Good morning Ms. afternoon
こちらの作品はpixivにもあげています。
「おはよう。午後だよ」
「――オーガスト」
目の前で寝ている少女は、目を細めてこちらを見ると、微笑み、二度寝を始める。
そう、今月は八月。
寝言を呟く彼女の口に軽い口づけをする。
天使のような寝顔だった。
そんな彼女の顔を映す僕の視界は、白く濁り始めていた。
世界が白く塗りつぶされていく。
蝉の声が遠ざかっていく。
何もかも薄れ、かすれ、消えゆく。
身体が優しい何かに包まれていく。
「もう時間みたい。ごめんね。黙っていなくなっちゃうけど、僕は君のそばに――」
――――またね。
声が聞こえる。
まだ眠いのに身体を乱暴に揺らされて、軽くまぶたを開く。
「おはよう。ポストメリー」
目の前には見知らぬ少年が、あぐらをかいて畳の上に座っている。
年齢は私と同じぐらいだろうか。第二ボタンまで開けたワイシャツに、脛が半分見えるほど捲ったジーパン。肌は病的なほどに白い。
「君、誰なの」
空き巣。いや私が家にいるってことは、家は空いてないから、強盗?
「さあ、誰なんだろう」
「いやいや、ふざけないで。誰なの?」
ちょっと怖い。なにかのドッキリとか。実は親戚の子でしたみたいな。
「うーん。本当にわからないんだけどなあ。あ、そうだ。ポストメリーが名前をつけてよ」
「ポストメリー? えーっと。その前に私はポストメリーとかいう名前じゃないんですけど」
本能的に昼寝に使っていたシーツを手繰り寄せて、身体を少し隠した。
「いや、ポストメリーだよ」
もしかして頭がおかしい子なの? 記憶喪失とかかな。
「ポストメリーじゃなくて、午来後架」
「うん知ってる。ポストメリーじゃん」
「ポストメリーじゃないんだって。う、し、の、き、こ、う、か。わかる?」
「わかる。それより僕の名前は?」
駄目だ。話が通じない。ここは素直に名前でも何でも付けてあげて、さっさと逃げた方がいいのかもしれない。
「わかったわかった。えーっと、じゃあ」
辺りを見回して、何か適当なものを探した。どうせなら適当に目に入ったものの名前から考えて、変な名前にしてやる。
だけどここはありふれた田舎の、ちょっと高台にある家。おもしろそうという意味で目ぼしいものはすぐに目につかなかった。雨戸の外には田んぼが広がり、稲穂が風に揺れている。蝉のうるさい鳴き声が耳につく。かんかん照りの太陽が、うなる熱気を巻き起こす。
家の中とはいえば、風が吹き抜け、外よりはましな気温。畳が敷き詰められたこの大広間は、大人二人ほど寝そべられる机に、心のオアシスの扇風機。よくわからない掛け軸に、押し入れが幾つかあるだけだ。あとは、日記。
これでいいか。日記は私が小さい頃から、夏休みだけ書き続けているものだ。といっても三、四年前からだけど。
去年あたりのぱらぱらとめくる。適当に開いたページ。それは去年の今日の日付だった。そのページの副題に目を惹かれた。
「英語かぁ。ぷぷぷ」
「決まった?」
少年は依然そこにいた。この私が無防備な時間、何もしてこなかったことを考えると、悪い子ではなさそうだ。さしずめ、最近ここらに引っ越してきた子だろう。しかも頭が少しおかしい。あと、記憶喪失。…………多分だけど。
「君の名前は、オーガスト」
「オーガスト…………」
少年は下に俯く。
「やっぱり、嫌だった?」
何だかちょっと馬鹿にしすぎた名前だったのかもしれない。可哀そうに思い、ついそんな言葉を漏らしてしまった。
だが少年は嬉しそうな顔をして、こっちを見つめてきた。
「いい名前だよね」
その顔が、ちょっとカッコよく見えたなんて口が裂けても言えない。
「…………え、いや、八月って意味なんだけど」
「知ってるよ、ポストメリー」
「だから、ポストメリーじゃ…………もういいよ」
もう諦めることにした。それに不思議と嫌な気はしない。
「ありがとう。この名前は、本当に好きなんだ」
「まあ、あだ名みたいなものだけどね。でも適当につけたあだ名なのに、どうしてそんなに嬉しそうなの?」
少年は太陽のように笑う。
「君が覚えていてくれたからだよ。たとえ忘れてしまっていても、その日記で覚えていてくれたからなんだよ」
私はただただ、その言葉に困惑するばかりだった。
彼女がその名前を付けてくれるのは運命としか思えなかったんだ。
「ねえねえ、オーガスト。結局、本名は何なの?」
「オーガストだよ。ポストメリーが言ったんじゃないか」
「そうじゃなくてさあ」
ずっとこの調子だった。本名を聞いてもオーガストの一点張り。家はここらへんにあるというけれど。実際どこにあるかわからない。オーガストの帰りをこっそりついていっても、途中でまかれてしまう。
「ねえ、オーガストは何歳なの?」
「ポストメリーは?」
「私? 私は十二歳」
「じゃあ、十二歳だね」
「じゃあって……でも私と同じだね。夏休み開けたらここの学校に来るの?」
「……もちろん」
少し間があった。どことなく、オーガストの顔は暗い。
