瑠夏の悩みと美紅の切り替え
辛島は、成果が出ないので、ひたすら飛び込んで新規の顧客を訪問した。
他の営業が回るロスを減らすため、仕事がうまくいかないときはとにかく知らない顧客に飛び込めというのが社長の指示だった。
顧客の反応を見て、脈があるかないかを判断する。脈がありそうならば、次は電話をしてアポを取って出向けばいいし、なさそうなら会社に報告して、その情報を共有する。
辛島にとって残念なのは、美紅の自宅である菊池家はすでに別の営業が足を運んでけんもほろろに断られていたことである。法人だけでなく一般家庭にも飛び込むのでできれば行きたかったが、情報が共有されてるからこそ行けないのが残念だった。
午後八時までそうやって知らない会社や個人宅を回っていたので、会社に戻ったのは午後八時半頃だった。
会社には、社長ともうひとりの営業しか残っていなかった。
「お疲れさまです」と言って辛島は机に戻る。机の上にクリスマスカードのような手作りの二つ折りのカードが置いてあった。
「ん?」
社長がそんな辛島に気づいて声をかける。
「高校生の女の子が持ってきてたよ。なんでもいじめを止めたんだって。辛島さん、なかなかやるなあ」
「すみません、仕事中だったんですけど」
「いやいや、いいことするのは人間として大事なことだよ。そういう積み重ねが仕事にもつながるんだから」
「すみません」と平静を装いながら言うが、鼓動は激しく高鳴っていた。開くとかわいい文字で「辛島さん ありがとうございました」と書いてある。それから「いじめられていた私を救ってくれてありがとうございました。帰りも家までつきあってくれてありがとうございました。これからはいじめに負けない強い気持ちを持ちます。私を救ってくれた辛島さんの強い気持ちに学びます」と書いてあった。
顔が自然にほころんだ。
この子はおれを尊敬してくれているなと思った。
今日は同じ高校の男子と歩いていたが、手もつないでいなかったし、単純に同じ学校、クラスだけの関係なのかもしれない。
それに高校生に比べれば、おれのほうが人生経験はあるし、尊敬される要素は強いはずだ。
いまどきの女の子と違い、髪も黒くネイルもしないああいう子は、ちゃんと人を内面で見てくれる。
人間は外見じゃなくて内面だ。
そして間違いなくおれは、そこらの高校生男子よりは内面的に優れている。
そう考えるとふつふつ自信がわいてきて元気が出てきた。
日報を書いて午後九時前には会社を出た。
やはり楠浦まで歩いていた。今日は木曜日。あの子はバイトをしているはずだ。
だが、そこまでしか辛島にはできなかった。
カードのお礼を兼ねて、もしくは偶然を装って、あの子が働いているなら、コンビニに入ろうかと思ったが、もし入って嫌われたらと考えると、足を踏み出せなかった。
あの子はおれの内面を尊敬している。
それなのにストーカーみたいにコンビニに現れては、あの子を幻滅させてしまうかもしれないと思ってしまい、辛島は美紅の顔を見るのはあきらめた。
翌日、真凛は学校を休んでいた。
かつては学年で一番の美少女と呼ばれたこともあり、真凛が欠席となると肩を落とす男子もいたが、星吾への溺愛ぶりで、真凛はすっかり教室では女の価値を落としていた。
それでも学年一の美少女の面影は強く、いまだに教室には誰もが真凛に気を使う空気があった。そのため、真凛がいないと途端にみんなリラックスしていた。
休み時間に綾巴や慈子と美紅は笑い合っていた。
「嘘でしょ!」と美紅は声を上げる。綾巴がバイト先の大学生と付き合うことになったらしい。
「それでさ、かーくんね、友達に、私の友達紹介できないかって言ってたの? ふたりとも彼氏いないでしょ。どう?」
「三年のこの時期に彼氏作っちゃっていいのかなあ」
慈子がうっすら笑いを浮かべる。
「時期とか関係ないでしょ。チャンスじゃん。大学生って大人だよ。ね、美紅もどう?」
「わたしはいい」
