第十五話『バカ』
「───」
否応なしに想起する、かつての記憶。
一体何度謝っただろうか。脱出すら出来ない環境の中、唯一持ち帰れた形見だけを墓に埋め、そこにいない本人に頭を下げ続けた。
──ティトピアに同じ事が起きる?
それはあくまでも、ソフィアがクロエの心を刺激するための世迷言だ。それは分かっている。だが、同時にあり得ない話でもないのだ。
日常と言うのは突然崩れ去る。命の価値が低いこの世界においてそれは顕著であり、また『親友』も例外では無かった。
更に、彼女は走り出したら止まらない馬鹿皇女だ。少なくともクロエが今まで出会ったきた人間の中で最も馬鹿げている人間の一人である。
死に際でもなお、ティトピアはお人好しを辞める事はないだろう。
でも。
「──それでも、俺が動く理由にはならねえ。アイツは戦う選択をした。それを邪魔する権利なんか俺にはねえよ」
「……」
「俺とアイツは友人だが、それ以上何もない、無関係の人間だ。なのに、俺が、助けた、ところ、で」
言葉が続かない。
何故だか分からない。
意味が分からない。
「……泣いているじゃありませんか」
「はっ……?」
言われて、クロエは自分の頬を伝う液体を認識する。
それは、クロエ・アリアンロッド──否、『彼』にとって初めての感情だった。
悲しみ、後悔、緊張。
クロエという生物の頭の中に、その感情を明確に表す文字列は存在しない。
溢れているのだ。胸の奥に眠る感情というものが、今この瞬間。
何が原因かは分からな──否、分かっている。
本当は分かっているのだ。自分が何を思っているのかも。
人間という生き物は、例えいくら強がったとしても、最後には感情を隠せないのだという事を。
「わりいな……」
謝りながらも、クロエは袖で涙を拭った。元々抑えきれずに出てきた物だ。頬を伝っている分を拭きとればそこで止まる。
それを見てもソフィアは真面目な顔を崩さなかった。
「『理由』や『権利』と貴方は言いましたね」
「……あぁ」
「なるほど、確かにないのかもしれません。クロエ君とティトピア様は知り合って数日の関係。蛮行を以て救う程の義理もないでしょう」
「……そうだ」
結局は、そこに帰着する。
どれほど言葉を並べ、感情を並べようとも──そこに、正当性がない。
『正しくない』のだから、動く事は出来ない。
例えばこれが、門限を破る程度の事ならば動いていただろう。その程度は障害にはなりえない。
だが事の大きさが違う。
これはこれからのクロエの人生すら左右しかねない話だ。だから、何もしない。出来ない。
『彼』はそういう『存在』だ。
だからこそ、次のソフィアの一言で、『彼』の価値観はひっくり返った。
「どうでもいいじゃありませんか、理由や義理──普通のな『正しさ』なんて」
「……いや、いやいやいやいや」
何時ものように流麗な笑みを浮かべたソフィアに対し、クロエは思わず口を挟んでいた。
「だめっ、だろどう考えても」
「正しさや道理なんかより大切な物など、数え切れぬほど多くあります。『感情』もその一つです。貴方が『助けたい』と思うのなら従えば良いではありませんか」
──正しくなくて、良い?
一般的な正しさではなく、自分の内なる『正義』にのみ従い行動する。あるいはそれこそが、最も『人間らしい』と呼べるのだろうか。
それがまだ『彼』には分からない。
「貴方には、貴方の『目的』があるはずです。そしてなにより──やりたい事があるから、貴方は此処へ戻って来たのでしょう?」
「───!」
そうだ。
『彼』は目的を──親友の遺言を果たすため、マギスティア寄宿学校へ帰って来た。
何を燻っているのだ。何を遠慮しているのだ。
遺志を継ぐのだと、そう誓ったのではないか。
なにより──これ以上、『彼』は自分の悲鳴を無視できないのだ。
「ははっ」
乾いた笑みが口から零れた。
思えば、とっくのとうに気づいていたのだ。
昨日、クロエは二人の少女に『やりたいようにやれよ』と言った。彼女らには目的があり、果たしたい夢があり、だからこそ、文字通り『やりたいようにやる』のが一番良いと思ったのだ。
ティトピアの大それた目的も、リアの性格の悪い行動も、全て最初から『彼』は肯定していた。
矛盾している。
自分の行動には『正当性』を問い、しかし他人の行動は許容する。それどころか応援すらしている。
結局、『彼』を縛り付けていたのは、理由でも、常識でも、『親友』でも、過去でも、ましてやティトピアでもない。
ただ、勇気が出なかった。
一歩踏み出す事を恐れていた、臆病な『彼』自身だった。
これ以上、自分を鎖で縛って苦しめるのは、『親友』である彼に顔向けが出来ない───!
