第十八話『伸ばした手、掴んだ手』
「……ごめん、なさい」
『天空決闘場』から弾き出され、真っ逆さまに偽りの海へ落ちていく中。
ティトピアの口から出てきたのは謝罪だった。
「ごめんなさい」
──『決闘遊戯』のルールにより、落下しても海に着水してから五秒間経過しなければ負けにはならない。上空から海へ落下しているが、ここは魔法によって作られた空間。例え死亡する事となっても回復魔法が発動する。
それまでに戻れば続行となるが、もう既に魔力は尽きた。武器も破壊され、打つ手はない。ティトピアはこのまま敗北を受け入れるしか術はないのだ。
「ごめんなさい……」
申し訳なさと自分の無力感に涙が出てくる。
あれほど人に助けられて、支えてくれる人がいて、漸くたどり着いた『決闘遊戯』だったのに。ティトピアは結局勝つ事が出来なかった。
勝機は十分にあったのだ。単純な力で劣ってはいないし、ミセリアによる妨害がなければ勝てていただろう。でも、そうはならなかった。結果的にティトピアは二人に押し負けた。
その事実が、死んでしまいそうなほど申し訳ない。
「ごめんなさい」
それは助けると宣言した人々への言葉でもあり、これから犠牲になるかもしれないヴァルステリオンの民たちへの言葉でもあり、何よりも、あの夜に『約束』を交わしたクロエに対する言葉でもあった。
瞳を閉じ、溢れる涙が雨となり、ティトピアは、重ねるように。
「──約束を守れなくてごめんなさい、クロエ」
後悔は、天色に溶けた。
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「っはは……」
たった今。
決闘場から弾き出され、落下していくティトピアを眺めながらリアは自然と笑みを浮かべていた。
「──詰みだ」
当然、まだ正確に判定は出ていない。なぜなら落ちた後でも空中飛行が出来る魔法などで帰ってくる可能性があるからだ。
だが、今回の場合ティトピアは魔力切れを起こしている。そうなれば一晩は立たない限り回復する事はない。
「はははは……!」
岸壁に覆われていた視界が、唐突に開けていくような感覚。
彼女の敗北を以て、ミセリア・ロッドプレントという少女は大きく躍進する。協力な後ろ盾、強力な協力者、そして強力な実績。
それらすべてが合わされば、歴史的魔法発見をする事だって不可能ではない。そう考えると笑が止まらなかった。
「……ティトピア君」
杖を握りしめ、額に流れる冷や汗の感覚を煩わしく感じながらも、リアは吐き捨てる。
「この『決闘』、ワタシの……!」
──瞬間、空間が揺れた。
「……っ!?」
「うん……?」
「一体何が?」
そう表現するしかない程に、上空を中心として空間が振動したのだ。
まるで波のようにして全身を軽い衝撃が叩く。
リア、ロア、バルザメイト、エリザ。
『決闘場』にいた全員が釣られる様にして上空へ視線を移して。
「なぁっ───!?」
思わず似合わない大声を出してしまうほどに驚愕してしまう。
空間に罅が入り、割れた様にして広がっている。空間系魔法を使った際に現れる現象のように思えるが、少しだけ違うのは、まるで強引に割いたように見えた事だろうか。
だが、本当に注目すべきなのはそこではない。割れた空間と同時に視界に映ったのは、もっと非現実的で馬鹿げたものだからだ。
───上空から、人が降ってきている。
しかもそれはリアとロアが知っていて、特にリアにとっては様々な感情を抱いている人物だった。
「──なぜここにクロエ君が……!?」
真っな青な髪と、獣のように鋭い眼光を携えた少年。
クロエ・アリアンロッドが、空にいた。
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──『転移んだ』と思った次の瞬間、不思議な浮遊感と共に、一瞬意識が放棄されたのを感じた。
すぐにそれらは消え去って、肉体の重みが戻ってくる。次に訪れたのは全身を叩く空気抵抗による風だ。何か違和感を感じて目を見開けば、クロエは目の前に広がる大空を視界に収めた。
「っ、空かよ!?」
体を捻り地上の方へ振り向けば、見えるのは『天空決闘場』だ。茶会魔法の転移は本来なら『決闘場』へ直接飛ばされるはずだが、一体何が理由でクロエは上空へ飛ばされたのだろうか。
「強引に入ってきたから座標がズレたのか……?」
悪態をつきながら視線を回せば、比較的優れているクロエの視力は『決闘場』だけではなく、そこに立っている人々の姿も認識する。彼らは突然出現したクロエに様々な視線を送ってきているが、いまそれらを気にする余裕などない。
「……なんだと?」
だがそんな彼らとは裏腹に、『決闘場』にティトピアがいない。
その事実を認識した時、クロエは即座に偽りの海へ視線を移した。『決闘場』にティトピアがいないのに、それ以外の人間がいるという事はまだ決着は完全についていない。
ならば彼女は今さっき海へ弾き出されたと考える方が自然で──故に、クロエは、真っ逆さまに落下しているティトピアを、辛うじて発見した。
「───」
即座に加速を開始。
クロエは全身に魔力変換した水流を纏い、まるで星のように高速で落下していく。
空気抵抗や摩擦などは関係ない。そんなもの魔力によって体を覆えばどうとでもなる。その上、クロエが扱うのは『水』。熱や風なんか相手ではない。
今はただ下へ、ティトピアが落下するよりも疾く、疾く、疾く───!
