前編
――確かに君は、手にした短剣で魔女の心臓を貫いたはずだった。
身体の中心よりわずかに左。魔女の左胸には、深々と銀の短剣が突き刺さっている。だというのに、魔女は血の一滴も流さず、それどころか紫水晶の瞳をわずかに細めて微笑んだ。
「まぁ、可愛い子。こんな森の奥までやって来てはダメよ。人喰い魔女に食べられてしまうから」
魔女は君の手の甲に自身の手のひらを添えると、そっと短剣を胸から引き抜いた。血の一滴どころか、身に纏った黒のローブにさえ、破れ目は見当たらない。まるでそこに実在しているのか疑わしくなるような、まさに魔女の名が相応しい女だった。
魔女はわずかに屈んで、正面から君の瞳を見つめてくる。その紫水晶の瞳はあくまでも優しい。君は恐怖と屈辱に顔を歪めて呻く。
「……どうして、死なない」
「魔女だもの」
君の呻き声に、愉快そうに魔女は答えた。そっと、白い繊手が君の黒い髪を撫でる。泥と垢と脂で汚れ切った君の黒い髪を、厭う様子は微塵も感じられなかった。君が生まれて初めて感じる、優しい手付きだった。歌うように、魔女は告げる。
「可愛い子。人の世へ帰りなさい。今ならまだ、森の獣たちも眠っているわ」
蒼褪めた満月が、魔女の銀の髪を煌かせていた。わずかにうねる、腰まで伸びた髪は純銀を溶かして梳いたかのよう。切り落として売れば、さぞや高値で売れる事だろう。君は短剣を握る手に力を込める。
「帰る場所など、あるものか。お前を、魔女を、殺さなくては、僕は何処へも行けない」
「わたしを?」
慈愛に満ちていた紫水晶の瞳が、君を憐れむような色に染まる。わずかに首を傾げて、魔女は君の頬に手を当てた。
「それは無理だわ。魔女は死なないもの。心臓を清められた銀の短剣で貫いても。祝福された銀の弾丸で頭を撃ち抜いても。魔女は死なないもの。死なないから、魔女なのだもの」
「なら僕は、どうしたら良い!?」
「可愛い子。可哀想な子――人の世で忌み嫌われた理由は、その瞳の所為?」
魔女は君の顎に手を掛けて、ほんの少し持ち上げた。君の金目銀目が良く見えた事だろう。誰からも不吉だと疎まれた君の瞳を見て、魔女はゆるりと微笑んだ。何故か君が泣きたくなるような、無力な赤子を見守る母のような、表情だった。
「何処へも行けないの?」
「何処へも行けるものか。人の世に、僕の居場所など」
「ならば、わたしの屋敷にいらっしゃい。可愛い子。小さな黒猫。わたしの持っているものは何でもあげる。わたしの知っていることは何でも教えてあげる。そうしていつか、わたしの元から旅立ちなさい。きっとその頃には、何処へだって行けるわ」
魔女は軽々と君を抱き上げる。小さな黒猫を抱えるみたいに。君は混乱しながらも、せめてもの抵抗みたいに悪態をついた。
「……頭がおかしいんじゃないか、魔女」
「あら、おかしいかしら? そうかしら? それでも構わないわ。可愛い黒猫が手に入るのならば」
ころころと、鈴を転がすような声で魔女は笑う。聞いているだけで君の心が浮き立つような、美しい笑い声だった。君は魔女の髪に顔を埋める。銀の髪からは、春の花畑のような香りがした。くすぐったかったのか、魔女はころころと、更に笑う。
「イフタフ・ヤー・シムシム」
魔女が呪文を唱えると、君が瞬きをした途端に、森の中に屋敷が現れた。入口には様々な花や香草が、日持ちするように陰干しされている。赤い煉瓦造りの、屋敷、というより小さな一軒家と言った体だった。君は眉をひそめる。
「……魔女の家はお菓子で出来ているんじゃないのか」
「まぁ、それは素敵ね。でも、おうちがお菓子で出来ていたら、虫や動物に齧られて無くなってしまうわ――アグラク・ヤー・シムシム」
再び魔女が呪文を唱えると、周囲の森と屋敷の間に1枚の薄い膜が生じたように見えた。魔女は君を下ろして言う。
「人の目には見えないように、屋敷は魔法で隠されているの。だから、君はこの屋敷のなかでは安心して暮らして良いのよ」
「安心……?」
一風変わった瞳の所為で両親に疎まれ、捨てられ、路地裏でゴミを漁って生きてきた君には聞き覚えのない単語だった。
「分からないかしら。知らないかしら。でも、いつか理解してくれたら嬉しいわ」
魔女は柔らかく君の背中を押して、屋敷に入っていく。屋敷の中は、君が食べたことのないような、甘いお菓子みたいな匂いがした。
「さぁ、手を洗って、顔も洗って。髪も洗ってしまえばいいわね。服は、そうね、新しいものを」
何となく嫌な予感がして、君が後退ろうとすると、魔女はすぽーんと君の来ていた服をはぎ取って、また君を抱えてバスルームへ連行した。君は水を嫌う猫みたいに暴れるけれど、魔女は意外と力強く君を放さない。神などいない。君は分かり切っていたことを改めて痛感する。
ぬるめのお湯に浸けられて、ミルクの香りのする石鹸を付けてこすられる。優しいくせに、有無を言わせない手付きだった。君は魔女に向かって叫ぶ。
「自分で出来る!」
「遠慮しなくていいのよ。可愛い子。小さな黒猫」
「というか見るな! 色々!」
「あらあら、わたしは300年も生きたおばあちゃんだもの」
分かるような、分からないようなことを言って、また、魔女はころころと笑う。君は顔が真っ赤になっているのが分かる。ざばー、とお湯から持ち上げられて、柔らかいタオルに包まれた。
「うふふ」
「笑うな!」
「うふふふふ! さぁ、この新しい服を着て。お腹は空いていない?」
何処からか、魔法のように魔女は白いシャツと黒いズボンを取り出した。君はひったくる様にしてそれを身に着ける。魔法のように、というか、本当に魔法なのだろう。その新しい服は、君の身長にぴったりだった。
「空いてない!」
「ならば、眠りなさい。ゆっくりと」
魔女は、さらさらになった君の髪を撫でて微笑む。紫水晶の瞳を見ているうちに、君はあっという間に意識が遠のいた。




