第七話『夜の一幕』
「……っし、こんなもんか」
使い込まれた机、少しだけ音が目立つベッド。その他部屋に残っていた記憶を失う前の『クロエ・アリアンロッド』の荷物などを綺麗に整頓し──クロエによる片付けが完了する。
一年間、使われていなかった部屋は汚れやほこりも大量にあり、椅子なんかは元々ガタがきていたようで、足が腐り折れていた。無論、初日の際に目立つ部分だけは掃除をしていたのだが、やはり隅から隅まで綺麗にするのであれば時間を要する。数時間程度確保しないと中途半端で終わってしまうが故に、中々実行に移せなかった。
だが、その苦悶からも解放された。掃除を完璧に終わらせたクロエの部屋は、新しい住人が来るかのように輝いている。
最初、新しい部屋を宛がうという話もあった。
だがあえてそれは断ったのだ。記憶喪失になるまでのクロエが住んでいた部屋というのは、『クロエ・アリアンロッド』を知る上で非常に重要な手がかりである。
例えば、机の上の墨入り瓶とペン。
瓶の入口付近が墨で非常に汚れている点から、せっかちな人物だと分かる。ペンを急いで動かしていたのだと分かるからだ。ペンの持ち手付近に刻まれた線型の傷は、恐らく爪だろう。マメに爪を整理するタイプではなく、力強くペンを握る性格だと分かる。
これだけでも、『クロエ・アリアンロッド』とは比較的雑な人物だという推察が出来る。だが重要な物は大切にする人物であったようで──本棚に置かれた日記帳は、ぼろぼろだが丁寧に保管されていた。
「……日記か」
他の人間にとっては価値のない紙の束だが、クロエにとっては宝そのもの。手に取って流し読みをしてみれば、少なくても数百日分は書かれているようだ。
「じっくり読みてえところだが、流石に時間ねえな」
現在のクロエは、自分が没頭しやすい性格だという自覚がある。その認識に従えば、こんな面白そうで興味のある物を読み始めてしまえば時間を忘れる事は明白。
既に夜と呼べる時間帯である現在、流石にそれは制限せざる負えなかった。
「……『決闘遊戯』さえなければ読んでたなぁ」
明日は『天曜』、つまりは休日。
だからこそ多少の夜更かしは許容できるが、生憎明日は『決闘遊戯』当日であり、更にその開始は朝方だ。
当人同士と知り合いで、ミセリアと約束を結んでいるクロエが観戦しない訳にはいかない。彼女に怒られるのは当然として、なんならロアとティトピアにまで怒られそうである。
何よりクロエ自身も興味があるので、いくら宝とはいえすぐに日記を読む訳にはいかないのだ。
タイミングの悪さにため息をついて、クロエは日記を本棚に戻す。
そして部屋全体を見渡せば、最後にもう一度する事がないかの確認をした。
「ゴミはまとめたし、荷物は整理した。ベッドの下も掃いたし……大丈夫だな」
首尾は完璧。
意外にも言動とは異なり、几帳面なクロエは自分の掃除に対して満足した。
「換気でもするか」
僅かに開けていたが、それでも風で物が飛んで行っては敵わないと閉じていた窓に近づき、全開にする。瞬間、冬の風が部屋中を凱旋し、一瞬にして空間が冷えていった。
だが、掃除で火照った体にはそれが嬉しい。クロエは窓の縁に腕を置き、体重をかけて風を歓迎する。
「───お」
この時間──夕食を終え、就寝前の時間。
窓の外から飛び込んでくるのはマギスティアの敷地内だが、この時間まで校舎に残っている者は当然少ないので、灯は少ない。
だが、それでも僅かばかり寮から漏れる光を頼りに見渡せば、昨日ロッドプレントの双璧とクロエとティトピアが話していた通路が視界に映る。
「やっぱ寮から見えるんだな……」
クロエの部屋は寮の二階であり、という事はそれ以上の階ならば通路が見えるという事。
昨日は雨だった。加えて門限が迫っていたとなれば、未だ帰ってこない友人を心配して窓の外を眺めていた生徒もいただろう。
「偶然見ていた生徒を味方につけたか、先んじて子分に見張らせていたか……ま、後者だろうな」
今朝、クロエは噂の原因がリアだという結論にたどり着いた。
だが彼女が直接噂を広めたのかといわれればそうではなく、恐らく昨日の時点から考えていた策だったのだろう。
