墜落
遠い遠い昔の話。ぼくたちのご先祖様はそらのくにから墜ちてしまった。理由は何だっけ。天災だったか追放だったか、もう本当のことは誰も知らない。いつからかぼくたちは神様の姿を忘れ、いつかたどり着く地上へと思いを馳せるようになった。神様のおつかいで会いに行っていたという人間に憧れるようになった。だからだろうか。ぼくたちの羽は世代を重ねるごとに脆くなって、もう飛ぶ力なんて残っていない。飛ぶ力の無いぼくたちは、雲を編んで鳥と戯れ墜落を続けながら何世代も暮らしてきた。そらに帰る手段を……飛ぶ力を失っていくのに、地上で暮らすための呼吸という能力が備わらないのはどうしてだろう。中途半端に発達した呼吸器は、墜落し風を受け続けなければこの身体を生かしてはくれない。このまま進化を続けて地上に着く頃には人間になっているよ、なんてみんなみたいに待ってはいられない。天使に戻れず人間にもなれないぼくたちは、きっといつか消える運命。消えるのは構わない。だけど、重力に任せるだけの終わりにぼくは満足できない。
──だから、ぼくは上を見ている。下に広がる青い空、と、天使たち。その先にあるというチジョウはまだ見えない。上に広がるのも青い空、と、天使たち。遠ざかっていくそらのくにはもう見えない。身体が引っ張られる方が下で、崩れかけの羽が名残惜しげに残るのが上。それくらいしか分からない。ちぎれた薄い雲が遠ざかってゆく。晴れ渡った空に、黒ずんだぼろぼろの羽たちが目立つ。
「上、何か見えた?」
仰向けに墜ちるぼくの視界を見慣れた顔が占領する。ぼくと同じ青い瞳と白い髪。それから、誰のものとも違う大きくて立派な羽。
「なんも。」
この子の羽はそらのくににいるという本物の天使のよう。先祖返り、なんて呼ぶひとも。
「上ばっか見てるとまた雲に引っかかるよ。」
くすくすといたずらっぽく笑うこの子は多分、誰よりも人間に近い。本当の人間なんて知らないけれど、天使と言うには表情が生きている。見とれるぼくは人間に憧れてしまっているのか。身体を起こしその節はどうもと答えると、ぐにぐにとほっぺをこねられた。
「消えちゃうとこだったんだからね。反省しなさい。」
分厚い雲に絡まって息ができずにいるところを、あとから墜ちてきたこの子が助けてくれた。なんて格好悪い出会いなんだろう。しかもそのあと、さらに崩れてしまった羽に泣きじゃくって慰められた。寿命を表す羽が傷付いたから、ではない。飛べたかもしれない羽がただの飾りになったから、だ。
「……その羽なら飛べそう。」
「飛べるよ。やったことはないけれど、きっと。」
はっきり答えられるんだ。いいな、すごいな。空の青が少し濃くなって、雲の白が余計に目立つ。多分あの雲に引っかかって、何十もの天使たちが溺れて消えるんだろう。それにしてもあの雲、この子の羽みたいな形だな。……そうだ、閃いた。
「じゃあさ、飛んで、ぼくをあの空の向こうに連れて行ったり……できる?」
雲色でふかふかの羽に伸ばした手は避けられて、かすみ始めた空を掻いた。その向こうの天使たちが勘違いして手を振ってくる。かれらの手前で白い光が編まれて新しい天使が生まれた。それを見た天使たちが器用に羽を使って集まり、仲間の誕生を喜んでいる。この子は読めない微笑みでその光景を一瞥した後、ぐるりと周囲を見渡した。
「できないよ。飛ぶ速さじゃ呼吸ができない。空を越える前に消えてしまう。」
分かりきっていた答えなのに落胆してしまう。空が下から赤くなっていく。今は、そう。暗い方が上。下が赤くて、上に行くにつれて少しずつ薄くなって、青と混ざって、溶けて、新しい色を作って、そして黒の中で赤い星が輝いている。なんて言ったっけ。そう、いちばんぼし。空の色をそのまま映した雲が、ぼくを追い越して空に昇って行く。その中でこの子の羽は純白を保っていた。ぼくの髪は赤い光を切り取っているのに。
