弱み
部屋に戻っても、辛島は余韻に浸っていた。
昨夜「おやすみ! いい夢を!」と美紅に送ったLINEには、今朝になって「おはようございます。今日はよろしくお願いします」と返信が来ていた。そのトーク履歴を見て、新たに「今日はお疲れ様! 瑠夏さんと楽しい日曜日を!」とLINEをする。いまは瑠夏と遊んでいるのか、なかなか既読はつかなかった。
素敵なランチタイムだった。
美紅が連れてきた友達が、あの日美紅をいじめていたという瑠夏だったこともよかったと思う。
あのふたりがああやって仲良くできるだけでも、歩道橋で声をかけてよかった。
ずっと二人が仲良く話していたのも、いま考えなおしたら、美紅としては、おかげでこんなに仲良くしてるんだよとおれに見せたかったのだと思う。その気持ちがうれしかった。
LINEには既読はついていなかったが、その気持ちを辛島は美紅に伝えようと思った。「瑠夏さんと仲良さそうで、うれしかった。あの日、美紅ちゃんを追い込んでいた瑠夏さんと、あんなに親しげに話せるようになってたんだね。よかった」とまたLINEに送信する。
夕方まで既読はつかなかった。
図書館を出てからの帰路、美紅はタバコの自動販売機の前で足を止める。
コンビニのバイトという職業柄、タバコのパッケージを見ればその銘柄がわかるが、生まれてから一度も美紅はタバコを口にしたことがなかった。
泣いている瑠夏に向かって、美紅は「どうして真凛に逆らえないの?」と訊いた。美紅に「動画を公開されても真凛のほうが立場が悪くなる」と言っていた瑠夏が、なぜ真凜に逆らえないのか、素直に不思議だった。
瑠夏は泣き声を抑え、黙った。そして、悪事を話すような小さな声でゆっくり話した。
「……タバコ、吸ってる動画、撮られてるから」
美紅は「あっ」と思う。
当たり前だが美紅も瑠夏も高校生、未成年だ。
その高校生がタバコを吸っている動画。それは公開されるとまずすぎる。
まず、学校は停学になるだろう。それだけで済むのか? たしか瑠夏は就職が決まっていたと思うが、その就職すらダメになるかもしれない。
美紅はかける言葉が見つからなかった。
タバコの自販機に貼ってある「UNDER 20×」のステッカーを見る。
自販機には「未成年者の喫煙は法律で禁じられています」と書かれていた。
美紅ちゃんに嘘をついちゃったなと、瑠夏はそれだけが心残りだった。
瑠夏は三泊四日の修学旅行の夜を思い出す。
修学旅行は京都だった。三日目の夜だった。
十時に消灯で、一度寝てしまい、目覚めたのだから明け方だったのかもしれない。
目が覚めた瑠夏は思い出したように起き上がり、バッグから洗濯物を取り出して洗面所に向かった。
瑠夏は洗面所の明かりをつけると、そこからショーツを取り出した。ツーンと匂ってきそうで、思わず目をそらす。
生まれたときから洋式トイレで育ち、外のトイレでも和式だったら我慢をしていた瑠夏に、和式トイレしかない京都の旅館は厳しかった。特にお尻はウォシュレットで洗う習慣がついていたので苦戦した。二日目の朝に用を足したが、うまく拭けず、観光で清水寺の坂を上っている時でも違和感があった。新しいショーツに穿きかえた三日目も朝に用を足した。みっかめも自由行動でフリーパスで乗った市バスの座席に座ってもやっぱり違和感があった。
そしてその汚いショーツと一緒にお土産物を同じバックに入れていることに抵抗があった。
だから、いつかチャンスがあったら洗おうと思っていたのだ。
洗面所には四角の固形石鹸しかなかったが、その石鹸を両手で泡立てる。その泡で、クレヨンで擦り付けたように汚れている、二日目のショーツのシミを包んだ。泡がすぐに茶色になる。一度すすいで、また両手を使い、石鹸で泡立てる。
その時、背中から肩を叩かれた。鏡を見ると、真凛が立っていた。手には携帯を持っていた。
「みいちゃった」
そしてシミを広げていた三日目のショーツを動画で撮っている。
「瑠夏ちゃん、うんち拭けないの?」
「やめてよ」
瑠夏が真凛をにらみ返した。
「あら、瑠夏ちゃん、そんな口、わたしに言えるの? この汚いパンツの動画みんなに送っていい?」
「それは……」
