第四節 邂逅前
その夜のことだった。
栞姫は自室で一人シクシクと泣いていた。その理由は、夫である現八に辛辣な言葉をお浴びせられたからだ。初対面の時も祝言をあげた時も、日々の暮らしの中でも栞姫は現八に歩み寄り、自分は味方であると主張してきた。
そしてどんなに辛辣な言葉を言われたとしても耐えてきた。
しかし、今回ばかりはさすがの栞姫も耐えられなかった。栞姫は着物に顔を埋めて泣き崩れていた。
「どんなに私が歩み寄っても、現八様は遠い。私は・・・間違っていたの? 私は・・・どうしたらいいの・・・? ああ、里見の家へ戻りたい」
栞姫は一人涙に暮れるのであった。
栞姫は泣き疲れてそのまま床へ入り眠りについた。大泣きしたために目の周りは真っ赤になった状態で布団の中にいた。栞姫の長い髪の毛に触れようとする大きな手が見える。
その手の正体は現八だった。
現八にも栞姫を悲しませたことの自覚はある。懺悔の気持ちもあり触れようとしたが、脳裏に浮かんだのは栞姫にぶつけた拒絶の言葉。そんな言葉を言う人間が、彼女に触れていいわけはないと現八は手を握る。
「・・・栞」
謝罪の言葉の代わりに、名前を呼ぶ。
栞姫のような人間はあまりいない。見た目に引け目を持つ現八にとって、栞姫は喉から手が出るほどに欲しい妻だ。しかし、現八がかける言葉はいつも刺々しくて、栞姫の心を抉り取る。
毎夜こうして後悔を口にしようとして懺悔をしようとしても、出てくるのは栞姫の名前だけだった。
数日後。
現八は里見義成の屋敷にいた。八犬士全員が集まり、近況などを話し、国の状況を報告しあうのだ。里見の里はかつて魔女・玉梓の呪いを受けて、様々な厄災が降りかかってきた。そして玉梓は退いただけで、いつまた呪いが降りかかるか分からない。そこで、里見義成は八犬士を里見の治める国のあちこちに配備して備えているのである。
特に話し合いは問題なく進み、現八は息を吐く。
その様子に話しかけたのは、黄色い着物を見にまとい現八よりも大きな体を持った男だった。
彼は犬田小文吾。悌の玉を持つ八犬士の一人だ。そして現八とは乳兄弟の仲である。乳飲子で捨てられていた現八を小文吾の父が拾い、育てられた。その際、小文吾の母からの乳で育ったのである。
気心知れた仲間、それよりも家族の方が強い。
「現八、もしかして栞姫様と喧嘩でもした?」
「なっ?! 喧嘩なんてしてない!」
「嘘だね。現八はやましいことがあると目を逸らすじゃないか。まあそうだな、見た目をなんか言われて驚いて、でも栞姫様に素直になれずに辛辣な言葉を浴びせて逆に栞姫様を悲しませて後悔しているってところかな?」
「・・・」
核心をつかれ、現八は言葉を飲み込んだ。小文吾はほとんど憶測で話しているが、現八にとってみれば全部が真実だった。
現八の態度を見て小文吾もえ? と信じられない様子で見ていた。
「現八。なんでそんなに邪険にしちゃうのかなあ? 栞姫様はお前の顔を綺麗だって言ってくれたんだろう?」
「うるさい。だいたいそんなふうに言う奴らはほとんど建前に決まってるんだよ」
「そうなると、俺や父さんや母さんもそう言うことになるけど」
小文吾の言葉に現八は、あっと声を漏らした。建前と片付けてしまうと、現八を拾い息子同然に育ててくれた小文吾の両親と乳兄弟である小文吾を否定することになってしまう。現八は部が悪そうに顔を逸らした。
小文吾は、素直じゃないなあと笑いながら現八に言った。
「栞姫様は現八のことをお嫁さんとしてしっかり支えたいって思っておられるはずだ。栞姫様の言葉は本心だよ。早とちりして出した言葉でもし栞姫様を蔑ろにしたら・・・愛想を尽かしてしまうかもよ」