「……かの生徒会長サマがそんな感情論を吐くなんてな、意外だったぜ」
「おや」
声色が変わった事を、ソフィアは目敏く気が付いたのだろう。
変化し始めたクロエの堂々たる態度。それに笑みを深めながらも、彼女は流麗な仕草で首を傾げた。
「こう見えて私、ロマンチストなんですよ」
「みたいだな」
「でもそれが私ですから。例え世間がどんなに責めようとも、私は私の道を進みます」
だから、と前置きをして。
「貴方も貴方の道を進んでください。なればこそ、私の行動も意味を持つ」
「そぉかよ」
変人の言う事はあんまり理解できない。クロエはそんな風に苦笑いを浮かべながらも、すぐさま思考を回し始める。
それと同時に、ゆっくりと立ち上がった。
「困ってるバカがいる。人を助ける癖に、助けられる気がないバカが」
呟くように、しかして宣言する様に。
「見捨てちゃ顔向けも出来ねえし、頭に残って離れねえ。これは贖罪でもある。アイツに対する礼儀でも──いや」
瞠目して、この期に及んで言葉を並べた自分に少しだけ辟易して。
「──放っとけねえバカを、俺が助けたいから助ける。」
開眼。
その瞳には限りなく透き通った蒼が宿っていた。
「何か『策』はあるのですか?」
ソフィアが尋ねる『策』とは、もちろんティトピアを助ける方法の事だ。
先ほどクロエも言っていたが、既に『決闘遊戯』は始まってしまっている。一度始まった『決闘遊戯』はもう止められない。
そして、一度勝敗が決まってしまえば、定まった『契約』は必ず遂行される。そうなればいくらクロエやソフィアでもどうにかする事は不可能だ。限られた水の中で足掻く魚程度にしかなれない。
だが、彼女の言葉を受けて、クロエは凶悪な『本能』の笑みを浮かべた。
「決闘に乱入する」
「それは……」
指を一本立てたクロエに対し、ソフィアは思わず言葉を失ったようだ。
彼の言った事は、この状況に陥った際、誰もが思いつき、そして諦める事である。
乱入と一言で言うが、当然それは不可能だ。規則で決まっている以上、それを乱す事は例え『執行官』でさえ許されていない。
ただそれは、彼らがあくまでも『決闘遊戯』を見守る部外者であるが故だ。
「なぁに、方法はあるさ」
「方法とは?」
「ロッドプレント妹を利用する」
「ほう」
流石にその言葉だけでは解答にたどり着かなかったようで、ソフィアは僅かに首を傾げた。当然と言えば当然だ。
クロエの考えてる事は理論的な事ではなく、『感情』を利用した事なのだから。
「詳しい話は省くが、ロッドプレント姉妹の関係ってのは、主に姉のせいで複雑だ。だからそこを突く。そして乱入を認めさせる」
「───『各陣営同士の同意があれば、ある程度規則の変更は可能である』。この規則を利用して『乱入』を認めさせると?」
「あぁ」
クロエは不敵な笑みを浮かべた。
「そういうこった───絶対成功するとは言えねえ。だが、絶対に成功させる」
「そう上手くいくものでしょうか」
「お前の認めた人間ってのは、この程度上手く出来ないような奴なのか?」
「あら、本当ですね」
一本取られた、とばかりにソフィアはゆっくりと笑みを浮かべる。
それは自信と信頼の籠った笑み。彼女が、彼女自身を『絶対的強者』であると認識しているからこそ出てくる笑みだ。
「一部とはいえ、よく『決闘遊戯』の規則をご存じでしたね」
「あぁ───『情報』は資本、『収集』は命ってな」
いつぞやに聞いたミセリアの言葉を引き出して、クロエは言葉を続ける。
「以前、時間があったんで教室に置かれてた規則書を読み込んだ事があったんだ。そこで見つけたんだが、規則書の最後には規則に関する様々な事例が載ってる。『この規則はこういう風に解釈された事もある』、って感じにな」
