの話をしたいと言った赤の上に黄褐色と黒があったぼんやりと光っているような絵だった私は絵画の発光を初めて見たその明かりの中で眠ってしまいたくなった。


 帰り道、数人の男とすれ違った。皆、急ぎ足で、傘で顔が隠れていた。



 数ヶ月が経ってもトマからの連絡はなかった。梅雨が明けて、雨が降らない日が続いていた。ある日から私は絵のことをまた考えるようになり、青空についての制作に取り掛かっていた。


「物質の円」で展示した絵が百二十万円で売れて、決して贅沢はできないにしても生活のためにアルバイトをしたりする必要はなく、一日中制作に没頭していられたし、ここ最近はどんな本も読めるようになっていた。売れたのは『ホワイト、白と不在の交渉の順序について』という題の大きな絵で、買ったのはニセコに別荘を持つ中国人だった。


 私は新しい制作に夢中で、トマのことをほとんど忘れかけていたのだが、ふと思い出したのは、画材を買いに行った帰りに寄った古本屋でモーリス・ブランショの『謎のトマ』を見つけたからであった。


 私はその本を三百円で買い、家に帰って一時間もかからずに読み終えてしまった。『謎のトマ』を読み終えて、私は、トマは一ヶ月の入院でどれくらいの報酬をもらっているのだろうか、などと考えた。百万程度なら、絵を描く方が、健全で、割に合うんじゃないか。


 梅雨の時期、私は本が開けなかった。思うに、私は言葉を発したかったのではないだろうか。


『赤の上の黄褐色と黒』を描いた時期のマーク・ロスコも、きっと私と同じで、言葉を発したくて、本を開くことができなかったに違いない。


 もうしばらくは、トマからの電話を待つことにする。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