「ごめん。もしかして夏の間だけ帰省しているとか。……変なこと聞いた?」
「いや、変じゃないよ」
オーガストは気丈に振る舞っていた。
「あ、そういえば、どうして私はポストメリーなの? 初めて会った時も言っていたよね?」
「初めて…………ね。確かポストメリーの名前と、お寝坊さんなところからかな」
「でも初めて会った時にオーガストは、私の名前なんて知らなかったし――」
「ええっと、それよりこれから何する?」
「え、ちょっ、それじゃあわからないから、ちゃんと答え――」
ぐいっと、私の手を引いて外に連れ出した。
「夏はまだたくさんあるんだ。たくさん遊ばないと」
オーガストの手は冷たい色をしていたけれど、その手は確かに温かかった。
限られた時間だったから、少しでも君に笑っていてほしくて。
「ねえ、お母さん。最近引っ越してきた子とかいない?」
「ん? そんな子いたかしら。そういえば、あなた最近男の子とよく遊んでいるわよね」
「う、うん」
「ああ。ふーん。あの子のことね。多分夏休みの間だけここに来ているとかじゃないの」
「ううん。引っ越してきた…………って言ってなかったなあ。でも学校に転校してくるみたいだから、引っ越しているはずなんだけど」
「じゃあ、まだこっちに家を建ててないとか、親戚の家に一緒に住むとかそんなもんじゃないの? 後架、去年もこんなこと聞いてこなかった?」
「そうだっけ?」
「そんなことより、もうすぐ彼の命日なの、わかっているわよね」
「わかっているって。命日を忘れるわけないじゃない」
「ならいいけど」
「絶対に忘れない。いつまでも」
いつも遠くから、君を見守っていたんだ。
オーガストと出会って一ヶ月。
たくさん遊んだし、たくさん喋った。
一緒にいる時間はすごく楽しかったし、飽きなかった。
日記に書く内容も尽きなかった。
それに彼と一緒にいると、なんだか――。
そんな八月の星降る夜。
オーガストと私は縁側で足をぶらぶらさせながら、隣に座っていた。
どこか寂しげな夜の空。流れ星が煌びやかな夜空に、まるで絵筆のように彩りを加える。
オーガストが唐突に立ち上がる。
「僕、もう行かなくちゃ」
「行くってどこへ? 家に? もうちょっと一緒にいようよ」
「ううん。どこかもわからない、遠いところに行くんだ」
「遠いところってそんな、曖昧すぎるよ」
「僕もわからないんだ」
「またそればっかり! いつもそれ。私の質問は何でも、わからない。いいかげんにしてよ」
「ごめんね。だけど行かないと」
「ご、ごめん。怒鳴っちゃって。でも、もしかして……病気とか? ほらオーガストって色白だし、どこか体が悪いとか? でもここは空気綺麗だし――」
「そういうことじゃないんだ」
いつの間にか、空は曇り始めていた。
「もうすぐポストメリーは忘れてしまう。僕との記憶を、何もかも」
「オーガスト。何を言って」
「大丈夫。君は覚えてくれている。あの日記で」
「日記?」
ぽつぽつ、と小雨が降り始める。
「安心して。僕は覚えている。いつまでも」
「そんな、いなくなるなんて。オーガストの本名も知らないのに!」
オーガストを引き留めるのに夢中だった。もう会えないような、オーガストはそんな儚い存在のようだった。
「僕に名前はないんだ。それに何回も言っただろ。僕の名前はオーガストだ。ポストメリーの知りたいことは全て、その日記に書いてある」
オーガストは机の上の日記を指さした。
恐る恐る、私は手を伸ばす。
日記をめくった。
一枚目は日記をつけ始めた最初の年。確か、まだ小学三年生。
『今日、へんなお友達が出来ました。じぶんの名前がわからない男の子です。その子は、夏の途中で消えてしまうと言っていました。よくわからなかったけど、その子に名前を付けてあげました。少し前に、英語であつい日とか八月のことを、オーガストということを知ったので、今日はあつい日だったから、オーガストという名前にしました。カタカナでかっこいいでしょ、と言ったら、男の子はそうだねと言ってくれました。今日はとても楽しかったです』
まさかと思い、日記をめくる。そう、小学四年生。
『去年に続いて、夏休みが始まる今日から日記をつけ始めた。今日は起きたら名前がわからないと言う男の子がいた。男の子はポストメリーというあだ名をわたしにつけてくれた。短くしたら午後だから、ピーエムだって。あと、カタカナはかっこいいって。あだ名をつけてくれたのは初めてだったから、なんだかうれしかった。だから、私は去年の今日のタイトルから――』
読み飛ばし、震える手で日記をめくる。小学五年生。
『記おくそう失っぽい男の子がいた。名前がわからないらしい。変な子だったので、ちょっとおかしな名前をつけてからかおうと、適当に目に付いたこの日記の日付の副題から、七月だけど、彼をオーガストと呼ぶことにした』
オーガストに言いたいことがあったのに。
ぽとり、と力なく項垂れた手から、日記を落としてしまう。
土砂降りの雨を降らす雲の上で、流れ星が一つ流れた。
…………え、オーガストって誰だっけ。
あれ、どうしてこんなに悲しいの?
