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さまざまな短編集

夏の日の中

作者: 仲村千夏

 夏の陽射しは、どこか懐かしい匂いを伴って町の通りを照らしていた。蝉の声が途切れなく響き、空は真っ青で、ところどころに白い入道雲が浮かんでいる。風は熱を帯び、歩くたびに背中にじわりと汗を滲ませる。


 はるかは、そんな町に戻ってきたのが久しぶりで、少し戸惑いながらも懐かしさに胸を躍らせていた。大学の夏休みを利用して、祖母の住む町に帰省しているのだ。都会の雑踏やクーラーの効いた教室から逃れて、ここで過ごす数週間は、彼女にとって束の間の自由でもあった。


「はぁ……やっぱり夏の匂いって、いいな」


 縁側に腰かけたまま、遥は深く息を吸い込む。庭の向こうには小さな畑が広がり、青々とした野菜や花が太陽の光を浴びている。かすかな土の匂いと、遠くで草刈り機の音が混ざり合って、夏らしいにぎやかさを醸し出していた。


「おばあちゃん、ただいま」


 家の中から柔らかい声が返ってきた。


「おお、遥。暑い中ご苦労さん。水でも飲んで涼みなさい」


 祖母の笑顔は変わらず、白髪混じりの髪が日に透けて光っている。小さな町の家は昔のまま、木造で、縁側に置かれたすだれが揺れるたびに、涼やかな影を作っていた。


 遥は手にしていたバッグを下ろし、庭の水道で手を洗うと、祖母の差し出す冷たい麦茶を受け取った。飲むと、甘さとひんやりした感触が喉を滑り、汗が一気に引くような気がした。


「ところで、奏は今日も来るの?」


 祖母がぽつりと聞く。遥の幼馴染、かなではこの町で育った友人で、夏になると毎年一緒に遊んだ相手だ。


「うん、午後から川辺で待ち合わせしてるんだ」


 遥は微笑んだ。思い出せば、小学生の頃、川で遊ぶときはいつも奏と一緒だった。水鉄砲で水をかけ合い、木陰でかき氷を分け合い、夕方になるまで夢中で遊んでいたのだ。今ではお互いに少し大人になったけれど、夏の匂いと空の色は、あの頃の気持ちを呼び覚ましてくれる。


 昼下がりの町は、夏の光に包まれながらも、どこかゆったりとした時間が流れていた。道を歩く人々は少なく、通り沿いの商店街のシャッターは半分閉まっている。蝉の声と、遠くで聞こえる自動車のエンジン音だけが、町の静けさを軽く揺らしていた。


 午後になると、遥は奏と約束した川辺へと向かった。夏の日差しは容赦なく、白い砂利道が眩しく反射している。小さな橋を渡り、川沿いの木陰に足を踏み入れると、心地よい涼しさが体を包んだ。水面に映る空の青と、揺れる葉の影が揺らめき、まるで時間がゆっくりと溶けていくかのようだった。


「遥、久しぶり!」


 声の主は奏だった。髪をざっくりと後ろで束ね、麦わら帽子を斜めにかぶっている。少し日に焼けた肌と笑顔は、子どもの頃と変わらない。


「奏! 元気だった?」


 二人は照りつける太陽の下で笑い合い、川の水に足を浸した。水は冷たく、砂利の感触が心地よく、幼い日の記憶と重なって胸が温かくなる。


「今年の夏も、一緒に遊ぼうね」


 奏の目がきらりと光った。その瞬間、遥はふと、自分がこの町で過ごす夏の日中の一瞬一瞬を、大切にしたいと強く思った。


 川の水に足を浸したまま、二人は小さな石を蹴って遊んだ。水面に跳ねる波紋は光を反射してキラキラと輝き、蝉の声や遠くの鳥の鳴き声と混ざって、夏の音楽を奏でているようだった。


「覚えてる? 小さいころ、ここでカニ捕まえたこと」


 奏が笑いながら言った。遥も思い出して、顔がほころぶ。


「うん! でも逃げられちゃったんだよね」


 川辺の岩に座り、二人はしばらく水の流れを見つめた。太陽の光が水面に反射し、キラキラと揺れる景色は、まるで時間まで柔らかく溶けてしまったかのようだった。


「暑いけど、やっぱり夏っていいな」


 遥はつぶやくように言った。都会の喧騒や冷房の効いた部屋では感じられない、生きているような暑さがここにはある。奏も頷き、木陰に差し込む光と影を見上げた。


 川遊びの後、二人は町の商店街をぶらぶら歩いた。夏祭りの準備のためか、通り沿いには提灯や短冊が飾られ、風に揺れる度に影が踊る。焼きそばやかき氷の匂いが漂い、二人の足を止めた。


「かき氷、食べようよ」


 奏が目を輝かせる。遥も同意し、商店の前に並ぶと、かき氷のメニューにはイチゴ、メロン、ブルーハワイ、そして昔ながらの練乳味が並んでいた。


「私は練乳にする!」


 遥が決めると、奏は迷わずブルーハワイを選んだ。二人は手に受け取ると、氷の冷たさに思わず声を上げた。


「冷たいけど、すごくおいしい!」


 水を含んだ氷の感触が口の中で溶け、甘さが喉を潤す。蝉の声に混じって、二人の笑い声が町の空気に溶け込んだ。


 そのまま小さな公園に向かい、ブランコに腰掛ける。風が吹くと、緩やかに揺れる木々の葉のざわめきが耳に心地よい。遥は空を見上げた。入道雲はどんどん形を変え、まるで生き物のように流れている。


