生きている
夜の冷たさが骨まで染みるようになった頃だっただろうか。どうにも布団に入っても寝付けない日々が続いていた。まぶたを閉じても明日の帳簿の数字や、次の返済日までの残高のことばかりが浮かんでしまう。
この生活を、あと何年続けられるのか。答えはどこにも書いていないのに、頭の中だけで延々と計算を繰り返していた。
そんな夜、わたしは隣に寝そべっている犬をそっと撫でることにする。
真っ黒な毛並みに指を入れると、ふわりとした温もりとともに小さく喉を鳴らす音が返ってくる。吠えることもなければ、何かを求めるように尻尾を振ることもない。ただ、そこにいてくれるだけで十分だった。
背中に手のひらを置き、ゆっくりと上下に動かす。規則的な呼吸に合わせて身体がわずかに膨らみ、縮む。わたしもそれに合わせるように息をしてみると、さっきまで暴れていた心臓の鼓動が徐々に落ち着いていった。
「おやすみ」
声には出さなかったけれど、そう思いながら手を離した瞬間、意識はすぐに闇へ沈んだ。
次に視界が開けたとき、そこは病院だった。
消毒液のにおいと、どこからともなく聞こえてくるモニターの電子音。足元は冷たくて硬い床で、自分の服だけがいつも通りよれよれのパジャマだった。
診察室に入ると、白衣の医師がカルテをぱたりと閉じる。
「末期です」
彼女はそれ以上、多くを語らなかった。検査結果のグラフを見せられても、聞き慣れない臓器の名前を告げられても、なぜか涙は出てこなかった。ただ、胸の奥に穴があいたような静かな空白が広がった。
驚かなかった理由を考えたとき、ふと気づいた。
今まで“借金”という形で背負っていた大きな不安に対して、いま目の前に示されたのは別の“残り時間”という数字だったのだ。
支払えないかもしれないローン、滞納の可能性、取り立ての電話。これまで漠然と怖れていたあれこれが、急に遠く霞んでいく。代わりに浮かび上がったのはもっと直接的で、覆しようのない終焉の姿だった。
「あと三ヶ月ですか?」
尋ねると、医師はゆっくり首を横に振る。「もう少し短いかもしれません」と。
――短い?
わたしは思わず笑ってしまった。人生は長いようでいて、振り返れば十年二十年なんて瞬く間に過ぎてしまう。だが残された数週間、あるいは十日未満という単位は、途方もなく短い気がした。
不思議なことに、悲しくなるよりも先に、猛烈な後悔が押し寄せた。
もし時間があったら、もし健康だったら、もし金銭的な問題がなかったら……。今まで何度も耳にしてきた「もし」が今度は自分に向かって襲いかかる。
ベッドに戻され点滴を打たれている間、天井の蛍光灯を眺めていた。借金はなくなるのだろうかと考えたが、たぶん相続人に引き継がれるだけだ。あの子──わたしと一緒に暮らしている犬はどうなるのだろう。施設に入れられるのだろうか。
思考はぐるぐると回転するが、どれ一つとして決定権を持たない無力な未来予想図ばかりだった。
すると突然、誰かが廊下を駆ける足音が近づいてきて、扉が勢いよく開いた。
目を開けると、そこには見慣れた天井のシミがあった。
カーテンの隙間からは薄い朝日が差し込み、部屋の空気はまだひんやりとしている。隣を見ると、黒い犬が丸くなって眠っていた。わたしの右手はその背中に載せられたまま固まっていて、爪の先が毛の中に埋まっている。
浅い息をつく。鼻の奥に消毒液のにおいはない。聞こえるのは換気扇のうなりと、外を通る車の走行音だけだ。
夢だった、ということはすぐに理解できた。しかし同時に、胸の中心にある奇妙な重みが消えてくれないのも事実だった。
体を起こして窓を開けると、冷たい風が流れ込んできて頬を刺した。街路樹の葉がほとんど落ちてしまい、枝だけが青空に向かって伸びている。景色は何ひとつ昨日と同じなのに、世界が少し違って見える。
借金は減っていない。毎月の返済日も迫っている。仕事のアポイントメントも山積みだ。わたしが明日死ぬわけではないし、医者に呼び出されることも、きっと当分はない。
それでも確かに、何かが変わっていた。
「生きてるな」
声に出してみる。犬が片目だけ開けてこちらを見上げ、小さく舌を出した。そうだ、生きている。借金を抱えて、疲れ果てて、明日の計算に追われながらも、こうして息をしている。
それは救いでも祝福でもない。ただ、揺るぎなく起きている事実として目の前に在った。
だから今日は、とりあえず立ち上がる。犬のご飯を用意して、散歩に行き、掃除機をかける。昼になったらコンビニで安い弁当を買い、午後の会議に備えるために資料を開く。
借金が消えるわけじゃない。長生きできる保証もない。けれど、夢の中で直面させられた「終わりの時計」のおかげで、少なくともわたしは「生きている時計」をもう一度手渡されたようだった。
これといった教訓はない。世界は変わりもしない。けれど、ふと夜更けに天井を見つめることがあったら、わたしは思い出してみるつもりだ。
黒い犬の体温と、あの静かな病院の白さと、そして目覚めたときに感じた微かな震えを。
何も解決していない。何も終わっていない。ただ、その曖昧で中途半端な地点に、いま自分が立っていることを。
そういうわけで、物語はここで終わらないし、始まりでもない。
今日もまた、同じ一日を続ける。だけど、昨夜までの「同じ」ではないかもしれない。小さな違いが混ざったまま、わたしは再び日常へ歩いていく。犬のリードを握りしめながら、確かめるように。




