真凛の持病と美紅の発病?
月曜日も真凛は学校に来ていなかった。
日曜日に慈子に彼氏ができたらしく、綾巴と慈子はその話題で盛り上がっている。
自然、美紅は瑠夏と話していた。
「今朝もLINE来た?」
瑠夏に聞かれ、美紅は辛島とのトーク画面を見せる。
「おはよう。一日お互い頑張ろうね!」というメッセージが届いていた。それに対し、美紅は「おはようございます」と返信していた。
問題はそのあとだ。
「これから朝礼がんばるよ」というメッセージとともに、ネクタイを締めて会社の事務机に座っている辛島の自撮りが、送られてきていたのだ。キメているつもりなのか、表情が彫刻のように固まっている真顔だった。
親身になって美紅の心配しているつもりの瑠夏だが、その自撮りを見ると笑いがこみあげてきた。
「ごめんごめん」と言いながら口を抑えて笑う。
「笑いごとだよね」
困っているはずの美紅も思わず笑みを浮かべる。
既読はついたが返信は来なかった。
スーツ姿の自分の写真を送れば、美紅が制服姿の写真を送ってくれるかもしれないと微かに期待はしていたが、なかなかそうはうまくいかないものだ。たしかに自撮りを送るのは恥ずかしいことでもあるのだろう。特に美紅のようなまじめな子は、と辛島は思う。
朝礼では社長が今週の目標を言っている。あとで社長に訊かれても答えられるように数字だけを手帳にメモをする。メモを取っているうちに、目が覚めてくる。脳みそが回転を始めると、辛島の頭の中では、今朝見た夢の記憶がよみがえってきた。
幸せな夢だった。
辛島は美紅と二人で羽田空港にいた。手にはシャルルドゴール行のエールフランスのチケット。
「昔はパリに行くには、成田まで行かないと飛行機がなかったんだけどね」
「そうなんだ。わたし、英也の頭がいいとこ好き」
うっとりするように美紅は辛島を見ていた。
新婚旅行に行くそんな夢。
いま思い出しても顔がほころんでくる。
この話を朝礼が終わったら、美紅にLINEで伝えようと思う。どんな反応をするだろうか。
同僚に「辛島さん」と背中をつつかれて、辛島は現実に戻された。
朝礼中、社長や社員の視線が辛島に集まっている。辛島が今週の目標をいう順番だった。
あわてて、辛島は言った。
「今週の目標は新規一件とアポ十件です。今週は法人ではなく、一般住宅を主に飛び込んでいきたいと思っています」
「わかりました」
そう言うと社長がノートに目標をメモしていた。
「高校生の夜尿はそう珍しいものでありませんよ。統計的には一般に200人に1人ぐらいだと言われていますが、正確に調査されているわけでもありませんし、むしろ羞恥心から病院に来られない方も多く、病気も表面化しにくいため、実際には50人から100人に1人はいるのだろうと言われてます」
真凛は何も言えず顔を真っ赤にして医師の言うことを聞いていた。幸い、中年の女性の医師だったが、それでも恥ずかしい。
母親が頷きながら医師と会話をする。
「学校の先生も毎年何人かいると言われてました」
修学旅行の前に母親は学校に相談していた。おかげで三泊四日の修学旅行も夜中に起こしてもらうことで失敗しないで済んだのだ。
「時間はかかるかもしれないけど、必ず治るから、真凛ちゃん、がんばろうね」
医師は真凛を見て言う。
「はい」
真凛は蚊の鳴くような声で答えた。
昼休みに美紅は携帯を見て、ぞっと鳥肌を立てる。
「こわい」
一緒に弁当を食べている瑠夏も、美紅の携帯の画面を見て寒気が走ったのか、肩を震わせた。
「昨日の夜はよく眠れたかな? おれはいい夢を見たよ。美紅ちゃんと飛行機に乗ってパリに行ったんだ。海外旅行行ったことある?」というメッセージが届いていた。
「どうしよう」
トークを開いたということは既読がついている。返信しないと、既読スルーになる。
「行ったことないですってそのまま送ればいいじゃん」
瑠夏が言った。
「そうする」
美紅は「行ったことないです」と返信した。すぐに返信がきた。返信の早さにも驚いたが、その内容にも驚いた。
「いつかいっしょに行けたらいいね」と辛島は返信してきたのだ。
「あちゃー」
瑠夏が額に手を置く。
「どうしよう」
美紅は瑠夏を頼るように見る。単刀直入に言って怖い。
瑠夏は「思いついた」と言って、手を叩く。