故に、彼女は子分に四人の会話を見せ、そのまま噂を流させていたのだ。
推測に過ぎないが、恐らくは正解のはずだ。これが一番合理的で辻褄が合い、彼女らしいクレバーな作戦である。逆にクロエが彼女の立場でも同じ選択をする。
「……」
そのままなんとなく窓の外を眺めていると、不思議と好奇心が浮かんできた。
部屋の掃除を終え、開放感を感じているのも影響しているのだろう。このまま視界に映る光景へ向かって進んでいきたい、そんな好奇心だ。
「……ロビーには生徒が集まってるが、窓から行けば問題ない。巡回の警備は多くないし、最悪見つかっても学生だと証明できれば叱られるだけで済む──っし、いけるな」
少しだけ強引な回答にも思えなくないが、好奇心とは合理性を殺す。
部屋の端に置いた木製の洋服掛けから制服の上着を引っ張ると、流れるように羽織って窓へ向かう。先ほどよりも鮮明に感じる風を全身で歓迎しながら、クロエはゆっくりと窓の淵から前方に体重をかけ、そのまま落下した。
「よっと」
二階程度の高さならば、魔法を使うまでもない。数Mの落下は一瞬で終わりを迎え、クロエは膝を曲げて衝撃と音を殺し、草の地面に着地した。
背後から聞こえてくるのはロビーに集まった生徒たちの団欒と、遠くで聞こえる何かしらの物音だけだ。後者に至っては頬を撫でる風の方が大きいぐらいで、つまりは気にする必要はない。
「──」
夜の独特な雰囲気を全身で感じつつ、クロエは無言のままゆっくりと歩きだす。
普段生活をしている寮、授業を受けている校舎など、いつもは気にしていない建物が面白く感じてくるのだから、夜は不思議だ。
小さい頃に親の眼を盗んで夜更かしをしているような感覚と共に、クロエの脚は昨日四人がいた通路へ。
「……」
そしてそこから寮の方向を見れば、やはり僅かながら明かりが見える。しかし柱や木々のせいで、少し動けば見えずらくなってしまうのは想像に容易い。
なるほど、ロッドプレント姉妹が立っていた場所は良く計算された上での位置だったようだ。
──今度はこっちだな。
何かは分からない鳥の鳴き声を背景に、クロエの足取りは校舎の隣に存在する広場の方へ。
そこは視界が開けていて、もし誰かが近づいてきたらすぐに発見できるし、なにより敷地を見渡すのに最適という考えだった。
「……いつ見てもすげえな」
マギスティア寄宿学校中央広場。
多くの学生が様々な棟へ行くために通り、また昼頃には食事をし、更には時々出し物なんかも行われる広場だ。
茶会神話に登場する女性を象った石像の周りに作られた噴水を中心として、ベンチやガーデンパラソルとテーブルなど貴族らしい生活様式の上、花々の生い茂る空間となっている。
時々王都『マグテナ』から凄腕の菓子屋や料理人が出張販売に訪れていて、学校内にいるだけでオルティスの流行りを把握できるという特別仕様。
まさにマギスティアの中心。つまりは、将来の世界の中心とも呼べる場所だ。
「けど、この時間だと綺麗なだけだな……」
噴水は魔法具によって常時展開されているが、それだけだ。
ガーデンパラソルは閉じられ、出張販売は当然いない。暗闇は昼間の活気を全て奪い去り、いまはただ静かで穏やかな空間と化していた。
そんな中、クロエは噴水の方へ近づき、水の流れをじっくりと観察する。
「──」
水は良い。
粛々と流れていく青いそれを見ていると、心が落ち着く。その流れの中に体を溶かし、世界の末端と化したならどれだけ心地が良いだろうか。
否、そうなれないとしても、流れに触れる事は出来る。
そして、自分自身が流れの中心となる事もクロエにとっては容易い事だ。
世界がどれだけ穢れていても、水の美しさだけは変わらない。
だからこそ、水はクロエを離さない。
まるで惹かれ合うようにして、クロエは、水流へ、手を───
「──あれ、クロエじゃない」
「……お」
水に手を伸ばす間隙、突然横の方から聞こえてきた声に、クロエの動きは止まる。性格の割に高くかわいらしい声に振り返れば、そこには訓練着を身に纏ったティトピア・ヴァルステリオンが立っていた。
手には訓練に使っていたらしい大剣型の木剣が握られており、よく見れば普段綺麗に整えられている髪は結ばれ、乱れている。