「そこに『乱入』について記されていたと? ですが、私はそんな記述を見た事が……」
「それは多分、アンタの見た規則書が新しいからだろ」
ソフィアの瞳が微かに見開き、驚いた様に口が少し開いた。
「新しい、ですか?」
「あぁ。『規則書』といえど、数年単位で改訂版が出る。アンタの読んだ本は恐らくその最新版で──俺の教室に置かれていたのは何回か前の版だ。印刷技術が需要に追い付いていない国あるあるの現象だな」
「しかし、規則書は規則書。前の版とはいえ『乱入』という前例がある以上、理由はともあれ『乱入そのもの』を決闘委員会は認めざる負えない──クロエ君の言いたい事はそう言う事ですね?」
先んじて下された結論に対し、クロエは笑みを浮かべながら頷いた。
『乱入』、即ちもう既に始まった決闘に、後から人が参加したという事例は確かに存在する。
前例の場合は二対三の決闘だったのだが、途中で三人陣営の不正が発覚し、あわや不戦勝というところを、二人側がもう一人参加させて終わらせたというもの。
当時の本人たちの言葉が載っているのだが、『決着は付けたい』『だがやはり二人では不安』という事でもう一人追加したらしい。
今回クロエが行おうとしているのも似たような事だ。後から一人を追加するという点は同じである。
少年は規則書に落としていた視線を少女に合わせた。
「でもこの策を実行する上で、俺だけじゃ色々と弊害が出てくる──だから、会長サマの力を少し借りたい」
「と仰いますと?」
「この観戦室からの『人払い』を頼みてえ。もちろんアンタら以外全員だ」
「ふむ……」
真意を探ろうとしているソフィアの視線が突き刺さる。
つまり、クロエはこう言っている。『この場にいる全員を外へ追い出せ』、と。
なぜそんな事が必要なのか理解できないだろうが、説明している時間はない。
だからこそクロエは、即決させるための駄目押しとばかりにもう一言付け足した。
「『貸し一つ』だ」
「良いでしょう」
ソフィアはその言葉を聞いてあっさりと、首を縦に振った。
これにはクロエも少し面食らってしまい、『ん』と驚きの声を出してしまう。
「実のところ、観戦室、並びに教室から人を追い出すのはそう難しい事ではありません。私はかつて似たような事を自分の為にやった事がありますから」
「要請しといてなんだが、アンタ何してんだよ……」
「貴方と同じく、これから行う事を他人に見られたくなかったのです。でしょう? クロエ君」
「……はは」
戦慄を隠せず笑みを浮かべれば、ソフィアも花のように笑みを浮かべてくる。
この少女は、クロエの性格や僅かなヒントを手掛かりに、なぜ人払いを求めるかにたどり着いている。天性の直感と呼ぶべきか、会話を交わすたびに彼女が化け物だと認識するばかりだ。
「貴方に貸しが作れるというのなら大抵の事は受け入れましょう。私は貴方を高く買っていますから」
「そりゃありがたいこって……」
要するに、『買った分返してもらうぞ』という恐怖の言葉である。それを分っているからこそ、クロエは苦笑いで答えるしかなかった。
大抵の事は出来るつもりではあるが、その大抵にソフィアの発想が収まるだろうか。
「……一つ聞いて良いか」
「なんでしょう」
「アイツを助ける様に俺を説得したのはなんでだ」
ソフィアにとって、クロエがヴァルステリオンを助けるかどうかは至極どうでも良い事のはずだ。それこそリヴィドランのように傍観していても良い程度の。
博愛主義者という訳でもないし、わざわざ理由もなくクロエに言葉を投げるような善人にも見えない。
だからこそ疑問を投げかければ、ソフィアはまた流麗かつ妖艶な笑みを浮かべた。