「ティト、ピア──ッ!」
『決闘場』を過ぎ、あと少しの所にまで接近する。
同時にティトピアの姿はどんどんと大きくなっていき、クロエには零れ落ちていく涙が見えた。同時に彼女が纏う魔力が見えない事から、魔力切れを起こしているという事実も理解できる。
数秒の必要もない。
もう少しという所に彼女はいた。
「──な、なんで、クロエっ!?」
「助けに来たに決ってんだろッ! いいから手ぇ伸ばせ!」
「っ、あぁもうっ!」
心底驚いた様に目を丸くするティトピアに対し、クロエは手を伸ばしながら声を張る。
彼女は困惑する様にひとみを震わせていたが、考えても仕方がないとたかをくくったのか、同様に手を伸ばしてきた。
──クロエが上で、ティトピアが下。
そんな構図のままに二人の手は届いた。
伸ばした手、掴んだ手。掌から確かな熱が伝わってくる。
クロエはティトピアを少しだけ引っ張って、互いの距離を近づけた。
視界に飛び込んできた端正な顔立ち。その眼が死んでいない事に、クロエは少しばかりの安堵を覚える。
「……っ」
『分からない』。
安堵と同時に、もう一度同じ言葉が脳裏を過ぎった。
でも、分からないのなら聞けばいい。
疑問をそのままにしていては前に進めない事をクロエは知っていて、だからこそ行動に移し、今こうしてここにいるのだ。
「おいティトピア!」
「なっ、なによっ!?」
「……一つだけ聞かせろ」
風の音だけと二人の声だけが聞こえる。
クロエの水流と、ティトピアの涙が二人を包むように広がった。
それ以外の全てが消えてしまったような世界の中、クロエは静かに問いかける。
「──お前はなぜ、人を助ける?」
ずっとずっと疑問だった。
『人を助ける』。
言葉にするのは単純だが、とても難しい事だ。
見返りがなければ大半の人間はそれを行わず、無償で行う者も目の前に困難が立ち塞がれば大概は諦めてしまう。
それが普通で、だからこそ『人助け』という言葉には様々な意味合いが込められている。聞く人間によって感情も異なり、また想いも違うはずだ。
だからこそ、分からない。
「……辛い事が沢山あったはずだ。苦しい事も沢山あったはずだ。誰かを助ける事で疎まれた事も、妬まれ事もあっただろう」
『人助け』は一長一短ではない。
誰かを助けるという事はとても難しい。あるいは、この世で最も大変な事の一つだろう。
「報われない事の方が多かったはずだ。助けきれない事だってあったはずだ。力が及ばず、それで誰かに責められた事だってきっとs零じゃねえ」
人は、誰かに救いを求めるのにそれが上手くいかなかった時、協力者を責める事がある。
なんと身勝手で傲慢な事だろう。でもそれが人間で、悲しい事にそう少なくない人数が該当してしまう。
もしかすると表に出て来ていないだけで、大半の人間はそうなのかもしれない。
それがきっかけで、今まで人を救っていた人間は辞めてしまうかもしれない。
だがそれでいいのだ。現実とは最初、理想を以て臨むもので、徐々にそんなに簡単ではない事を知っていく。その過程で人を助けない選択肢を獲得するのも、人間の防衛本能の一つだ。
正解の一つの形だと、そう言ってもよい。
本来人間は、成長の過程においてそのように変化をしていく。理想と現実を天秤に置いて、取れる理想と取れない理想を取捨選択する。
あるいはその過程を得た人間を『大人』と呼ぶのかもしれない。
「──なのになぜ、人を助けるんだ」
それは号哭に似ていた。
かつての親友と似た少女に対し、溢れて止まらない感情をぶつける少年の号哭。
風も、水も、今は何も感じない。
自分の手が震えている。
それでも恐怖を上回る疑問が、己の過去を喰らいつくすのだと信じて問いかける。
「答えろティトピア・ヴァルステリオン!」
声を懸命に張り上げた。
