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「朝を告げる音」

作者: 凡 徹也

朝を迎えるそれぞれの情景。

 ~やま

……真夜中の北アルプス山頂近くの山小屋は、全く音の無い世界に支配されている。普通であれば生物の営む場所では空気は揺らぎ何らかの「音」が存在する。「音」は命の息吹なのだから。しかし、人里離れた一万尺では草木も生えない岩稜だけの世界、ましてや今夜は風もないので全く無音なのだ。天上では空一杯に拡がる無数の恒星達がこぞって瞬いてはいるが、地球まではその揺らぐ音は届いてこない。むしろその星達は周囲の空間を圧倒的な力で重く押し固めている様にも見える。

 そんな時の止まったような真夜中の世界でも、時折遠くから小石が断崖を駆け下りる音が近づいてくる事がある。響き渡るその甲高い音は山男達に微かな不安を覚えさせるが、大抵の場合は何も起こらずその音は遠のき、辺りは再び静寂に包まれてしまう。

 そんな無機質な世界も、夜明けが近づいて東の空が微かに白んで来る頃にもなると、イワヒバリだろうか?何処からか鳥の囀りが聞こえてきて山は起き始める。山小屋の中では早番のスタッフが急ぎ布団を畳む。間もなくして木の廊下を小走りの足で踏む軋んだ音と伴に洗面所へとやって来て、柄杓で汲む水が撥ねれば思わず「冷たい!」の声も洩れてくる。

 食堂からはテーブルに食器を並べ置く音や、味噌汁に入れるネギを切る小刻みな包丁のリズム音と伴に「バタバタ」と、人の走る音が忙しなくなる。

 玄関では、早発ちのクライマー達が身支度を終えると小屋を発とうと下駄箱の簀の子を踏む。小屋の主人が「行ってらっしゃい、気を付けて」と、朝の弁当を渡しながら見送りの声をかけると、間もなく引き戸がガラガラと開いた。

 それが落ち着くと、2人,3人と、幕開けが迫るモルゲンロートを見ようと玄関から出て来て、眼前にある岩場のテラスに並んでいく。空は大分明るくなってきた。谷間に見えるナナカマドの実の赤も映えだした。そして大勢が横に揃った頃、一筋の強い光が辺りを照らすと、同時に皆から「オーッ!」と歓声が上がった。その声と連動するようにして小屋と対峙するキレットの岩肌は、味気なかった灰色を覆い隠すかのように、ゆっくりと鮮やかなオレンジのベールに染まり燃え上がっていった。


  ~里~

 緑深い山間いの里では、夜明け前の暗闇の遠くからホンダのカブが走る音が少しずつ近づいてきて止まる。ポストにコトンと新聞を差し込んではカブは動き出し、そして又止まる。それを幾度も繰り返しながら進んでゆく。毎朝の事である。

 その内、「ご苦労さんです」と、この界隈で1番の早起きの女将の甲高い声が山あいに響した。まだ起きるのには早いと布団に潜るやからに追い打ちを掛けるように鶏が叫び、それに連れられて犬が吠える。その声に促されるようにして近所の主婦達も起き出してきた。

 ホースを伸ばし、庭の植木に水遣りをしながら毎朝の会議を始めた。中身はいつもと変わらず取り留めの無い話しではあるが、それでも皆愉しそうだ。

 その会話を割って入るようにして農家の老主人が朝靄の中、軽トラのエンジンを始動し山の中腹に有る畑へと向かった。どうやら、甘くて美味しい朝採りトオキビの収穫をするようだ。その車と入れ替わる様に遠くから自転車が近づいてくる。「ガシャガシャ」と、牛乳のガラス瓶が擦れ合う音が田畑を越え山間をこだましていく。その自転車が段々と道の彼方へと小さくなると同時に「キーン」と雉が鳴き、その耳障りな声が辺りに響き渡った。その声に反応するかのように子供達は、眠そうな目を擦りながら一斉に起き出してきた。


  ~港~

 海辺の町では深い闇夜の砂浜から引っ切り無しに波の音が静かに聞こえてくる。どうやら今夜の海は穏やかの様である。

 港では未だ夜も深いと言うのに電気が煌々と照らす基、大勢の威勢の良い男達が、何かを待ち侘びていた。暫くすると、沖で漁を終えたイカ漁船が「ポンポンポン」と音を立てながら次から次へと港へと戻って来た。甲板に立つ漁師の顔から豊漁の様子が見て取れる。それらの船と入れ違う様に別の船団が、「ポンポンポン」と音を立てて沖へと出て行く。その船を見送るように数羽のカモメが空を舞い、そして鳴いた。