「──そちらの方が、『面白い』でしょう?」
「……はッ。平常運航で安心したぜ」
要するに、ソフィア・フェンタグラムはどこまでいってもソフィア・フェンタグラムなのだ。彼女の行動原理は『面白い』かどうか。そこに人の命運がかかっていようとも関係はない。
クロエやリアとはまた違ったタイプの変人。
「貴方は『面白』く、そしてヴァルステリオン様もまた『面白い』方です。私はそんな貴方方が切り開こうとしている未来に興味がございます。だからこそ手を貸すのですよ、クロエ君」
「──そういう事ならば、俺も一枚嚙ませてもらおうか」
二人のほど近い所から声が響き、咄嗟にそちらへ視線を送る。
リヴィドラン。
『執行官』第三席、『粛清卿』。
自身を竜であり人でもあると語る青年は、重い腰を上げ、鮮血の如き眼光をクロエへ向けていた。
「……傍観してると思ってたんだが、どういう風の吹き回しだ?」
「正直なところ、俺はお前の行動に興味はない。むしろ厄介な事になるのなら辞めてほしいと思っているぐらいだ。……だが」
リヴィドランは顎でソフィアを示す。
「──俺はソフィアの事を全く尊敬していない。反則気味の行動も、こちらの肝を冷やす行動も、破天荒な言動も全てに辟易している」
「まぁ、褒めても何もありませんよ」
「こういう所とかな。しかし、コイツが言う『面白い』事に対する嗅覚だけは信頼している。少なくとも変な結末は辿らんし、想像以上に跳ねる事だってあるだろう」
再び、リヴィドランの視線がクロエに移った。
「『竜の微睡』」
「あ……?」
「ファウラウスのやつが何か言ってきたら、ダメ押しにこの言葉を言うと良い。少なくともアイツの口を黙らせる程度の効果はあるはずだ」
「そりゃ一体どういう」
『『『おおおおおっ!』』』
その時、『決闘遊戯』を眺めていた生徒たちの間で歓声が上がる。
話に集中していた三人は咄嗟にそちらへ振り返れば、どうやらティトピアがミセリアの大技を防ぎ切ったらしい。
しかしレンズ越しでも分かる程ティトピアは疲弊していて、あと数分もすれば決着がついてしまうかもしれない。
事態は意外と切迫している。
「チッ、悠長に話してる暇はねえってか……!」
「早く行け。なに、ただ一言告げれば分かるはずだ」
「分かんねえけど了解だ──会長サマ」
「なんでしょう」
同じく決闘を眺めていたソフィアに呼びかければ、彼女は首だけをこちらに傾けて返事をした。
「十分だ」
「……」
「俺が『聖域』に辿り着くまで五分、そっから先全てを終わらせるのに五分──十分で全て
「畏まりました。ヴィドラ、時間稼ぎには貴方にも協力して頂きますよ」
「……良いだろう。乗り掛かった舟だ」
リヴィドランは腕を組み眉を顰めていたが、断る事はしなかった。どうやらそうなる事は織り込み済みだったようで、したり顔でソフィアは何度か頷く。
やがてクロエに視線を移せば、瞳を真っすぐに見つめた。
「御武運を。どうか彼女をお救いください」
「──おう」
クロエは短く返事をし、次にリヴィドランに視線を移せば頷き合う。
これで礼儀は果たした。すぐさま動き出し三人の椅子からほど近い窓際にまで近づくと、一般的な中央開きの扉を開ける。当然音が響くが、観戦室にいる人間は良くも悪くも全員『決闘遊戯』に釘付けだ。多少物音があっても喧騒の中に吸い込まれていくし、第一気にしないだろう。
「後は頼んだ」
振り返らず、クロエは呟くように言うと、窓の縁に片足をかける。
そのまま縁を足場にして曲げた足を限界まで伸ばし、勢いよく外へ飛び出した。
観戦室がある校舎の階は三階。故にそこから飛び降りれば人数人分の高さは余裕であるが、そんなものクロエにはあってないようなものだ。