「お前はなぜ─────人を助けるんだ!!!!」
~~~~~~~~~~~
「───」
なぜ、と。
一体何度尋ねられたか、彼女はもう覚えていない。覚えられない程聞かれたという事もあるし、その質問自体に興味がない事も理由の一つだ。
──そして、答えだっていつも変わらない。
「なぜって……そんなの──」
きっとそれは、ティトピア・ヴァルステリオンが初めて人を救った時から。
己のうちに芽生えた衝動に身を委ねた時から変わらない、たった一つの答え。
「っ、そんなの決まってる───!」
~~~~~~~~~~~~
──分からないな。
──んー? ■■、どうしたの?
──クロエ、お前はなぜ人を助ける。良い事など一つもないはずだ。
──あっはは。なぜ、って。君はおかしな事を言うなぁ……そんなの決まってるよ。
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人が───
「───人を助けるのなんて、あたり前の事じゃない!!!」
大層な理由もない。
特別な事情がある訳じゃない。
ただそれだけ。
人としてあたり前だというだけで、ティトピアはどこまでも強く在れる───!
「ッ───!」
響いた言葉に親友とティトピアの姿が重なって、クロエは歓喜を露にする。
凶悪な笑みを浮かべ、眼を見開き、未来と彼女を見据えて、言った。
「あぁ───その通りだ!!」
手を握ったままティトピアを胸元に抱き寄せて、その華奢な体を抱きしめる。大剣を握り勇ましく戦っていたというのに、恐ろしく軽い。
「きゃっ……!?」
「ハッハ!」
困惑する彼女をそのままに、クロエは重力に逆らわず落ちていく。
元々落下中だったのだ。逆らわずそれを受け入れてしまえば、その結果は一つだけ。
──二人は偽りの大海へと落ちた。
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(……!?)
海へと落ちた。
それを認識した瞬間、ティトピアは無意識に浮き上がろうとして、周囲を気にする余裕もなく藻掻き始める。
ヴァルステリオンに海はない。故に彼女は泳ぐ技術を学んだ事なく、また彼女の元素である炎は水と相反する属性だ。
生半可な水ならば蒸発させるだけだが、流石に海となればどうしようもない。
───信じろ。
藻掻き、呼吸が出来ず苦しむ中で。
ティトピアは確かにその声を聴いた。
そこで思い出す。
ティトピアはいま、クロエに抱きしめられているのだ。
抵抗なく海へ落ちた理由も、いま抱きしめられている理由も、ティトピアは分からない。
だが『信じろ』と彼が言うのなら身を委ねるのも、もう怖くはなかった。
体から力を抜き、全てをクロエへ託す。
その瞬間、彼の顔に笑みが浮かんで───二人の体は、大量の光る水によって包まれた。
『───!』
呼吸が苦しくない。
それはティトピアが最初に気づいた事だ。
まるで海全体が彼女を歓迎しているよう。呼吸は出来ない。それは変わらない。それでもなぜだか苦しくない。
呼吸という死に直球する事に対する感覚が薄れたからか、ゆっくりとティトピアは目の前で起きている現象について認識していく。
水に揺蕩うクロエが、笑みを浮かべてこちらを見ている。
やがてティトピアが無事な事を確認すると慈愛の笑みに切り替わり、声が響いた。
『さぁ、行くぞ』
瞬間、二人の体は、突如として下から発生した光る水柱に包まれた。
激流に追い出されるようにして海から飛び出し、上昇していく。
未だ『決闘場』には遠い。
だが突然に、水柱は唐突に弾けて。
ティトピアを抱きしめたままのクロエの背中から、一対の水翼が飛び出した。
彼の心底楽しそうな顔が、ティトピアの頭を埋め尽くす
そして、言った。
