第22話 帰って来た男
私はアドール、リヴェルト様、それからストーレン伯爵とともにヴェレスタ侯爵の屋敷の玄関にやって来ていた。
私達の目の前には、見知った男がいる。髭を伸ばしたその顔が以前とは少し違う印象を与えてくるが、それはまず間違いなくアドラス様だ。
「……ただいま」
アドラス様は、アドールの方を見ながらそう呟いた。
まるで今朝出掛けて戻って来たかのように自然なその挨拶に、私達は呆気に取られてしまっている。
彼は一体、何を考えているのだろうか。それが三年も見捨てていた子供にかける言葉なんて、にわかには信じられないことである。
「……あなたは父上ですか?」
「ああ、僕はアドラスだ。少し変わってしまっているけれど、わかるかい?」
「ええ、あなたの顔を忘れてなんていませんよ」
アドールは、特に表情を変えることもなくアドラス様の言葉に答えていた。
その口調は平坦だ。私にはわかる。アドールはとても怒っているのだと。
彼は今まで、アドラス様への怒りを口にしてきた。それは嘘偽りなどではない。彼の中で、この父親というのは許せない存在なのである。
「そうか……良かった」
「良かった?」
「しばらく離れ離れになっていた訳だが、やはり親子の繋がりというものは切れていないものみたいだな」
アドラス様は、そんなアドールの怒りをまるで理解していないようだった。
父親であるというのに、これがわからないものなのだろうか。ここまでわかりやすいというのに、私には信じられない事柄である。
まさか彼は、本気でアドールに情が残っているなんて思っているのだろうか。それはなんとも、愚かしきことである。
「勝手に家を出てしまったことについては、すまなかったと思っている。ただ、アドールはその試練を乗り越えてくれると思っていたんだ。そのために、妻も迎え入れた」
「……っ!」
「だけど、少し失敗してしまってね。そう、海の向こうの国で事業に失敗してしまったんだ。その補填をアドールに頼みたい」
アドラス様の言葉に、アドールの表情は歪んでいた。
彼のそのような表情は、初めて見る。今までだって怒ったことはあった。だが、今の彼はこれまでとは違う。
その表情を見て、私の心は震えていた。別に恐怖を感じているという訳ではない。ただアドールが、何に対して怒っているのか理解できたのだ。
「補填なんて、する訳がないでしょう」
「……何?」
「僕はあなたを許さない、父上……いや、アドラス!」
アドールは、父親に対して指を差して言葉を発した。
いや、既にアドラス様は彼の父親ではないのだろう。息子の鋭い視線は、敵に向けるものだ。最早アドラス様は、怨敵でしかないのだろう。
「許さない? アドール、何を言っているんだ?」
アドールの言葉を受けたアドラス様は、ぽかんとしていた。
息子から明確に拒絶されている。その事実に彼は、驚いているようだ。
しかし、それが私からすればわからない。拒絶される理由なんて、いくらでもあるというのに。
「……わからないのですか?」
「……置いていってしまったことは、すまないと思っている」
「僕のことなど、この際どうでもいいことです。問題は、義母上のことだ」
アドールは、自分のことを一瞬で切り捨てた。
それがどうでもいいことであるはずはない。置いていかれてしまったことに、彼は傷ついていた。
だけどアドールは、他のことに激しい怒りを覚えている。それが何かは、怒った時から察しがついていた。私はアドールの母親だ。それくらいのことはわかる。
「フェレティナのこと? それがどうしたというんだ?」
「あなたは、義母上を縛り付けた。義母上が僕を見捨てられないとわかっておいて、結婚した。それがどれ程非道なことか……」
「非道……?」
アドールの言い分には、私も色々と思う所がある。
私は、彼の母親になったことについて後悔などはしていない。むしろ幸せなことだと思っているくらいだ。それを口にしたい気持ちもあった。