思春期の瑠夏にとって、それは耐えられない。
「真凛さん、ごめんなさいと言えば黙っててあげる」
瑠夏はそう言うしかなかった。
真凛に弱みを握られた瞬間だった。
瑠夏だってタバコなど吸ったこともなかった。
夜になってようやく「今日はごちそうさまでした」と美紅からLINEが届いた。
すぐさま辛島は返信する。
「楽しかったね。なかなか男ひとりじゃ行きにくいところにつきあってくれてありがとう。パンケーキはおいしかった? またご飯食べに行こうね。今度の土曜日か日曜日にまた行こうよ。予定はどう?」
すぐに既読がついた。返信もすぐに来た。
「土曜も日曜も都合が悪いです」
そうなのかと思う。
もっとも、進路が決まっている高校三年生だ。大人になってからじゃ得ることのできない時間もあるのだろう。コンビニでアルバイトもしてお金を作ったら遊びに行く、そんな生活なのかなあと思う。
「そっか。バイトなのかな。残念だけど仕方ないね。都合がいい日を教えてね」
既読はすぐついた。ただ、返信は来なかった。
一時間待っても返信が来ない。
待ちくたびれて辛島はまたLINEをする。
「今度いつご飯食べに行こうか? いつだったら空いてる?」
既読はついた。返信は来なかった。
じりじりと携帯を持って、辛島は返信を待つ。三十分経っても来ない。
「いま忙しいのかな?」
十分後ぐらいに既読がつく。返信は来ない。
「おーい」と呼びかけるようなスタンプを打ってみる。
時計を見た。午後九時を回っていた。二時間近く携帯を持っていたことに気づいた。
ふと不安がよぎる。
やっぱり年齢の差かなと思う。
その不安をかき消すために、指はLINEを送信していた。
「もしかして、おれからのLINE迷惑?」
「だよね。考えてみたら親子ぐらい年が離れているんだもんね。そんな人にご飯に誘われても困るよね」
「今日だっておれよりもお友達と話してたもんね。おれみたいなオヤヂと話すこととかないもんね。迷惑だよね」
「はっきり言っていいんだよ」
三回も連投してしまった。
十分後に既読がついた。
そして返信が来た。
「ごめんなさい。宿題してたんです。全然そんなことないですよ。今日も楽しかったです」
深刻に落ち込んでいた辛島の心に光が差した。そうだよね。美紅はそんな子じゃないもんなと思う。高校生だからな、宿題しなきゃいけないよな。土曜日はバイトでできなかったんだろうし、とひとりで納得する。
すぐに返信した。
「よかった。病んだLINEしてごめんね。ご飯、今度いつ行こうか?」
既読はすぐについた。
すぐには返信は来なかったが三分ぐらいで返ってきた。
「いま予定見てたけどちょっといまはわからないです。明日から学校なので寝ますね」
LINEが返ってきただけで、次の約束が確定しなくても辛島は満足だった。
「おやすみ」というイラストのスタンプを打つ。
瑠夏は美紅から送られてくるLINEのスクリーンショットを苦笑いしながら見ていた。
スクリーンショットでメッセージを発信している辛島英也という人の言葉がいちいちすごい。さすが、ほぼ初対面の私にも美紅の友達ってだけでパンケーキをおごるだけのことはあるなと思う。
「どうしよう」と美紅は本気で悩んでいた。
自分だったら「ごめんなさい」の一言で返信して、それでブロックして終わりなのだが、美紅は辛島に家まで知られているという。偶然を装ってバイト先にも現れるほどだ。断ったらなにをされるかわからないという恐怖もわかる。
美紅はあたりさわりのない返信をして今日は乗り切ったらしい。
ただ、このあとどうするか。
力になりたいんだけど……。
これまで真凛の言いなりでいじめた借りもある。瑠夏は本気でどうかしてあげたいと考えていた。
「明日も学校休みなさいよ」
母親に言われた真凛はすねたように唇を曲げる。
「ちょうどいい機会じゃないの。就職したら時間がなくなるんだから」
「自分でなんとかするからいいよ」
母親はテーブルを叩く。
「いままでそう言って、なんとかならなかったんじゃない。おねしょも治ってない身体でお嫁に行くの?」
「もう! パパの前でそんなこと言わないで」
真凛は立ち上がって部屋に戻った。