「───我が真名はニンフェルエルレイン! またの名を『荒れ狂う大海』!」
大きく、大きく、光る水の翼が、太陽の光を受けて輝く。
それは正しい意味で『翼』。
この甘く優しくない世界を自由に飛び回るための、願いと希望の翼。
「亡き我が親友、クロエ・アリアンロッドの遺志を継ぐ者! そして、ティトピア・ヴァルステリオンを助けんとする者なり───!」
高らかに宣言をして。
クロエ──否、ニンフェルエルレインは、ティトピアを抱きしめたまま飛翔する。
音を食い破るほどに凄まじく、だが一切の熱と痛みはない。
彼が守っているのだ。無意識で根拠も何もないが、ティトピアにはそれが分かった。
美しい。
ただ浮かんだ感想がそれだった。
この光景には、世界のどんな絶景も感動も敵わない。ティトピアのかけた色眼鏡など関係ない。今この瞬間だけは、目の前の光景は美しい。
焦がれた。どうしようもないほどに焦がれた。
光を、エルレインという光を携えた翼がこの世で最も輝かしい物に見えて仕方がない。
でも、きっとそれでいいのだ。
自分の気持ちに素直になってよいのだ。
それをエルレインが許してくれた。
この翼がその象徴だ。
『好きにしろ』と、そう示してくれた。
不思議な事だらけだ。
彼が何故ここにいるのかとか、そもそもクロエが死んでいるとはどういう意味だとか、名前が二つあるのはなぜなのかとか、この翼はなんなんだとか。
疑問は尽きないけれど。
ティトピアはただ、胸の中に生まれた熱に従って。
「返事は!」
「───ええ、行きましょう!」
こちらへ振り返り、凶悪な笑みを浮かべた彼に対して、ティトピアも精一杯の笑顔で応えたのだ。
エルレインの視線が再び上空へと戻り、水翼が空中を叩いて上昇していく。
落ちた時よりも遥かに速く戻っているのは一体どういう了見か。どこまでの技術、魔力があればこんな神業を為せるのだろう。
やがて二人を守る様に水流が体を包み、柱と化して『決闘場』の高さを通過する。
瞬間、水柱は方向を変え、ティトピア立っていた場所へと。
「───」
激突と同時に水が弾け、クロエが出現する。
彼は膝を曲げた状態からゆっくりと立ち上がり、抱きかかえていたティトピアを降ろすと、眼前に聳える二人を確かに見据えた。
「───クロエ・アリアンロッド。どういう事か、説明を頂けますか?」
それを食い止める、千の狼が一匹。
『決闘遊戯』の法の門番は、突如として出現した愚か者の狼藉を許さない。
バルザメイトは、腰を落とし、両手を自由にし、顔を伏せた状態で尋ねた。口元から白い息が出ているように見えるのは幻覚か、それとも彼の雰囲気がなせる業か。
臨戦態勢。
一目でそれが分かる。得物こそ出していないが、エルレインがこれ以上余計な事をすれば彼は即座に切り捨てられるだろう。
「ここは『聖域』。侵入者はいかなる理由があっても許されない。───それを犯す事の意味が、貴様に」
「まぁ待てよ、『執行官』サマ」
掌を前に突き出し、ニヒルに微笑んでエルレインは待ったをかける。
罪人の言葉を聞く義務はある。そういわんばかりにバルザメイトは動きを止め、ゆっくりと顔を上げ、鋭すぎる眼つきで『続けろ』と促してきた。
「『決闘遊戯』中、問題や不正が起きた場合、当事者部外者関係なくそれを指摘し、その是非を問いかける事が出来る制度があるよなぁ」
「……ほう」
「『聖域』への侵入は基本許されないが、いくつか例外はある。この制度もその一つだったはずだ」
「続けなさい」
「簡単な話さ」
突き出した手を引っ込み、今度は指を立てて。
「求めるは『決闘遊戯』への乱入──俺はロッドプレントの双璧によるティトピア・ヴァルステリオンへの妨害を議題に、『決闘審問』を申し込む!」
指をバルザメイトへ突き付けた。