全身を叩く風の抵抗、近づいてくる地面。それ等を認識しながらも、急速に頭を回していく。
周囲を見渡すが、休日である『天曜』、それも朝の時間帯が過ぎた事もあってか人の通りは確認できない。誰かに見られる心配がないという事は、遠慮なく魔法を使っても良いという事である。
「──『海凪』」
瞬間、クロエの足元に小規模の水流が発動。
ほぼ同時に地面へと着地した彼の肉体を守る様にして、水流が衝撃を受け止めて弾けた。
水溜りを踏み抜いたような音と、透き通った水滴の演武が空間を支配。
しかしクロエはそれ等の一切を気にする事はなく、着地した状態──膝を曲げた状態のまま通路の方へ視線を向け、立ち上がると同時に水流に乗って駆け出した。
「──!」
久しぶりの、マギスティアに来てからを考えれば初めてに等しい全力疾走。無意識に発動していた身体強化魔法と海凪の勢いが合わさり、クロエの視界は瞬間的に切り替わっていく。
「こっちの方がちけえ……」
視線の先に映るのは通路ではなく、その端にある公舎だ。何の因果かは知らないが、『聖域』と観戦室のある公舎は、敷地の中でも端と端の位置に存在する。
ならば、馬鹿正直に順路を守っていては間に合わないだろう。故にクロエは地形を無視する選択を取った。
「……よなっ!」
短く声を上げて、クロエは校舎の方へ疾走すると、そのまま勢いよく跳躍。砲弾のように飛び出した勢いを維持し、校舎の壁に足を付けるとそのまま斜めに壁を走っていく。
三角屋根の校舎だが、返しがない事は幸いだった。
壁の上端を強く蹴り、勢いよく屋根の上へと跳ぶ。三角屋根の斜め部分のうち、反対側まで一足飛びで到達すれば、視界が先ほどよりも開けた。物理的な位置が高いのだから当然なのだが、現状これほど有難い事はない。
「……しッ!」
自分を奮い立たせるように声を上げると、クロエは再び水流を利用した超高速を維持しつつ、屋根の上を疾走する。
そしてまた別の屋根へ移るべく跳躍を繰り返し──彼はマギスティアの奥へと消えていった。
~~~~~~~~~~~~
「面倒だな」
クロエが去っていった方向に視線を向けながら、ヴィドラは静かに呟く。
「面倒だな、お前たち」
もう一度呟いて、彼は自分の背後にいる白髪のエルフへと振り返る。
主語のなかった言葉だが、どうやら去っていったクロエとソフィアを指して言っていたらしい。
「理論的かと思えば感情を優先したり、かと思えば根は変わらなかったり……回りくどい。お前たちは非情に面倒だ」
「最初からすべて言ってくださいな」
面倒なのはどちらですか、なんて言葉を苦笑いと共に吐き捨てれば、彼は深紅の瞳を細めながら鼻を鳴らした。
言いたい事は分かる。随分とクロエをその気にさせるのに言葉を尽くしてしまったが、目的は達成できたのでソフィア的には満足なのだ。
「確かに面倒ではありますが、だからこそ人間でもあります。規則だけを守るだなんてただの装置ですよ」
「否定はせん。が、規則を守ること自体は悪ではない。アリアンロッドの言い分も正しくはあったのだ」
大切なのは。
「何を自分の『正義』とするか。この点に尽きます」
「然り。故にアリアンロッドが次に直面する課題は、新しく獲得した『正義』を貫けるかどうかだろう」
「貴方もクロエ君の事、気にかけてらっしゃるじゃないですか」
「さてな」
ヴィドラはそう吐き捨てると、再びどかっと椅子に座りこみ、足を組んで魔法レンズへと視線を移した。
そこに映る『決闘遊戯』に、そしてレンズの中へ向かっていった少年へ向けて、眼を細める。
「──それはこれからのアイツ次第だ」
