第14話 彼女の呼び方
アドールとエメラナ姫の婚約については、とりあえず暫定的に決まったものだ。
これからそれを正式なものにしなければならない。そのためにはまず国王様と話さなければならないのだが、忙しい国王様とすぐに話ができる訳でもない。
という訳で、この話はしばらく先送りということになっている。その間にエメラナ姫も父親を説得すると言っていた。それは私達にとっては、非常にありがたいことだ。
「婚約などはいつかするものだとは思っていましたが、まさかこんなにも早くそういった話が出るとは思っていませんでした」
「まあ、そうでしょうね」
私とアドールは、例によって夜の話し合いをしていた。
議題については、アドールの婚約に関することだ。目先の問題であるので、当然話はそういう流れになった。
「でもそういったことは人それぞれよ。アドールみたいな年で決まる子もいるし、私みたいに中々決まらなかった子もいる」
「そういえば、フェレティナ様は遅かったのですね」
「ええ、以前あった縁談が色々とあって破談になってね。それでしばらく、婚約者が決まらなかったのだけれど……」
「父上が縁談を持ち掛けたのですね」
私の縁談に関して、私自身はそれ程よく知っている訳ではない。
それはお父様とアドラス様との間に取り決められたことだからである。
一応話は、アドラス様の方から出したということであるそうだ。彼は前妻を亡くしてから、ずっと妻を探していたらしい。
「……こういうことは言いたくありませんが、父上はきっと僕を置いて行くためにフェレティナ様を選んだのでしょうね」
「え?」
「父上は、フェレティナ様が僕を見捨てないとわかったから結婚したのだと思います。父上はあなたの善性に付け込んだのでしょう」
アドールは、とても冷たい目をしていた。
その目からは、父親であるアドラス様への深い怒りが伺える。
それが誰のための怒りであるかは明らかだ。その気持ち自体は嬉しい。ただ、一つだけ言っておかなければならないことはある。
「アドール、私は別にここにいることに対して、何の後悔もしていないわよ?」
「はい。それはわかっています。でも、やはり父上は許せません。フェレティナ様がここにいてくれることへの喜びとそれは、矛盾していますが、僕の中では両立するものなのです」
「そう……」
アドールの気持ちは、そんなに簡単なものではないらしい。
それは当然のことだろう。アドラス様の行動は、アドールの心を深く傷つけているのだから。
ただ、私がここにいることを喜んでくれているなら、私としてはそれでいい。私はしっかりと寄り添って、アドールの心を癒していくだけだ。
「そういえば、エメラナ姫はフェレティナ様のことを……」
「うん?」
「あ、いえ、なんでもありません……」
婚約に関する話の最中、アドールは不自然に言葉を途切れさせた。
彼が口にしたのは、エメラナ姫からの私への呼び名だ。恐らく、お義母様という呼び方に関して、アドールは何かが言いたいのだろう。
それについては、実の所私も気になっていない訳ではない。ただ、中々に切り出しにくいことでもある。
アドラス様と結婚した私は、一応アドールの母親だといえなくもない。
いや、一応などではない。法の元において、私はアドールの母親であり保護者である。
といっても、それを口を大にしていえるという訳でもないというのが、正直な所だ。
アドールには、亡くなった前ヴェレスタ侯爵夫人というれっきとした母親がいる。彼にとって母親とは彼女のことであり、私のことではないのだ。
だから呼び方も、フェレティナ様なのである。
それをわざわざ変える必要があるという訳でもない。
私は、今までアドールと良好な関係を築けていたつもりだ。今更変に関係性を変えるというのは、余計なことでしかないだろう。
「いや、すみません……エメラナ姫は、フェレティナ様のことをお義母様、と呼んでいましたね?」
「え? ええ、まあ、そうね」
私が色々と考えていると、アドールが沈黙を破ってきた。
彼は私が思っていた通りのことを述べている。やはりそれが、気になっていたということだろうか。
しかしよく考えてみれば、それが気になるということは、アドールも呼び名を変える意思などがあるということなのかもしれない。
いや、そんな風に期待するべきではないだろう。私は彼にとって、母と呼べるような存在ではないのだから。
というかそもそも、私は母親と呼ばれたいのだろうか。呼び方一つで何かが変わるという訳ではないはずなのに。
「僕もフェレティナ様のことをそう呼ぶべきなのでしょうか?」
「……いえ、別に無理してそんな風に呼ぶ必要はないのよ?」
「別に無理ではありませんよ。僕はフェレティナ様のことをそう呼んでもいいと……いいえ、呼びたいと思ってはいるんです」
アドールの言葉に、私は少し固まってしまった。
それは彼の態度が、微妙だったからだ。
呼びたいと口にしているが、それをアドールはなんというか嬉々として述べている訳ではない。嫌そうという訳でもないのだが、とにかく歯切れが悪いのだ。
そういう態度は、やはり無理をしているということではないのだろうか。
そう思って私は、少し眉を顰めることになってしまった。
