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辛島英也、ヒーローになる

 校則の緩い三角北高の女子生徒のスカートは短い。矢部真凛はその短いスカートを歩道橋の風でゆらゆらさせながら、真凛に比べれば5センチは長い菊池美紅のスカートを、腕を組んでにらんでいた。真凛と同じように腕を組んでいる御船瑠夏が言う。

「ほら、赤になるよ。今度こそ、美紅さんはやってくれるよね。なんでもやるって約束したじゃん」

 交差点に架けられた歩道橋の下には信号機が取り付けてあった。その信号が赤に変わる。片側一車線の道路だが、そこそこに交通量があり、すぐに車が並ぶ。

「瑠夏、いいよ別に。無理にさせなくても。しなければどうなるかわかってるはずだから」

 真凛がスカートのポケットからスマートフォンを取り出した。カメラロールから動画を選択して再生する。

 動画は真凛と瑠夏の笑い声から始まっていた。

「まじでやるの?」と瑠夏が冷やかし、「我慢できないんだもんね」と真凛に言われている。

 場所は学校の女子トイレ。

 美紅は、便座を上げた洋式トイレの縁に足を置き、ちょうど和式トイレでしゃがむような格好をしていた。腰に巻き付けたスカートを支える手が震えてる。その格好で半泣きのまま放尿を始めた。「うそ、出てる」と瑠夏が声を上げたのを「静かに」と真凛が抑える。ちょろちょろちょろと、美紅の尿の音が動画から流れた。

 美紅はその動画を見て、覚悟を決めた。逆らえない。こんな動画が、男子も見ているクラスのLINEグループに流れてしまえば、あと半年で卒業と言っても、楽しい思い出のある美紅の高校生活に暗い影が落ちてしまう。仲良くしてくれている綾巴や慈子からも口をきいてもらえなくなり、それに星吾くんに知られたら……。



 辛島英也はスキップしたいような気持ちで喫茶店へ向かっていた。

 辛島の会社は2016年の4月に設立された新電力のベンチャー企業だった。電力の自由化にあわせて作られた会社だ。太陽光発電でバカ儲けした社長が作った会社で、社長は45歳の辛島より15歳も年下だった。

 辛島は、22歳で大学を卒業し、20年間中小のシステムエンジニア会社で営業とプログラムをこなしていたが、激務に疲れ果て、もう少しラクをしたいとこの会社に転職した。気づけば40歳を過ぎていたが、趣味という趣味も大してなく、結婚どころかまともに話ができる女性の知り合いもいないありさまだった。

 たしかに会社はシステムエンジニア時代よりは勤務時間は短かった。遅くても21時には退社ができ、毎日終電まで仕事をしていたシステムエンジニア時代と比べると、睡眠時間は確保できていた。完全週休二日も嘘ではなかった。ただ、ラクをしたくて転職した辛島と、ベンチャーとして会社を大きくする野心を抱いた若き社長とは、ベクトルが全く違った。十人の会社だから、社長と話す機会も多い。社長は費用対効果を営業にも求め、厳しく仕事ぶりを監視していた。契約は取れなくても、次に会う約束ぐらいは取って来いと、毎朝言われていた。しかし現実には「大日本電気よりも電気代がお安くなりますよ」と言っても、話すら聞いてもらえない顧客と出会うばかりの日もあり、そういう日は足がひどく重くなり靴底を減らしていた。

 それが今日は午前中だけで4件、提案を聞いてもらえたのだ。4件とも、次に訪問するアポイントももらえた。

 昼食後の13時からは、もともとアポのあった顧客を訪問し、プレゼンして前向きな反応をもらえた。そして16時からは、契約のアポが入っている。時計を見るとまだ14時。15時50分までは喫茶店でゆっくりサボタージュできると、うきうきだった。サボっても、結果を出しているから、今日の日報は社長は褒めこそすれ、怒りはしないだろう。

 歩行者信号は青だったが、辛島は腹を触って歩道橋の階段を上ることにした。自分ではそんなに太っている自覚はなかったが、会社の健康診断ではメタボリックシンドロームと注意を受けていた。来月には婚活パーティーに行く予定もある。階段を一段一段上がっていく。辛島ははじめは軽やかな足取りだったが、上るに連れて息が切れてくる。負けてなるものかと踊り場で止まらずに、歩道橋の上までたどり着いた。そして足が止まった。

 歩道橋の上には三人の女子高生がいた。髪を茶色く染めた派手な女子高生が二人と、髪の黒いおとなしそうな子がひとりだ。秋の冷たい風に乗って、女子高生の付けている香水の柑橘系の匂いが鼻をくすぐる。髪の茶色い女の子たちの爪の色を見て、最近のJKはすごいなと思った。髪の黒い女の子は爪にネイルをしていなかった。その指がスカートをつまむ。髪の黒い女の子はスカートを持ち上げた。黒いスカートから現れた白いショーツは、太陽の光を反射させ、眩しく光る。それから蚊の鳴くような声で、黒い髪の女の子は言った。