「飛行機きらいです、と送ればよくない?」
「あ、瑠夏ちゃん、冴えてる」
美紅はそう返信する。
「美紅ちゃん、既読付かずに読めるアプリをダウンロードしたほうがいいよ」
瑠夏が言った。
実は、無既読でLINEが読めるアプリは、すでに美紅は試行錯誤していた。
「一昨日まで入れてたよ。でもね、あれって通知をオンにしていないと使えないじゃん」
LINEを既読を付けずに読むというアプリの大半は、LINEから来る通知を保存して表示しているものが多い。そのため、三度目ぐらいのLINEのやり取りから、辛島をミュートしている美紅には、そのようなアプリは使えなかった。
「遠出をするなら新幹線で行けるところのほうがいいかなあ」と辛島からLINEが来ていた。
まだ昼休み中だが、「すみません。もうすぐ昼休みが終わります」と美紅は返信する。
「またあとでね」と辛島はLINEをしたが、美紅はLINEショートカットに表示される未読の数字が厄介だなと思いながらも、トーク画面は開かなかった。
午前中は曇り空だったのに、昼過ぎから日が差してきた。
真凛は病院から帰宅するなり、干している庭の布団を見てため息を吐いた。
「お母さん、もう取り込んでいいでしょ」
母親は家の中に荷物を置きながら言う。
「まだ乾いてないでしょ。やっとお日様が出てきたんだから、もうちょっと干しとこう」
真凛は布団に近づく。人に見られたことなどを考えるとあまり干したくはない。でもいちばん濡れていたところはまだ生乾きの気もする。それに臭いも。
せっかく干すのなら、少しでもきれいにして部屋に布団を戻したいと真凛は思う。
真凛は部屋から消臭剤のスプレーボトルを持ってきた。布団にスプレーする。スプレーで消臭殺菌して、日光に当てれば、絶望的に汚れている布団でも、いくらかは気持ちよくなるような気がしたのだ。
「はーい」
ふいに家の中から母親の声がした。
「え?」と思って真凛は玄関を見る。
スーツ姿の中年の男が立っていた。真凛と思わず目が合う。
「こんにちは」と男は頭を下げる。
男は玄関が開くと母親に話しかけていた。
「辛島英也と申します。もしいま大日本電気さんから電気を買われているのなら、電気代がお安くなるご提案に参らせていただきました」
「ごめんなさいね、うちはタートル電気に変えたのよ」
「奥様、それは聡明ですね。もしかしたらタートル様のほうがお安いかもしれませんが、一度弊社と比較させていただけませんか? お電気料金の明細を拝見させていただければわかるのですが」
「そしたらね、明日もう一回来てくれないかしら。用意しておくから」
「本当ですか。ありがとうございます」
そう言うと、ノベルティの消せるボールペンを渡す。
「こちらをどうぞ」
礼をして辛島は玄関を出た。
公衆トイレのような、ツーンとした臭いが辛島の鼻にかかった。
辛島は臭いにつられて庭を見る。
汚れた布団とその布団に消臭剤をかけてる少女の姿が見えた。
「ありがとうございました」と少女にも声をかけて、外に出る。
汚れた布団を見て、この家には高齢者でもいるのかと辛島は思った。
そして髪を染め、派手な外見だけど、その布団を干している少女を、見かけより立派だなと思った。
放課後になっても、美紅は辛島のLINEを開けなかった。すでに8件、未読のメッセージが溜まっている。
学校を出てすぐに美紅は瑠夏に言った。
「帰り、またおじさんとすれ違うと思うよ」
瑠夏が笑う。
「わたしも同じこと思ってた。ジュースを賭けようと思ったけど、これじゃ賭けが成立しないね」
そして二人の予想通り、国道の歩道に入ったところで歩いてきた。
「今日もこのへんを回っててさ」
立ち止まって辛島は言う。
「昨日はごちそうさまでした」
瑠夏が改めて頭を下げた。
「じゃあ、失礼します」
瑠夏がもう一度そう言って、美紅の手を引いて歩いていく。
北海道新幹線に乗ってみたいなどと話そうと考えていた辛島は、その瑠夏の手際の良さにぽかんと立ち尽くしていた。
角を曲がって、辛島から姿が見えなくなってきたところで美紅が言った。
「ありがとう」
瑠夏は心配そうに美紅を見た。
「大丈夫?」
「わかんない。わかんないけど、顔を見ただけで無理になってるかも」
美紅は走ってもいないのに呼吸を荒くしてそう言った。