ひとりの男に恋してる女子高生ふたりとそれを知らないヒーロー
つくづくツイていない日だ。真凛は帰宅するや、ベッドの上に胡坐をかいて、頭を掻きむしった。むしゃくしゃする。なにもかもうまくいかない。
一時間目の英語の授業がつまずきの発端だった。眼鏡をかけた初老の女教師は黒板に「It rain this afternoon.」と書いた。
「はい、この文章に助動詞を入れて、今日の午後は雨が降るかもしれない、という文章にしなさい。今日は24日だから、ナンバー、トゥエンティーフォー、ミスヤベ、スタンダップ」
当てられて出席番号24番の真凛は、慌てて立ち上がる。今日が24日なのだから、もっと気をつけておくべきだったと思うが後の祭り。黒板を見る。幸い、どれも知っている単語だった。しかし、単語を読んでいるうちに大きなミスをしてしまう。真凛は rain を名詞として読んでいた。
「……イットイズレインディスアフタヌーン」
当てずっぽうだが It is rain this afternoonと言ったつもりだ。
Itと名詞の間は is でいいんだという中学生レベルの知識はあった。
見る見る教師の目がつり上がる。くすくすという声が教室のどこからともなく聞こえる。
真凛はその表情を見て自分の犯した罪に気付いた。教師のヒステリーを刺激してしまった。もう取り返しがつかない。
「ミスヤベ! 先生は助動詞と言ったでしょ。isはbe動詞じゃない。あなた中学校卒業してるの? わかってるの? 立ってなさい!」
まるでクイズ番組で答えを間違えた解答者のように、真凛は立ったまま、座ることを許されなかった。
「ミスターミドリカワ、あなたはわかるよね?」
よりによって教師は星吾を当てた。
「It may rain this afternoon」
「Right! 素晴らしい」
教師は満足そうに拍手をする。「座っていいわよ」と緑川に言って、軽蔑したように真凛を見る。
「ミスヤベ、あなたも座っていいわ。中学生で助動詞は勉強するのよ。ちゃんとわかってないと恥ずかしいわよ」
座るまで真凛は女教師に嫌味を言われた。星吾のあきれたような視線も痛かった。
思い出すたびに悔しくて泣きそうになる。
そのあとも裏目が続いた。二時間目の休み時間にトイレに行こうと思ったら、女子トイレが混み合ってて並んでいる間にチャイムが聞こえた。用を足せず三時間目の授業を受けてたら、どうしても苦しくなって、授業中に手を上げてトイレに行くという恥ずかしさを味わった。おまけにトイレを我慢したときにかいた汗で、アイブロウが落ちてしまい、かたかたの眉毛になっていたのに昼休みまで気づかなかった。
そして決定的なのはその昼休み。
お弁当を食べ終えて、歯を磨いて教室に戻ったら、星吾がひとりで机に座っていた。9月には美紅とべたべたしていたのに、10月に入ると星吾は、昼休みはひとりで携帯をいじっているか、寝ていることが多かった。携帯をいじってはいたが起きていたので、真凛は話しかけた。
10月も下旬だというのに、今月になって初めて星吾に話しかけたような気がした。
「聞いたよ、美紅と別れたんだって。元気?」
「元気だよ」
そう言いながら星吾はあくびをした。
真凛は周りを見渡す。星吾に顔を近づけて小声で言った。
「もしよかったら、もう一度あたしとやり直さない?」
「ない!」
即答された。
「そう言わないで」
恋人時代のように、真凛は腕を星吾の首に巻き付けた。星吾は力ずくでそれを払う。突き飛ばされた格好になり、真凛は教室に尻もちをついた。
「もうそんな関係じゃないんだから、なれなれしいのはやめてくれ」
真凛に反論の余地はなかった。もう恋人じゃないのだ。黙って教室を出た。トイレで泣いた。
夏までの真凛は、星吾にすごく愛されている自信があった。学校の中でも真凛が求めればキスをしてくれる。もちろん学校ではずっと一緒で、お互い家に帰っても、寂しいとLINEをすれば電話をくれた。休みの日はいつも一緒にいた。「好きって言って?」と言えば「好き」と返してくれた。それなのにもう星吾は「好き」と言ってくれないのだ。
気分を晴らそうと美紅を放課後、歩道橋に連れて行って遊んだら、今度は変なおっさんから怒られた。
なにもかもうまくいかない。
携帯を手に取る。星吾へ、「今日はごめんね。でも好きだから」とLINEを送った。