 市場では陸揚げされた生きたままのイカを待ち兼ねた様に、競り人達の勇ましい声が飛び交っている。やがて競り落とされたイカは買い付けた仲買人の車の荷台へと運び込まれ、急いそと港から出立していく。漁師の住む町では何処も毎日こうして朝が明けていくものだ。

 そんな未だ辺りが薄暗い時間に市場にある食堂が開店を迎えた。女主人が暖簾を外に出した途端に、漁から戻ったやんしゅう達や、市場の輩が待ち兼ねてた様に長靴のままでドカドカと押し寄せてくる。

奥から「いらっしゃいませ」と女将の声が響くと、馴染みの客達は、

「ババア、おはよう」と負けずに威勢の良い声で返す。

すると、「あんたにババアって言われる筋合いはないよ、このクソジジー!」とおしぼりが飛んできた。それを、スチールパイプの丸椅子を乱暴に「ガガガ」と音を立てながら客がキャッチする。客が

「女将、いつものな」と言いながら座ると、「あんたに食わせる飯はここには無いよ」と返す。すると、他の客から笑い声が起こり、店内に響き渡った。どうやら毎朝の挨拶代わりの様だ。その後も次から次へと客が入ってきて、店はあっという間に満席だ。豊漁を物語る陽気な笑いと注文の大声が飛び交う中で、海野郎達の朝の宴の幕が開いた。


  ~街~

 夜中、完全防音の効いたマンションの一室は、時計のクロック音と、時折キッチンに有る冷蔵庫のラジエーターの唸る音が洩れ聞こえてくるだけの不思議な静寂感に包まれている。この部屋でずっと過ごしてると今居る場所が大都会新宿近くの街道沿いだということをつい忘れてしまう。そんな安息の中で僕はどうやら、子供の頃に住んだ海沿いや訪れた田舎、登山での出来事を朧気に思い出していたようだ。

 カーテンベールの外では、空が完全に白んで高層ビルの合間から太陽が姿を覗かせていた。その時、タイマーセットして置いた洗濯機が動き出し、炊飯器の炊き上がりを知らせるブザー音が、「ピーッ」と4回鳴り響いた。その内、サイドテーブルに置いたスマホが「起きろ~」と言わんばかりにガタガタと暴れ出した。その、連続した不快な音が、些か耳障りで僕は仕方なくベッドから起き上がりスマホを大人しくさせた。その足で洗面所へと向かい、洗濯物を乾燥機へと移しスイッチを入れてから、洗面台のカランを捻ってコップ一杯の水を喉に一気に流し込んだ。身体が少し潤って内部から目が覚めていくようだ。その後、コンセントから電気シェーバーを抜き取りそれを握って部屋へと戻った。

 カーテンを開け、軽く欠伸をして、重厚なガラス窓を少し開けると、その途端に大都会の耳を劈く雑音が、部屋の中へと遠慮なしに侵入して来て、僕の部屋は差し詰めライブハウスと化す。空気の入れ換えがてらその窓を全開にしてシェーバーを持ってベランダへと出た。

 道路側の手摺りに寄り掛かり、大きく背伸びをしながら、都会の少し濁った空気を吸い込んだ。案外まんざらでもないなと、そよ風吹く中遠くに見える緑道公園の樹々をぼんやり眺めながら、シェーバーのスイッチを入れ髭を剃り始めた。その時、真下を通る首都高速を思い切りエンジンを吹かして唸るバイクが駆け抜けていった。僕は思わず身体を竦ませ、耳を塞いだ。

「うるせえなあ、ばかやろー」

と、誰に向けてもいない愚痴をこぼしたもののその言葉は都会の雑踏にかき消されていく。

 僕の目はすっかり醒めてベランダに置いたスチールのベンチに腰を降ろし、黙ったまま髭を剃り終わると、ため息をついて部屋の中へと戻った。そして、いつもと変わらない一日が始まった。

 毎朝、迷惑極まりない騒音に1人腹を立てる僕だったが、実はそんな望みもしない音が、自分にとって夜の眠りから覚醒させる本当の目覚ましになっている事に全く気が付いていない僕がそこに居るのだった。行き着いた場所が快適なのかそして幸せなのかは判らないままで…。

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