しかし私は、黙っておくことにした。ここは、アドールの意思を尊重するべきだろう。彼も私がここにいることは嬉しいと思ってくれているとわかっていることだし。
「アドール、君はフェレティナのことを慕っているのだろう。母と呼んでいるくらいだ。それは間違いないはずだ」
「……それが、なんだというんです?」
「それなら良かったじゃないか。僕の目は間違っていなかったということになる」
「なっ……!」
アドラス様の言葉に、アドールは固まっていた。
彼の表情からは、困惑が読み取れる。
それはそうだろう。アドラス様の言葉は、理解することができない。それくらい歪なものだ。
彼は一体何を言っているのだろうか。その神経が、私にはわからない。きっとこの場にいるアドラス様以外の人は、誰も理解していないだろう。
「あ、あなたは一体何を言っているんですか?」
「フェレティナを妻に迎えたことは、間違いではなかったと言っているんだ。そうだろう? どうしてそれがわからないんだ」
「……あなたには、人の心すらないのか」
アドラス様に対して、アドールはゆっくりと吐き捨てた。
ただ、考えてみればそれは当然のことなのかもしれない。
息子を捨て、恋人を手にかける。そんなアドラス様に、人間らしい感情を求める方が無理な話だったということだろう。
「……御託はもういい」
アドールとアドラス様との会話を、私達はずっと黙って聞いていた。
その沈黙を破ったのは、ストーレン伯爵だった。彼は、ゆっくりとアドールの前に立つ。甥を庇っているということだろう。
いや、どちらかというと隠しているのかもしれない。自分がアドラス様に対して向けている激しい怒りを。
「あなたは……義兄上」
「お前に兄と呼ばれるなど反吐が出る。それは昔から思っていたことではあるが、今はその思いがより強くなっている」
「……あなたは、何をお怒りになっているのですか?」
「当然、アドールのことを置いて行ったことだ。お前は最低の屑だ、アドラス……」
ストーレン伯爵は、アドラス様を睨みつけていた。
憎しみがあるということは、理解していた。これまでの言動から、それは明らかだったといえるだろう。
しかし本人を前にしたストーレン伯爵は、思っていたよりも冷静だ。すぐにでも飛び掛かっていくものだと、思っていたからである。
「だが、今俺は喜んでいる。逃げたと思っていたお前が、こうしてのこのことこのヴェレスタ侯爵家に戻って来てくれた。始末が楽になる」
「始末?」
「曲がりなりにも侯爵として務めてきたお前にも、誇りの一つや二つくらいはあったことだろう。潔くその首を差し出せ。そうすれば、楽に殺してやる」
ストーレン伯爵は、笑顔を浮かべていた。
その笑みは、邪悪だ。しかしとても嬉しそうでもある。正直言って、少し引いてしまう。
ただ、気持ちは理解できない訳ではない。アドラス様がこの屋敷に戻って来てくれたことは、とてもありがたいことだからだ。
「……申し訳ないが、僕は死ぬわけにはいきません」
「ふん、お前の意見などは求めていない。お前の死は決まっている」
「僕が死んだら、アドールが困りますよ」
「我が甥は賢い。既にお前のことなど見限っている」
「そういうことではありませんよ」
「何?」
アドラス様は、ストーレン伯爵の言葉にゆっくりと首を振った。
彼には、少し余裕があるような気がする。それはこの状況で、出て来るようなものではない。
「僕が今置かれている状況を、説明しましょうか? 実は事情の失敗のせいで、借金を背負っていましてね。悪い人達に追われているんです」
「なんだと?」
「僕を助けないのは勝手です。しかしそうなったら、その人達はここに取り立てに来ますよ。そういう人達ですから」
アドラス様は、爽やかな笑みを浮かべていた。
どうやら彼は、合理的な判断に基づいて言葉を発していたらしい。その冷静さも、彼の歪な所だ。
しかし状況はあまり良くない。アドラス様が持ち込んできた問題は、私達にとってとても厄介なものである。