どうやら訓練帰りらしい。だが、今はとっくのとうに門限は過ぎているというのに。
「お前、門限どうしたよ。夕食すら終わってるけど」
「事前に申請すればこの時間まで訓練場は使えるのよ。知らなかったのかしら?」
「そういうもんか?」
「そういうものよ」
くだらない会話を交わしつつ、噴水のそばまでティトピアは歩いてくる。女子は汗をかいている時人に近づきたくないものだと思うのだが、彼女はそんな事気にしていないらしい。
ぶっちゃけそれはそれで困ると思いつつも、クロエはポケットに手を突っ込んだ。
「そういうアンタはどうなのよ」
「気分転換の散歩。門限は~……まぁこれぐらい誰でもするだろ」
「まぁ否定はしないわ」
時間制限から抜け出し、自由に外へ。
それぐらい思春期の人間ならば一度はする事で、ティトピアもそれには同意を示した。
「それに俺は帰ってきたばかりだからな。マギスティアはいつ行っても人が多くて落ち着かねえ。でもいまの時間なら流石に誰もいないだろ? 少しゆっくり見てみたくてな」
この数日間、クロエは昼休みや放課後など、少しずつ学校を探索してはいたが、やはり何時でも何処でも生徒がいる。中には突っ立ってるだけなのは迷惑にあたるような施設もあって、そうなるとこういった深夜の探索が非常に楽しい。
「ふぅん……」
「訓練の調子はどうだ」
「誰かさんが発破をかけたおかげでそれなりに良いわ。この時間まで集中できるぐらいにはね」
軽い言葉で尋ねれば、相手も軽い口調で返してくる。
今朝クロエがティトピアへかけた言葉は、少なくとも良い効果を齎したらしい。どちらかといえば『頭を使え』といったような助言だった気がするが、色々な事で役立ったのなら何よりである。
「……ひとまず、明日は早めに寮を出る事にしたわ」
「というと?」
「知り合いに相談したら、『足止めしてくるかも』って言われたの。だから、明日は時間に余裕をもって寮を出て、決闘場所で二人を待ち構える形を取るわ。それ以外にも、小さいけど少し考えて対策する事にした」
少し不満げに言うティトピアは、拗ねている様にも見えた。
「流石に番外戦術ではもう抵抗できないから、一先ず『決闘』を万全の状態で迎える事を優先するわ。いまマリエルがいないのもその一環よ」
「そういうや不思議だったんだ。あのメイドならこんな時間にお前が出歩くのを放っておかないだろうに」
ティトピアのメイド、マリエルは、見るからに心配性で優しいメイドだ。ならば、いくら学校の敷地内とはいえこの時間まで一人で訓練する事を良しとはしないはず。
「あの子は今寝てるわ。もし、朝早くに誰かからの妨害があった時に対策できるようにね」
「……つまり、お前の体調を万全に整える睡眠時間を十分に確保するためと共に、妨害があった時にそれを防ぐ必要がある。でもお前にずっと寄り添ってたら流石に限界があるから、いま休んでいると?」
例えば、夜中に騒音被害があった場合、いま睡眠をとり万全の状態になったマリエルがそれを止めにいく。同様に早朝なにかトラブルが起きたとしても、マリエルがいるから焦る必要はない。
そういう状態を作り出す事で、せめてティトピアを万全のまま決闘に送り出そう、というのだ。
「ま、強引だけど悪くはねえな。少なくとも牽制にはなる」
「魔力は寝れば回復するし、体にも異常はない。これで後は明日を迎えるだけ」
「そうか。楽しみにしてんぜ」
十分散歩は出来て既に満足した。まだ冬も終わらない今の季節、外に長居する理由もないし、それなりに夜も更けてきた頃だ。
そう判断したクロエは軽く言葉をかけて、踵を返し寮の方へ歩き出そうとする。
「待ちなさい」
すると、ティトピアはそんなクロエの背中に待ったをかけた。
「気分転換って言ってたわよね」
「うん? ……あぁ、まぁな。でも満足したから帰ろうかと思ったんだが」
「もう眠いの?」
「そういう訳じゃねえ」
「そ」
短く言い切り、ティトピアは一歩詰めてくる。
糸が読めず動けないクロエに対し、その上着の袖を掴むと、自分の方へ引っ張った。
「──なら、少し付き合いなさい」
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