美紅はぴしゃりと言った。浮かれていた綾巴の顔が真顔になる。
美紅はその空気を読んで慌てる。
「ご、ごめん。そんなつもりじゃないんだけど、わたし、別れたばかりだからまだ気持ちの整理がつかなくて」
「そうなの。同級生とか子供じゃん」
唇を尖らせて綾巴は星吾を見た。
「ごめんね。でもいまはまだ無理かな」
美紅は教室を見渡す。
真凛がいないため、瑠夏はひとりで退屈そうに席に座っていた。
「慈子ちゃんも彼氏ができるといいね」
そう言って、美紅は立ち上がる。
「うん」と言った綾巴は「いつなら空いてるの?」と慈子に予定を尋ねていた。すでに作戦会議が始まったようだ。
美紅は瑠夏の席の前に立つ。驚いて瑠夏が顔を向けた。派手なネイルの指で茶色い髪をかき上げる。
「瑠夏ちゃんありがとう。星吾くんに話してくれて。わたしに言ってること、本心じゃなかったんだよね。それだけでうれしい」
「な、なんのこと」
瑠夏はそう言うと目をそらす。
「わたしだって、同じ立場なら瑠夏ちゃんみたいになると思う。ありがとう」
美紅は気持ちを伝えたかった。
チャイムが鳴り、授業が始まる。
放課後、瑠夏に「よかったら一緒に帰らない」と声をかけられた。
これまで瑠夏に声をかけられるのは、真凛にいじめられるときと相場が決まっていたが、瑠夏の後ろに真凛がいないため、いつもと違う気持ちだった。
「ごめんね、いままで」
校門を出ると瑠夏は、立ち止まって頭を下げた。
「ひどいことをしてきたから許してくれるわけないと思うけど」と付け加える。
「ねえ、ひとつだけ教えて」
美紅は瑠夏の目を見つめる。後ろめたさに瑠夏は美紅の目を見続けるのがつらかったが、逸らすことはできなかった。
「なに?」
「わたしの動画ってどうなったの?」
真凛のいじめのひどさは動画にあった。
脅して変な格好をさせて動画を撮る。そして次にはその動画を弱味に更に思い通りにいじめる。
美紅はそれだけが気になってた。
「消したりはしてないから真凛は持ってると思う」
美紅の気になってるのはそこじゃなかった。
「その誰かに見せたりとか……」
「するわけないじゃん。やったら人間見られるのは、真凛だよ」
「あっ」
「わたしもだけど、真凛も映ってるし。それを他の人が見たら、絶対許せないでしょ。なんてひどいことをしてるんだと、停学とか就職取り消しだってなるかもしれないよ」
言われてみればそうだ。
瑠夏はすがるように美紅を見て、手を握った。
「だから、わたしがこんなこと言うの許せないかもしれないけど、わたしが真凛に言われてきつく美紅ちゃんに当たるかもしれないけど、でも、真凛がなにかしてきた時、美紅ちゃんがそう言ってくれたら、真凛ももうやめるかもしれない」
「わたし、真凛ちゃんに言えるかなあ」
美紅は空を見上げた。
帰り道、瑠夏は真凛のわがままに付き合うのが大変という話をずっと話してた。
人の悪口を聞くのは美紅は好きではなかったけれど、それだけ瑠夏も我慢してたんだなあと思うと、美紅はおとなしく耳を傾けた。
一昨日、瑠夏に脅された歩道橋が見える。お互いにいやな記憶があるので、歩道橋は渡らず信号を待った。
「昨日、会社にカードを届けてくれてありがとう」
ふいに辛島英也に声をかけられた。
「いま帰り? だいたいぼくはこの時間このあたりを営業してるんで。お友達ですか? こんにちは」
ひとりで辛島はべらべらしゃべる。
美紅は、辛島が瑠夏に気づかなければいいなと思っていた。また瑠夏も辛島に気づかなければいいなと思っていた。
信号が青に変わる。
「それじゃあ失礼します」と美紅は歩き出した。
辛島が「うん。学校は楽しい?」と美紅に訊く。
「おかげさまで楽しくなりました」と美紅は答えて横断歩道を渡った。
渡りながら瑠夏が「親戚のおじさん?」と美紅に訊く。
美紅は「そんなところ」と答えて、瑠夏が一昨日の人と気づいていないことにほっとした。
辛島は満足そうに横断歩道を渡る黒髪の後ろ姿を眺めていた。