「愛想を尽かす・・・」
「栞姫様みたいな人、もうこの世にいないかも。大事にしないと」
小文吾の言葉に静かに頷いたのだった。そして捕物の依頼の際に負った傷のことも小文吾
に話した。そしてその怪我を労わろうとした栞姫に辛辣な言葉を言ってしまったことも。
それに対して小文吾は、それはお前が悪い! と叱りつけた。現八は何も言えずまるで犬のように萎縮してしまった。そしてその一件以降、栞姫は現八を怖がるようになってしまった。そのことも話したところ、小文吾は深いため息を吐いた。
「もう、そんなこと言ったら離縁一直線だよ。今度栞姫様と外出でもしたら?」
「・・・」
「現八」
渋っている現八に小文吾は低い声で牽制した。すると、現八は堪忍して静かに頷いたのだった。そんなこと言っている小文吾の方はうまく行っているのかと聞くと、小文吾は笑った。
「俺は夫婦円満だよ、って言いたいところだけど、そう思っているのは俺だけかも。まあ、困ったら現八に相談するよ」
「そうなのか・・・。お前も大変だな」
「でも俺は大好きなんだよ、いろちゃんのこと」
「お前、溺愛も大概にしろよ」
小文吾はエヘヘと照れ笑いをしたのであった。
現八がいない屋敷では栞姫が一人で縁側に腰を据えて庭を眺めていた。手には書物があり、読書に身が入らない状態だった。
現八の辛辣な言葉がいまだに栞姫の心に刺さったままだった。本心で言ってきたことをずけずけと言ってしまう自分に罪悪感があり、それにいつも胸を痛めていた。
栞姫は静かに目を閉じた。夢の中では、現八が優しく微笑み手を差し伸べている。その手を握ると現八がその手を引いて歩き出した。しかし、途中でその手は急に外される。
どうして外すんですか? と聞くと優しかった現八の顔は歪み、口は開かれた。
「俺の気持ちなどわからないお前なんかに、触れられるなんてまっぴらごめんだ!」
その言葉を聞いた瞬間に目の前が真っ暗になり、栞姫は夢の中の底の見えない闇の中へ落ちていくのであった。大好きな物語のように順風満帆にはいかない。夢見たものではない。栞姫は悉く思い知るのであった。
「・・・ごめんなさい、現八様」
夢にうなされて目からは涙が落ちた。すると、頭に声が響いてくる。
「栞! 栞、大丈夫か? おい、栞!」
聞き覚えのある声で栞姫がゆっくりと目を開けた。そこには、現八が栞姫の顔を覗き込んでいた。
「・・・現八様?」
「かなりうなされていたみたいだが・・・まあ、それは俺のせいか・・・」
「今日は父上のところへ行っていたのでは・・・?」
「それはもう終わった。今戻ったばかりだ」
いつもの栞姫なら姿勢を直して現八の帰りを迎えるが、悪夢にうなされて体は思うように動いてくれない。
「栞・・・その・・・」
現八は栞姫に言いたいことがあったが、変に素直になれず言葉が出てこない。栞姫は現八をじっと見つめている。現八は少し顔を逸らしながら言う。
「そんなにじろじろ見るな」
「・・・申し訳ありません!」
「あ、いや・・・怒ったわけじゃ・・・」
現八がなかなか言わないせいで栞姫をさらに萎縮させてしまう。現八は栞姫の謝罪でついに腹をくくった。
「栞っ!」
「はい?!」
現八は栞姫の名前を言って栞姫の肩をがしっと掴んだ。か弱い小さい肩を現八の長い指が、栞姫の着物に滑り込んだ。至近距離に現八の顔がある。整った綺麗な顔が栞姫に近づいた。右頬の牡丹柄の痣がちらついた。
側から見てば少し滑稽な光景だが、現八は至って真剣だ。
「・・・明日、出かけるぞ」
「え?」
現八の口からこぼれた言葉は栞姫にとって予想外の言葉であった。