「……アドール、本当に無理なんてしなくていいのよ?」
「フェレティナ様?」
アドールの少しぎこちない態度を見て、私の心は少しだけ冷めていた。
母という呼び方に対して、私は少し変にこだわり過ぎていたかもしれない。私は、そのように思えるようになっていた。
恐らく私は、彼ともっと近づきたいという思いから、変に意識し過ぎていたのだろう。
私とアドールとの関係は、一言では言い表せないようなものだ。だが、それは決して悪いことではない。呼び方なんて、きっとそんなに重要なことではないだろう。
なんというか、心は割と晴れやかだ。今の私は、迷いなく言葉を紡ぐことができる。
「あなたの母親は、亡くなったお母様だもの。私のことを同じように思う必要なんてないのよ?」
「……いいえ、それは違います」
「え?」
私に対して、アドールは強い否定の言葉を発してきた。
その言葉にはなんとか、怒気が含まれているような気がする。彼がそのように反発してくるなんて、珍しいことだ。私は少し、いやかなり面食らってしまっている。
「フェレティナ様のことを、僕は亡きお母様と同じように思っています。あなたの包み込んでくれるような優しさは、お母様と変わりありません」
「そ、そうなの? そう言ってもらえるのは、嬉しいことではあるけれど」
「僕にとって、お母様とフェレティナ様は比べるようなものではありません。どちらも僕にとっては大切な存在で……」
「そうなのね……ごめんなさい。私が間違っていたわ」
アドールの言葉を聞いて、私は愚かなことを言ったと思った。
まるで私が母親ではないかのような言い草は、彼にとっては傷つくものだったのだ。それをまったく理解していなかった私は、愚かとしか言いようがないだろう。
彼がそう思ってくれていたことは、正直とても嬉しいことだ。ただ、それなら少しわからないことがある。
彼はどうして、あんなに歯切れが悪かったのだろうか。
あれはどう考えても、躊躇っている様子だった。私を母親のように思ってくれているなら、何を躊躇っていたのだろうか。
「えっと、それならアドールはどうして苦い顔をしていたのかしら?」
「それは……その、フェレティナ様はまだお若いではありませんか」
「若い?」
「母と呼ぶよりも、姉と呼んだ方が良いのではないかと思ってしまって……」
「……ふふっ、なるほど」
アドールの言葉に、私は思わず笑みを浮かべてしまった。
その気遣いは、確かに必要なものなのかもしれない。私の年齢で、彼の年齢の子供はまずあり得ないものだ。
故に母と呼ぶと私が怒るかもしれない。アドールの中には、そういった葛藤があったようだ。
「お姉様というのも、捨てがたいものではあるわね?」
「そ、そうですか?」
「ええ、言われてみれば、悪くない響きであるような気がする」
アドールの意図がわかって、私の肩の力は完全に抜けていた。
お姉様という呼び方も、魅力的なものではある。年齢差を考えれば、そちらの方が良いのかもしれない。いや、姉弟としては離れすぎているだろうか。
ただ私としては、どちらかというと母親としての気持ちの方が、大きいような気がする。その差は自分でも、よくわからないものなのだが。
「どちらにしても、私はアドールと家族ということよね」
「……ええ、そうですね」
ただ一つ明確なことは、私とアドールは家族であるということであった。
血の繋がりなどはなくても、私達には確かな絆がある。それが今、改めて理解できた。
だから、本当に呼び方なんてものは関係ないのだろう。ただ、せっかくこういった話になった訳だし、違う呼び方をしてもらうのもいいかもしれない。
「まあ、私としては母親の気持ちかしらね。一応、アドラス様と結婚している訳だし、そちらの方が立場としてはしっくりくるのよ。ずっとそういう気持ちだったというか」
「そういう気持ちですか……それならやはり、お義母様、でいいのでしょうか?」
「え、ええ……そうね。それでいいというか」
アドールは、私をそっと見つめながら母と呼んでくれた。
それに私は、少し固まってしまっている。思っていた以上に、嬉しかったからだ。
「あ、でも、そうですね。義母上という方が、正しいかもしれません」
「え?」
「いえ、お義母様だとなんというか、甘えている気がしてしまって……」
そこでアドールは、少し頬を赤らめた。
言われてみれば、彼はアドラス様のことは父上と呼んでいる。お父様という呼び方ではない。
恐らく、母親の方は幼少期の呼び方のままだった、ということだろう。呼び方を変える前に亡くなってしまったため、そこから更新されていなかったといった所か。
「まあ、その時々によって変えても良いのではないかしら? 公的な場では義母上でもいいし……そもそも、フェレティナ様のままでも構わないわ。いきなり変えるのも難しいでしょうし、こうした戯れの時とかに呼んでくれるだけでも、私としては嬉しいわ」
「そ、そうですか?」
「ええ、重要なのは私とアドールが、お互いのことを家族だと思っているということだもの」
「それは……そうですね」
私の言葉に、アドールは笑顔を返してくれた。
その笑顔を見ていると、心が安らいでくる。きっとそういった気持ちこそが、最も大切なものなのだろう。




