第五節 近づく距離
第五節 近づく距離
全ての始まりは、小文吾の一言だった。
「栞姫様みたいな人、もうこの世にいないかも。大事にしないと。今度栞姫様と外出でもしたら?」
現八と栞姫の間には明らかな心の距離がある。それを埋めるためには交流を図らなくてはいけない。そこで現八は栞姫を外出に誘った。現八は今自分がしている行動が柄じゃないことは承知している。
しかし、栞姫を深く傷付けたのは自分である。その詫びをしなくてはいけない。小文吾に説教されて現八は栞姫を連れて、里見の国にある賑やかな市場へやってきたのだった。
「里見の国の市場! 初めて来ました!」
「・・・そうか。俺にとっては普通だったからな」
栞姫はあくまで里見のお姫様だ。市場などの庶民の集まる場所はあまり行かない。今まで見たことのない新鮮な光景に栞姫は胸を高鳴らせていた。
書物の中でしか知らない人々の営みが目の前で広がっている。不安げだった栞姫の表情はパッと明るくなった。
現八は八犬士になる前は、捕物を仕事をしながら、今いる市場のような賑わいのある場所で暮らしていた。現八にとってみれば見慣れた光景ではあるが、隣で目を輝かせている栞姫に目が離せない。
「行きたい場所はあるか?」
「行きたい場所・・・ですか? 私は初めてで何がどうなのか分からないのです」
「そうか。お前は、里見の姫だからな。だったら・・・まずは、あそこだな。ついて来い」
現八は栞姫の手を握った。そしてそれを引っ張り進んでいく。こんな現八を栞姫は知らない。あの悪夢のような展開にならないことを願っていた。現八は相変わらず顔半分を布で隠してはいたが、手の温もりは確かにそこにあったのである。
現八が連れてきたのは茶屋だ。中へ入ると、早速席へ通された。栞姫は現八に付いていき、隣へ座った。
「ここの茶と茶菓子は美味い。以前、捕物を依頼した奴が教えてくれた」
「そうなんですね。私、初めて来ました」
栞姫ははにかんだ。現八は一瞬目を逸らしたが、栞姫の表情が見たくて結局視線を戻す。茶菓子が到着すると、栞姫はそれを早速口の中へ入れた。甘い餡子が口の中に広がる。栞姫は美味しい、と笑みを浮かべた。
現八に対しても食べてみてください、と言った。現八も茶菓子を一つ取ると布を捲り口の中へ入れた。現八の口の中にも優しい餡子の甘さが広がる。
「・・・美味い」
現八も思わず呟いた。栞姫が現八の顔を見上げると、今まで見たことのない少しはにかむ現八の顔があった。すると、栞姫が指を伸ばした。現八の唇の端に餡子が少しくっついていた。栞姫の指が触れた瞬間、現八はハッと驚いている。
栞姫は笑い、指についた餡子を口の中へ入れた。
現八は恥ずかしくて顔を逸らしてしまった。現八の顔は真っ赤だった。まるで顔に湯をかけられたかのように熱い。自分が栞姫に絆されていると自覚してしまう。しかし、顔を逸らしても栞姫の顔をまた見たくなってしまい、顔が熱いことを布で隠しながら現八は見つめるのであった。
茶屋を後にした二人は並んで歩いていた。
「次はどこへ?」
「そうだな。栞が好きなものがたくさんある場所だ」
「私の好きなものですか?」
「ああ。来ればわかる」
現八に言われて栞姫は心躍らせながら付いていく。すると、そこは里見の国一番の本屋だった。
「へいらっしゃい、あ、現八様ではございませんか!」
「ああ。邪魔するぞ」
店主に声をかけられた現八は挨拶をして、栞姫に言った。
「ここは里見の国一番の本屋だ。お前の大好きな読み物から何までたくさんある。好きなものを買ったらいい」
それを聞いた栞姫は一瞬で笑顔になり、現八に言った。
「現八様! ありがとうございます!」
栞姫は早速店頭に並べられた本を手に取り目を通す。読書が趣味である栞姫にとって本屋はまさに宝の山同然。里見の家にいた頃は本屋に行き本を自ら手に取り選ぶと言うことはしなかった。
嬉しくて仕方がない。
その様子を静かに見守る現八に、本屋の店主は話しかけた。
「現八様。まさかあのお方は・・・」
「ああ。里見義成様の六女で、俺の妻の栞だ」
「そうでございましたか! 現八様がお連れだったため、もしやと思ったんですよ。栞姫様の本好きはまことでしたか。あそこまで楽しそうに本を選んでいるところを見ると、本屋冥利に尽きます」
本屋の店主は笑った。
現八は少し苦笑いをしながら言った。
「これは選ぶのがだいぶ時間かかりそうだ。すまないな」
「いいえいいえ。こちらのことはご心配無用です。里見の栞姫様に来ていただけるなんて嬉しい限りですよ」
案の定本選びは時間がかかり、気づいた頃には数時間が過ぎていた。
栞姫の手には本が五冊あり、現八の元へ戻った。決まったか、と現八が言うと時間取らせてすいません、と栞姫は謝った。現八は別に気にしてない、と返したのだった。
栞姫は手に本を持ち、店を出た。
「栞姫様。またいらしてくださいな」
「はい。またよろしくお願いします」
栞姫は本屋の店主に頭を下げると、現八と共に店を後にしたのだった。二人が帰る頃には日が傾きかけていた。空は段々と茜色に染まっていく。栞姫は茜色の空を見ながら現八の隣を歩いている。
「栞」
現八が栞姫の名前を呼んだ。栞姫が見上げるとそこには、顔を布で隠していない現八の姿があった。久しぶりに見た現八の右頬にある牡丹柄の痣。美しいその横顔を栞姫は見上げていた。
「・・・悪かった」
栞姫は首を傾げた。
「小文吾に怒られたんだ。お前の容姿を綺麗だって言ってくれる人はもうこの世にいないって」
栞姫は現八の言葉を静かに聞いていた。
今までこの痣のせいで容姿に引け目を感じ、捕物の仕事の際は顔を隠していた。自分の家族同然の小文吾や小文吾の両親以外に容姿を綺麗と言ってくれる人間など今までいなかった。しかし、妻となった栞姫は数少ない「綺麗」と言ってくれる人だった。
「今更許してくれとは言わない。お前を傷つけたことには変わりない。これからは、夫婦として・・・共に歩いていきたいと思う・・・」
その言葉を聞いた栞姫は目を見開いた。
あの辛辣な言葉を吐いていた現八が、初めて栞姫に対して素直な言葉を言った瞬間だった。現八は突如歩みを止めた。それに合わせて栞姫も歩みを止めた。
「俺は・・・俺のこの顔は・・・怖くないのか?」
現八の質問に栞姫は静かに笑い、現八の顔に優しく手で触れた。もちもちとした柔らかい指が、現八の輪郭をなぞる。その指は現八の痣に触れた。
「私は、最初から言っています。こんなにも美しく・・・優しい顔をしているあなた様に屈辱と恐怖など感じません」
それを聞いた現八は俯いて小さな声で、ありがとうと言ったのだった。栞姫も静かに笑ったのだった。
犬飼現八と里見栞。
二人の距離が近づいた瞬間だった。