様々な意味が籠った言葉に、ソフィアは答えない。ただ静かに微笑んで、彼の発言を否定しないところにソフィアの意見は表れている。ヴィドラならこの程度の仕草で十分伝わるだろう。
二人の会話は終わった。
ならばここからは、仕事の時間である。
「プリムラ」
「───はいはぁ~~~い!」
ソフィアが振り返る事なく呟いた瞬間、どこからともなく少女が出現した。
恐らくは観戦をする生徒たちに紛れていたのだろう。だが反応速度も、迅速さも、まるで疲弊していない様子からも、全てを感じさせない強かさが存在している。これらに気づけたのは、ソフィアが『ソフィア・フェンタグラム』だからと言う他ない。
「マギスティア寄宿学校高等部一年生徒会活動部『書記』、プリムラ・エヴァ―チェイン参上っ!」
首元まで伸びた紫紺の髪、同じく輝く紫紺の瞳。その色彩からは力強さと妖しさの両方を感じる。
制服に包まれた肢体は同世代と比べて発達していて、しかし引っ込むところは引っ込んでいる理想的な体系に近い。
所々に散りばめられたアクセサリの類は、彼女が外見に気を使っている事が一目でわかるだろう。しかし着崩している様子はなく、最低限模範たれとするところは流石生徒会といっただろうか。
プリムラ・エヴァ―チェイン。
生徒会活動部の一年であり、『書記』。
ソフィアの右腕とも呼べる存在である。
そんな彼女は呼び声に反応して現れ、顔の横でピースをしながら満面の笑みを浮かべた。
「なにか御用ですかソフィア様~?」
「少々、『観戦室』から人を追い出す必要が出てきました」
「ほっほ~うそれはまた変な事を……了解ですっ!」
事情の説明もなくいきなり主題に入り、突拍子もない事を言い出したソフィアに対し、プリムラは何の疑問も挟まず了承をする。
彼女はソフィアの『右腕』。それなりに近しい存在であり、という事はソフィアに振り回されるのは一度や二度の事ではなく日常茶飯事なのだ。後で事情を聞く事はあるが、実行前に疑問を挟むことはない。
忠実な下部である限り、ソフィアは彼女に利益を約束するからである。
「方法は……そうですね。『魔法具の暴走』という事にしましょうか。貴方はそれに巻き込まれた女子生徒です」
「ふむふむ、承知! 早速仕事に取り掛かります!」
「頼みます」
そう告げると、プリムラはにこーっと笑顔を浮かべ、教室から出ていく。
本筋さえ間違わなければ、指示のない場合ソフィアは彼女の作るシナリオに任せる事にしている。故にプリムラは何も言わずに行動に移した。
そして、十数秒が経過した時──
『きゃああああああ!』
ここではない、しかしどこか近い所から誰かの悲鳴が聞こえてきた。
同時に魔法レンズのほど近い隣。『観戦室』と連結している部屋、『観戦準備室』と呼ばれる部屋のドアが勢いよく開き、そこから一人の女子生徒が飛び出してくる。
腰まで伸ばした金髪、すらりとした女生徒。
顔からは涙と鼻水が流れ、焦燥に支配された表情を浮かべている。
そして何よりも、全身の所々が煤に塗れていた。
「こ、攻撃系の『魔法具』が暴走してっ、攻撃を仕掛けてきたの! いやぁああああ! まだ襲ってくるかもしれないッ!!」
少女から伝わってくる濃密な恐怖の感情。それはまるで実際に見ていないにも
関わらず、準備室の中で起きた悲惨な出来事が脳裏に浮かぶほどだ。
恐怖が伝播し、生徒たちをざわめきが支配していく。彼らだけではなく執行委員会の面々も女子生徒へ視線を集中させ、今この瞬間、教室中の注目が集まっていた。
そして、実行の時は今である。
「──避難を!」
ソフィアは教室の中央へ急いで駆け出していき、右腕を大きく振って廊下の方を指し示す。
自分に注がれる教室中の視線を確認し、更に言葉を続けた。