お風呂から上がった美紅は、部屋でLINEを開いた。午後八時、弟と父がリビングでゲームをしている音が二階の部屋にも聞こえる。
ようやく星吾くんからのLINEに既読がついた。もっとも最近は返事が来ることはなく、トーク履歴は美紅の「すきです」「また遊びたいです」と言った言葉が並んでいるだけだが、メッセージを読んでくれたんだと思うだけで気持ちが和んだ。暗闇に石を投げるようなものかもしれないけど、こうやってメッセージが届くだけで、かろうじて細い糸で星吾くんとつながれている気になる。
「そういえば」
ベッドの横にハンガーで吊るしている制服のスカートを見て思い出す。美紅はスカートのポケットから、辛島の名刺を取り出した。
「ご両親にはちゃんと相談したほうがいいよ」
心配そうな顔で美紅を見てくれていた辛島の顔を思い出す。あんな優しい人が学校の先生だったらいいなと思った。
だけど美紅は、いじめられていることを親に話す気はなかった。
いじめの原因は明確だ。
三年生になって星吾と真凛は付き合いだした。真凛の溺愛ぶりは異常で、それまでクールなキャラだったはずの星吾が、バカップルになってしまうほど振り回されていた。四か月、よく続いたほうと美紅は思う。夏休みを前にしてようやく星吾は、真凛と別れることができたようだった。
そして二学期になり、星吾が告白してきたのが美紅だった。
「真面目そうな瞳のとりこになりそうだ」
美紅が初めて男性から告白された瞬間だった。おとなしい性格は恋にも臆病で、美紅は好きになる男子はいたけれど、好きと思うだけでなにもできなかった。
そして二年生の頃から、密かに美紅は星吾が好きだった。好きだけど自分と釣り合わないのはわかっていた。ただ、アイドルを眺めるように教室で星吾を見られることで満足していた。アイドルと違い、毎日星吾と同じ空気が吸えるだけで幸せだと思っていた。
その星吾に告白されたのだ。断る理由はない。
付き合っている間は何度も星吾は、美紅のことを「好き」と言ってくれた。
ただ、「なにをしたい?」と聞かれても「なんでもいい」、「なんか食べる?」と聞かれても「星吾くんがお腹が減ってるなら」と答えてしまっていた美紅は、星吾にとってはおもしろくなかったのだろう。
一か月で「ちょっと距離を置こう」と言われた。
それはつまり「別れる」という意味だったのだろうが、美紅は素直にそう捉えることはできなかった。
たしかにほとんど話さず、距離は取っている。
でも、こうやってLINEをブロックしないでまだつながっている以上、「ちょっと距離を置こう」の「ちょっと」の期間がいつかは復活するかもしれないと、頭ではそんなことはないと冷静にわかっているところも半分あるが、それでも気持ちの半分は期待していた。
だって星吾くんは私の瞳のとりこになりそうと言ってくれたんだから。
そしてなにより、いまだに真凛からいじめられるのも、星吾に愛されている理由のひとつのような気さえしていた。
だから親にはいじめられていることは相談しない。だって恋愛のことだから。
トーク画面に表示された「既読」の文字を、美紅は口許を緩めてもう一度見る。ちゃんと星吾くんにメッセージは届いてる。それだけで、一日の疲れが癒された。
辛島は会社に戻ると、「三角北高校」の公式サイトを見た。美紅と同じ制服を着ている女子生徒が写っている。その写真をダウンロードしては拡大して、美紅がいないか探していた。
「辛島さん、お疲れさまでした。帰っていいですよ」
辛島の日報を見ていた社長が、机に座ったまま言った。
「わかりました。お先に失礼します」
辛島はブラウザを閉じてパソコンの電源を落とす。
午後八時過ぎ、会社の外を出ると辺りは真っ暗だった。10月とはいえすっかり寒く、冬のように風が冷たい。それでも外の空気を浴びると今日の美紅を思い出す。
まっすぐ帰ればいいものを、足は楠浦のほうを向いていた。
今日は水曜日だからバイトはしてないだろうと思いながら、美紅がバイトをしていると言っていたコンビニで、缶チューハイとスルメ、おにぎりを買った。
それから、気がついたら美紅の家まで歩いていた。
二階の部屋に明かりがついていた。青いカーテンが美紅らしいなと思った。きっとあそこが美紅の部屋だろうと思う。
辛島は五分ぐらい、息をひそめてその部屋の明かりを眺めていた。