「子どものころは、ずっとこの夏が続けばいいのにって思ってたんだよね」


 奏が遠くを見つめながら言った。


「うん、でも今は、この一瞬を大事にしたいって思う」


 遥も同じ気持ちだった。変わらない風景、変わらない笑顔、そして少しずつ変わっていく自分たち。夏の光は、そんな時間の流れをやさしく包み込んでいた。


 午後の陽は少し傾き始め、影が長く伸びる。二人は公園を後にし、川沿いの小道を歩きながら、遠くで鳴くカラスの声を聞いた。風に乗って、田んぼの稲穂がさわさわと揺れる音も届く。夏の匂いが鼻をくすぐり、蝉の声は少しずつ輪唱のようになって、町全体を包んでいた。


「今年の夏も、思い出いっぱい作ろうね」


 遥は奏の手をそっと握る。小さな約束だったけれど、心の中でしっかりと刻まれた。日差しはまだ強いけれど、夕方の涼しい風が頬を撫で、夏の日中の熱さと心地よさが混ざり合う。


 町の外れにある神社まで歩くと、木々の間から差し込む光が小道を金色に染めていた。小さな鈴の音が風に揺れて、柔らかな音色が二人の足音と重なる。遥は深呼吸をして、町と空の色を胸いっぱいに吸い込んだ。


「ここ、変わってないね」


 奏が微笑む。昔のままの神社の境内は、二人が子どものころにかけ回った記憶そのままだった。砂利を踏む感触、鳥居の木の香り、蝉の声……すべてが夏の光景として心に残っている。


 神社の境内でしばらく座り、遥と奏は静かに時間を過ごした。夕方の光は柔らかく、入道雲はオレンジ色に染まり、空全体が夏の名残を惜しむように色を変えていく。


「もうすぐ、日が沈むね」


 奏の声は少し寂しそうだった。遥も同じ気持ちだった。夏休みの間、この町で過ごす時間は長いようで短く、もうすぐ終わりが近づいているのを肌で感じていた。


「そうだね。でも、また来年もこうして戻ってこれるよ」


 遥は少し笑って、そう答えた。二人の足元では、砂利の上に落ちた葉が、夏の光に照らされて金色に輝いている。


 境内の端にある小さな池の水面が、夕陽を映してゆらゆらと揺れている。水面に映るオレンジの光が、まるで夏そのものを閉じ込めたようで、二人は見入ってしまった。


「ねえ、覚えてる? 子どものころ、ここで一緒に金魚すくいしたこと」


 奏が懐かしそうに笑う。遥も頷いた。


「うん、あのときは負けてばかりだったけど、楽しかったな」


 幼い頃の記憶が、夕陽の光に溶けるように二人の心に広がる。時折、遠くで風鈴の音が鳴り、夏の終わりを告げるかのようだった。


 夕方の風は、日中の熱気を少しだけ和らげ、二人の頬を撫でる。蝉の声はまだ力強く響くが、空気には夕暮れ特有の静けさが漂い、夏の暑さと涼しさが交互に混ざり合う。


「暑かったけど、今日は本当に楽しかった」


 遥は心からそう思った。川で遊び、かき氷を食べ、町を歩き、昔の思い出に触れながら、今の自分を感じる。夏の日中の時間は、ただ流れていくものではなく、自分たちの心に刻まれるものだった。


「うん、私も。こうして笑っていられるのって、幸せだよね」


 奏の笑顔は、夕陽の光を受けて輝いていた。二人は互いの目を見つめ、言葉にならない感情を共有する。夏の日差しが作り出す影と光は、二人の心に穏やかな余韻を残す。


 日が沈み、空は徐々に紫色を帯び、遠くで赤く染まる雲が漂い始めた。町の家々の窓に明かりが灯り、静かな夜の準備が進む。風は少しひんやりとし、昼間の熱を抱えながらも、心地よい涼しさを運んでくる。


「そろそろ帰ろうか」


 奏がぽつりと呟く。遥も頷き、二人は神社を後にした。帰り道、田んぼの稲穂が揺れる音が聞こえ、虫の声が次第に賑やかになる。空には満ちてきた星がちらほらと見え始め、夏の夜の訪れを告げる。


 町の通りを歩きながら、遥は今日一日の思い出を心に刻む。暑さ、川の冷たさ、かき氷の甘さ、笑い声、夕陽の色、蝉の声……すべてが夏の日中の輝きとして残る。


「今年の夏も、最高だったね」


 奏が笑顔で言った。その言葉に、遥も自然に笑みを返す。夏は終わりに近づいているけれど、心にはこの時間がずっと残る。


 家に着くと、祖母が縁側で待っていた。夕食の匂いが家の中から漂い、町の静けさと家の温もりが混ざり合う。


「おかえり、二人とも。楽しかった?」


 遥は頷き、今日の出来事を簡単に話した。祖母はにこにこと微笑み、二人の話を楽しそうに聞いた。


 夜になり、家の中は穏やかな明かりで照らされる。遥は窓から見える空を眺め、まだ残る夕焼けと、星の瞬きを見つめた。夏の空は、昼も夜も美しく、そして優しく、彼女の心に深く染み込んでいく。


 遥は小さく息をつき、今日の夏の日中を振り返る。暑くて、汗をかいて、時には疲れたけれど、心は軽く、満たされていた。夏の光と影、蝉の声と風の音、奏との笑い声……すべてが彼女の中で一つの大きな絵になっている。


「また明日も、こんな日になるといいな」


 遥は窓の外を見つめながら、そっと呟いた。外はもう完全に夜になり、星が瞬き、町の灯りが静かに揺れている。夏の日中の光景は消えても、心の中の記憶は色あせず、これからもずっと残る。


 その夜、遥は深い眠りにつき、夢の中でも川の水面を眺め、蝉の声を聞き、奏と笑い合っていた。夏の日中の一瞬一瞬が、彼女の心に温かく積み重なり、明日へとつながっていく。

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