「聞いてください。菊池美紅は露出狂の淫乱です」

 茶色い髪の女子高生が怒鳴る。

「聞こえねえんだよ! ちゃんと言えよ!」

 白いショーツに見とれていたが、その光景を見て、さすがに辛島も状況を把握した。

 これはいじめだ。

 辛島にとって幸いだったのは、これが男子生徒のいじめではなかったことだ。同じ高校生のいじめでも、派手な男子高校生二人がおとなしい男子高校生を脅して同じように歩道橋でトランクスを露出するように強要していたら、辛島は自らの腕力の自信のなさから踵を返し、歩道橋を降りていただろう。そして三日は逃げてしまった自分の情けなさを悔やみ、その後もこの歩道橋を通るたびに自己嫌悪にさいなまれていたかもしれない。キレる若者は怖い。でも女子高生なら、なんとか手に負える気がしていた。

「君たち、なにをしてるんだ!」

 辛島は歩道橋から怒鳴った。

「やべっ。うぜーおやじだ」

 茶色い髪をした女子高生は逃げるように歩道橋を走り、階段を降りて行った。髪の黒い女子高生はスカートから手を放す。白いショーツが隠れる。そして女子高生は救われたように辛島を見つめていた。

「ありがとうございます」

 辛島は営業で慣れている優しい声を出した。

「大丈夫だった?」

「はい」

「なにがあったかわからないけど、普通じゃなかったから。おせっかいだったらごめんね」

 女子高生は首を振る。

「そんなことないです。本当にありがとうございました」

「ご両親や先生に相談したほうがいいよ」

 辛島はそう言い残し、歩道橋を渡ろうとした。

 女子高生は辺りを見回し、辛島の手を握る。女性に手を握られたのは初めての経験かもしれない。胸が高鳴った。

「家まで送ってくれませんか。ひとりで帰るの、怖いんです」

「家はどこなの?」

「楠浦です」

 十分ぐらいで着く距離だ。ぜんぜん余裕で行けると思ったが、ちらっと時計を辛島は見た。

「わかった。お供するよ」

 シャンプーの香りだろうか。香水とは違う甘いにおいが辛島の鼻をかすめた。



 別に女子高生を助けたからと言って、浦島太郎を助けた亀みたいに竜宮城に連れて行ってくれるわけではない。

 そんなことはわかっているが、辛島は浮かれた気分で歩道橋を降りた。さすがに手をつないではいないが、女子高生と肩を並べて歩くだけで心が躍った。

 特にふたりで話すことはなかったが、黙って歩き続けるのが息苦しくて、美紅は自己紹介をした。

「菊池美紅といいます。三角北の三年です」

「そうなんだ。北高にしてはまじめな雰囲気だね。進学コース?」

「違いますよ。普通科です」

 辛島はその美紅の返事を聞いて、なかなかおれも女子高生とうまく話せるじゃないかと、密かに悦に入っていた。

 甘いにおいのするまじめそうな黒髪。化粧をまったくしていないのに有田焼のように白い肌。気の弱そうな喋り方だけど、切れ長の目が鋭く魅力的に光っていた。たぶんこの子は男を知らないなと、辛島は中年らしく値踏みする。だけど化粧をすれば急激にかわいくなって、成人式では男子たちにちやほやされるタイプだろう。

 楠浦に入ったぐらいのとき、美紅が足を止めた。辛島も足を止める。片側一車線の道路の歩道。車道はそれなりに交通量が多い。美紅は道の向かいのコンビニを指さした。

「あそこで基本、火曜日と木曜日の夕方の5時からバイトをしてます」

「へー、えらいなあ」と辛島は答えたが、高校三年生が夜のコンビニでバイトなんて、なんとなく感心しないなと思う。進路は決まっているのだろうか。

「高校卒業したらなにをするとか決まってるの?」

 辛島が訊く。

「専門学校に行きます」

 辛島は、美紅と会話をしているだけでうれしかった。

「なんの勉強したいの?」

「それが、あんまりなにしたいかわからなかったんで、医療事務の勉強しようかなあと」

「あ、いいね、医療関係は喰いっぱぐれなさそうだし」

「そうなんですね。あ、ここでいいです」

 歩いているうちに美紅の自宅に到着した。美紅は学校名の入ったスポーツバックを右肩にかけたまま、頭を下げる。

「今日は本当にありがとうございました」

 辛島はわざと大人らしく微笑する。

「言いにくいと思うけど、ご両親にはちゃんと相談したほうがいいよ」

 美紅は受け入れられないのか、辛島がそう言うと目をそらした。それから話を変えるように辛島と目を合わせる。

「そういえばお名前も訊いていませんでしたね。恩人ですのに」

「恩人だなんて」

 見苦しいほど辛島は照れる。

「お名前教えていただけませんか?」

 そう聞かれても名前を教えないほうがスマートな気が辛島はしていた。テレビドラマならこういう場合、いえいえ、名乗るほどのものではございませんと、さっそうと立ち去り、名前を訊けなかった女性は必死になって誰が助けてくれたのだろうと男の人を探すものだ。そのほうがかっこいいと思う。

 だが、ここで名前を教えなければ、美紅にとっては長い高校生活の一時間ほどの記憶でしか辛島は残らず、大人になれば忘れられるかもしれない。こんなに楽しい思いをしているのに正直それはつらい。

「あ、辛島って言います」

 よせばいいのに言いながら辛島はスーツの胸ポケットから名刺を出していた。美紅の記憶に名前を残したかった。

「ありがとうございます。本当にありがとうございました」

 美紅は両手で名刺を受け取るとスカートのポケットに入れて、家に入っていった。

 辛島は余韻に浸るように、「菊池」と標識が下げてある一戸建てを眺めていた。

 

 

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