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生きている

掲載日:2026/02/03

夜の冷たさが骨まで染みるようになった頃だっただろうか。どうにも布団に入っても寝付けない日々が続いていた。まぶたを閉じても明日の帳簿の数字や、次の返済日までの残高のことばかりが浮かんでしまう。

 この生活を、あと何年続けられるのか。答えはどこにも書いていないのに、頭の中だけで延々と計算を繰り返していた。


 そんな夜、わたしは隣に寝そべっている犬をそっと撫でることにする。

 真っ黒な毛並みに指を入れると、ふわりとした温もりとともに小さく喉を鳴らす音が返ってくる。吠えることもなければ、何かを求めるように尻尾を振ることもない。ただ、そこにいてくれるだけで十分だった。

 背中に手のひらを置き、ゆっくりと上下に動かす。規則的な呼吸に合わせて身体がわずかに膨らみ、縮む。わたしもそれに合わせるように息をしてみると、さっきまで暴れていた心臓の鼓動が徐々に落ち着いていった。

 「おやすみ」

 声には出さなかったけれど、そう思いながら手を離した瞬間、意識はすぐに闇へ沈んだ。


 次に視界が開けたとき、そこは病院だった。

 消毒液のにおいと、どこからともなく聞こえてくるモニターの電子音。足元は冷たくて硬い床で、自分の服だけがいつも通りよれよれのパジャマだった。

 診察室に入ると、白衣の医師がカルテをぱたりと閉じる。

 「末期です」

 彼女はそれ以上、多くを語らなかった。検査結果のグラフを見せられても、聞き慣れない臓器の名前を告げられても、なぜか涙は出てこなかった。ただ、胸の奥に穴があいたような静かな空白が広がった。


 驚かなかった理由を考えたとき、ふと気づいた。

 今まで“借金”という形で背負っていた大きな不安に対して、いま目の前に示されたのは別の“残り時間”という数字だったのだ。

 支払えないかもしれないローン、滞納の可能性、取り立ての電話。これまで漠然と怖れていたあれこれが、急に遠く霞んでいく。代わりに浮かび上がったのはもっと直接的で、覆しようのない終焉の姿だった。

 「あと三ヶ月ですか?」

 尋ねると、医師はゆっくり首を横に振る。「もう少し短いかもしれません」と。


 ――短い?

 わたしは思わず笑ってしまった。人生は長いようでいて、振り返れば十年二十年なんて瞬く間に過ぎてしまう。だが残された数週間、あるいは十日未満という単位は、途方もなく短い気がした。

 不思議なことに、悲しくなるよりも先に、猛烈な後悔が押し寄せた。

 もし時間があったら、もし健康だったら、もし金銭的な問題がなかったら……。今まで何度も耳にしてきた「もし」が今度は自分に向かって襲いかかる。


 ベッドに戻され点滴を打たれている間、天井の蛍光灯を眺めていた。借金はなくなるのだろうかと考えたが、たぶん相続人に引き継がれるだけだ。あの子──わたしと一緒に暮らしている犬はどうなるのだろう。施設に入れられるのだろうか。

 思考はぐるぐると回転するが、どれ一つとして決定権を持たない無力な未来予想図ばかりだった。

すると突然、誰かが廊下を駆ける足音が近づいてきて、扉が勢いよく開いた。


目を開けると、そこには見慣れた天井のシミがあった。

カーテンの隙間からは薄い朝日が差し込み、部屋の空気はまだひんやりとしている。隣を見ると、黒い犬が丸くなって眠っていた。わたしの右手はその背中に載せられたまま固まっていて、爪の先が毛の中に埋まっている。

浅い息をつく。鼻の奥に消毒液のにおいはない。聞こえるのは換気扇のうなりと、外を通る車の走行音だけだ。

夢だった、ということはすぐに理解できた。しかし同時に、胸の中心にある奇妙な重みが消えてくれないのも事実だった。


体を起こして窓を開けると、冷たい風が流れ込んできて頬を刺した。街路樹の葉がほとんど落ちてしまい、枝だけが青空に向かって伸びている。景色は何ひとつ昨日と同じなのに、世界が少し違って見える。

借金は減っていない。毎月の返済日も迫っている。仕事のアポイントメントも山積みだ。わたしが明日死ぬわけではないし、医者に呼び出されることも、きっと当分はない。

それでも確かに、何かが変わっていた。


「生きてるな」

声に出してみる。犬が片目だけ開けてこちらを見上げ、小さく舌を出した。そうだ、生きている。借金を抱えて、疲れ果てて、明日の計算に追われながらも、こうして息をしている。

それは救いでも祝福でもない。ただ、揺るぎなく起きている事実として目の前に在った。


だから今日は、とりあえず立ち上がる。犬のご飯を用意して、散歩に行き、掃除機をかける。昼になったらコンビニで安い弁当を買い、午後の会議に備えるために資料を開く。

借金が消えるわけじゃない。長生きできる保証もない。けれど、夢の中で直面させられた「終わりの時計」のおかげで、少なくともわたしは「生きている時計」をもう一度手渡されたようだった。


これといった教訓はない。世界は変わりもしない。けれど、ふと夜更けに天井を見つめることがあったら、わたしは思い出してみるつもりだ。

黒い犬の体温と、あの静かな病院の白さと、そして目覚めたときに感じた微かな震えを。

何も解決していない。何も終わっていない。ただ、その曖昧で中途半端な地点に、いま自分が立っていることを。


そういうわけで、物語はここで終わらないし、始まりでもない。

今日もまた、同じ一日を続ける。だけど、昨夜までの「同じ」ではないかもしれない。小さな違いが混ざったまま、わたしは再び日常へ歩いていく。犬のリードを握りしめながら、確かめるように。

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