今まで、そこに、私の大切な人がいたはずなのに!
ねえ、どうして私、泣いているの?
ああ、また消えていく、僕の存在。
大丈夫。泣かないで。
次の夏、午後まで起きなかったら起こしてあげる。
――お寝坊さん。
「おはよう。ポストメリー」
彼女は僕を凝視してきた。
「いや、君、誰なの」
「さあ、誰なんだろう」
「いやいや、ふざけないで。誰なの?」
「うーん。本当にわからないんだけどなあ。あ、そうだ。ポストメリーが名前をつけてよ」
いや、知っている。僕は、僕の名前を。
「えーっと。その前に私はポストメリーとかいう名前じゃないんですけど」
彼女はシーツを手繰り寄せて身体を少し隠す。
「いや、ポストメリーだよ」
「ポストメリーじゃなくて、午来後架」
「うん知ってる。ポストメリーじゃん」
「ポストメリーじゃないんだって。う、し、の、き、こ、う、か。わかる?」
「わかるよ。それより僕の名前は?」
これは確認だ。
「わかったわかった。えーっとじゃあ」
彼女は辺りを見回して、日記を見つけると、意地悪そうに笑った。
ぱらぱらとめくり、また小さく笑う。
「英語かぁ。ぷぷぷ」
「決まった?」
「君の名前は――」
知っている。僕の名前はオーガスト。
「オーガスト」
君からもらった大切な名前。
「オーガスト…………」
嬉しくて、涙が溢れてきそうで、でも彼女にそんな顔を見せられなくて、顔を下に向ける。
「やっぱり、嫌だった?」
「いい名前だよね」
「…………え、いや、八月って意味なんだけど」
「知ってるよ、ポストメリー」
「だから、ポストメリーじゃ…………もういいよ」
「ありがとう。この名前は、本当に好きなんだ」
困惑する彼女がとても可愛くみえた。
「君が覚えていてくれたからだよ。たとえ忘れてしまっていても、その日記で覚えていてくれたからなんだよ」
日記が風でめくれる。
その日記は僕が見るごとに厚さを増していって、でも一冊では収まりきらなくなったその日記は、確か今は二冊目だったはずだ。
全ての年の、今日の日付の、タイトルが、僕の名前だった。
何度目かの夏。
目の前に広がる一面の白が、彩色されていく。
軽い耳鳴りが蝉の声に変わる。
この体は一年ぶりに感覚を取り戻し始める。
確かに僕は、今ここにいる。
女の子が一人寝ていた。
いや、もう女の子ではなく、女性か。
彼女の傍らには、いつものように日記がある。
「おはよう。ポストメリー」
二十四歳にもなってもまだ二度寝を習慣にしていた彼女は、目を細めてこちらを見ると、微笑み、天使のような笑顔で小さく呟いた。
「おはよう。オーガスト」
ご愛読ありがとうございます。『Good morning Ms. Afternoon』いかがでしたでしょうか。本当に約五千字という制限に収めるという作業は難しかったです(結果五千字を少し超えてしまいましたが)。普段書いている小説が短編の友人がいるのですが、彼の大変さが身に染みました。短編小説の書き方等々についても色々と教わったので、ここでお礼を。何せ私は状況描写が好きなもので、本当にどうしたらこの物語を深く伝えることが出来るのか、どのような表現方法を使ったら良いのか等、今回の小説は挑戦とともにある意味勉強になりました。
さて、少しばかり内容について触れていきたいと思います。というか正直な話、補足です。あえて所々であやふやにして話を進めているので、設定ぐらいはまとめておこうと思います。今作はオーガストという少年と、午来後架という少女が主人公の小説です。作中のポストメリーは午後の意のp.m.からオーガストが考えました。
まず、オーガストについて。オーガストに関わった後架含む人は、オーガストが消失すると同時にオーガストについての記憶を失います。関わるというのは、見たり、知ったりすることなどです。そしてオーガストだけが、後架と初めて出会った夏からの思い出を覚えていて、彼が次に現れる夏は、全員が彼のことを覚えていません。彼の正体については言及しないでおきます。ただ、人間ではないことは確かです。一方で後架は一応普通の人間です。
次に。実は後架は午後にしか起きられないとか、オーガストの正体とか、最後何故後架がオーガストを覚えていたかとかは自分の中で固まっているのですが、あえて書かないことにしました。皆さんで各々の結末を想像してくれれば幸いです。二十四歳のオーガストと後架の話も、続編として考えていたのですがどうかなぁと思ったので止めました。
長々と駄文を呼んで下さり、ありがとうございます。今度の小説は少しかかりそうです。レスポンスがあると筆者が喜びます。それでは皆さん、またお会いしましょう。