「生徒会『会長』、ソフィア・フェンタグラムです!このまま教室にいては怪我をする恐れがあります! まずは避難を! ──さぁ、早く!」
『生徒会の会長?』
『ソフィア様!?』
『ソフィア様が言うなら、ほんとなのか?』
『と、とにかく逃げないと!』
『うわぁあああ!』
──ひとまずは成功。
地位と権力は、大衆の前でより輝く。
ソフィアが少し真剣に声を張り上げれば、多少の違和感などを飛び越えて人を動かす事が可能だ。
彼女の言葉を信じた生徒たちは、我先にと廊下へ移動を開始する。
だが、彼女の威光が届かない人間も当然存在する。そしてそれはこの場を仕切っている執行委員会の面々だ。
彼らは段々と集結を始め、この状況をどう対応するかを話し始めている。指揮を取られてしまえば、彼らもこの場に残ってしまうだろう。
クロエの願いは『全員追い出す事』だ。
故に、ソフィアは自分の後ろにいる彼に目で合図をする。
ため息が一回、瞠目が二回。
しかして、リヴィドランは立ち上がった。
「『執行官』のリヴィドランだ。早く避難を! 執行委員会の面々も下がれ! ここは俺とソフィア嬢で対応する!」
「リ、リヴィドラン様!? しかし、貴方の手を煩わせるような事では──」
「『魔法具』の暴走は時に実力者と言えど負傷する可能性がある。それともなんだ、お前は俺の力を疑っているのか?」
「っ! し、失礼しました……!」
『執行官』の肩書、そしてリヴィドランの評判は想像以上に効き目がある。この様に睨みを利かせれば一瞬で彼らは非難を開始した。
「──執行委員よ! 十分だ。十分で事を解決する! それまでは何人たりとも周辺の教室に入れるな!」
「畏まりました、『執行官』様!」
ヴィドラの支持を受けた執行委員会の人間はそう言い残すと、生徒たちと共に廊下へと出ていく。それを見届け、ソフィアは、ため息をつきながら『これでいいんだろう?』と言いたげな彼に頷きを返した。
「ご苦労です」
「……てへっ」
避難していく面々の中、こちらに一瞬視線を送り微笑みかけて来た金髪の生徒へ、ソフィアはねぎらいの言葉をかける。
彼女は先ほど、準備室から飛び出してきた生徒だ。即ち──魔法で変身をした、ソフィアの右腕たるプリムラである。
それ等を見届ければ、やがて観戦室からは人っ子一人いなくなる。
この場に残っているのは、指示を出したソフィアと、面倒そうに顔を顰めるリヴィドランだけだ。
──そして、魔法レンズは起動したままである。
この魔法具を切る為には正式な手順を踏まないといけないため、今の短時間では切る事が出来なかっただろう。これは人を追い出しはするが、決闘の内容は続けて見たいと思ったソフィアによる作戦だ。
問題が起きたところで『決闘』は止まらないし、執行委員会にとって最上位の上司であるリヴィドランの指示は絶対。
今この空間は、二人だけが占領する観戦室と化した。
当然だが、暴走した魔法具など存在はしない。
ならば騒ぎを起こした女子生徒に事情聴取をする必要があるが──その女子生徒はプリムラの変身魔法による偽物。つまりは、存在しない生徒である。
ソフィアとリヴィドランは自分の地位に見合う行動をしただけであり、何の非もない。多少の騒ぎにはなるだろうが、そもそもの問題が存在しないのならすぐに鎮火する。
全ては掌の上。ソフィア・フェンタグラムに死角はない。
この作戦の展望を脳内で整理し、それが終われば、彼女は近くにあった席へ腰を下ろした。
同様にリヴィドランもほど近いところに座る。
足を揃え、膝の上に両手を揃える。
ソフィアは流麗な仕草で『決闘遊戯』の様子を見上げ、静かに呟いた。
「──さぁ、お手並み拝見といきましょう。クロエ君」