「できなくていいならやってもいいよ。」
「どうして」
不敵な笑顔でいちばんぼしを仰いで、おもむろにそこを指した。天使の群れが割れて月までの道ができる。星に先越されたまんまるな月。ぼくの髪よりも冷たくて、だけどよく見るとあったかい色。この子の羽は月の光で白く輝いて、黒い影を雲に落とした。
「月が欠けるまで頑張ろうかなって。」
すると、まんまるな月の端っこが暗くなった。
「上が分かるうちに。」
この子も飽きていたのかな。墜ちるだけのこの生活。
「ほら、行こう。」
細くて長い指に腕を掴まれて、突然怖くなってきた。
「本当に?」
「本当に。」
大きな羽が力を込めるようにぐっとしなった。ぼくの羽毛が抜けた黒ずんだ骨が──羽が、月に向かってなびいている。
「消えるよ?」
「消えようよ。」
どうしてぼくより覚悟しているんだ。
「わかった。雲に引っかかって怖くなったんだ。」
腕を放されそうになって、この子の腕を掴み返した。震えている。格好悪いな。
「行く。」
この子の口角がにっと上がった。何を考えているのやら。なんか、多分、そういうところは天使っぽい気がする。本当の天使なんて知らないけれど。
「うん。行こう。」
白い羽が空気を掴んだ。天使たちのざわめきがそのまま胸の高鳴りに変わる。ぼくたちは今、何か特別なことをしようとしている。
風を越えて、雲を舞い上げ、凪いだ空気を震わせながら。ぼくたちは一直線に欠けた月を目指した。ぼくの生まれたくには、天使たちの群れは、すぐに見えなくなった。ぼくが知っていた世界は案外小さかったのか。
「どう?」
月光に乗って澄んだ声が届いた。ぼくは答えられない。墜ちるよりも早く昇っているのに、口に入った空気がうまく身体の中に取り込まれない。ぼくの羽が崩れていく。苦しくて、痛くて、感想が言葉と表情になってくれない。すごく気持ちいいよ、って伝えたいのに。
「もっと見て。わたしたちだけの空。誰もいない。」
この子はそう言うけれど、ぼくの視界はもう霞んでいた。見上げれば、純白の羽が夜露と月の光を弾いている。乱反射する白い月光がぼくには眩しい。目が眩んで俯くと、真っ暗な闇が広がっていた。そうか、ぼくは今、夜の中を泳いでいるのか。
「あ、はじめて下を見た。」
どうしてこの子の声には余裕があるのだろう。
「いけないよ。呼ばれてしまう。」
風の音が止んだ。力強い羽の音だけが響く、生まれてはじめての静寂。止まったらもっと苦しい。どうしたの、早く昇って。それか、もう墜ちてしまおう。呼吸に忙しい口を動かして、声にならない声で必死に叫ぶ。消えてしまう。羽が崩れてゆく。
「手、出して。」
訳も分からないまま空いていた左手を持ち上げると、この子の指が絡められた。この子にしがみついていた右手も、いつの間にか同じように強く握られる。
「わたしはもう楽しんだから、あげる。」
ぐっと身体を持ち上げられて、この子の顔で月が隠れる。そして、嬉しげな囁きとともにキスが墜ちてきた。額への、祝福のキス。
「待っ──」
キスと握った手の感覚と一緒にあの子は消えてしまった。月よりも白い光が、一瞬だけあの子の輪郭をなぞった。ばさり、と羽が風を起こした。ぼくのものになった羽が、あの子のものよりは小さく薄い羽が、せわしなくはばたいて高度を保っている。苦しい。
「……」
見上げた月はもう細く、黄色い光が雲の上で踊っていた。星は月の隣で青く赤く瞬いて、零れた欠片が弾かれたように跡を残して消えてゆく。それを目で追うと、夜が燃えていた。雲たちがどんどん起きて色づいていく。上を見ると、もう月も星も消えていた。ああ、もう終わりか。
「うん、綺麗だね。」
言い終える頃には青空が広がっていた。