PL008 離陸準備
半月が経過した。
時節は七月中旬。八月頭の本番フライトまでは、一ヶ月も残されていない。
それまでの間、歩美たちは黙々とTFを重ね続けた。改善点が見つかればすぐに解決案を出し、最悪でも二回後のTFまでには調整を間に合わせることを繰り返して。
富士川の滑空場は利用の予約が取れ、無事にフライトを行うことができるようであった。
──『これまでも、これからも、あたし頑張るから』
いつか清に言い放ったその台詞を、歩美は歩美なりに咀嚼して達成を目指したつもりだ。実際、TFでの飛行はすっかり安定してきていて、大風にでも吹かれなければ問題なく長距離を航って行ける見込みが立ちつつあった。
走力の維持、そして現状把握のため、パイロットには一ヶ月ごとに『出力測定』というイベントの消化が課されている。
一時間の間、全力でエルゴサイザーを漕ぎ続け、その間の回転数、すなわち出力の変化を見るのである。理想は常に一定のペースを保ったまま、出力重量比──単位重量あたりの出力を5.0前後まで近付けること。
実際のフライトでは、最大一時間以上も漕ぐことになりうる。出力測定は孤独な耐久レースの予行演習のようなものだ。
「三十分経過しました」
淡々とした声色で拓が告げた。
ちょうど足の痛みが鈍く燃え始めたところだった。返事をする余裕のない歩美は、小さく頷いてから顔の横のストローを左指に挟む。実機での給水システムを極力、再現したつもりである。
初めて出力測定を行った時は思ったものだ。──一時間も同じ動作を同じペースで行うのが、こんなに過酷だなんて。
(本番と違って、いくら漕いでも前には進まないしね)
甲高い回転音ばかりの響くトレーニングルームを見回しながら、苦笑いした。目の前にシミュレーターの画面を置いて、先へ進む映像を何となく流しているだけでも、けっこう感覚は変わってくるような気がする。
ただ、ひたむきにペダルを漕ぐだけの作業に取り組み始めてから、すでに半時間以上。
痛みのピークは去ってきたようだ。しかめていた顔を元に戻すと、ふと、不安げな顔付きの拓と目が合った。
「あ、ペース上がりすぎてます」
そらした目をモニターに向けた拓が、早口で告げる。
歩美は答える代わりに尋ねた。
「清、いないね」
「南浦先輩ですか」
「開始時にはそこにいたのに」
モニターの数歩後ろに置かれたノートパソコンを、あごでしゃくって示す。拓は「ああ」と曖昧に笑った。
「なんか用事があったみたいで、他の三年の方に呼ばれていきました。たぶん終了前には戻ってくると思いますけど」
その早口はまだ直っていない。相変わらずやかましいエルゴサイザーの回転音に紛れて、歩美は深呼吸を試みた。
また、歩美の知らないところで、歩美の知らないことをやっているらしい。
「……ま、結果入力の時にいればいいもんね」
つぶやいて、唇を真一文字に結んだ。またモニターを覗き込んだ拓が、大丈夫、とでも言いたげに目を戻す。
残り時間は二十五分。戦いはまだまだ、終わりはしない。
つい先日、最後の調布TFが終了したばかりだった。
定期路線の就航する調布飛行場では、TF終了後にはすみやかに滑走路を明け渡さねばならない。いつも通りに「撤収!」という清の一声で機体の分解と回収が始まり、歩美はフライト後の打ち合わせに混じっていた。
その場で、すばるが言ったのである。『ソラノのアップデートをしなきゃいけない』と。
──『前が見えないって不評だった方角の表示とか、いくつかCAPASのUIをいじりたいなって思っててさー。二週間くらい時間、もらえないかな?』
歩美の装着しているヘッドマウントディスプレイには、フライトに必要な各種情報が記号や数値で表示されている。すばるたち電装班は、そのデザインやフォーマットを変更したいと申し出ているのだった。
そもそも、本番までの期間を残したこの時期に最終TFを迎えるのは、TFで得られた改善点を機体に反映する時間を稼ぐためでもある。一同は一様に頷いた。歩美も、答えた。
──『あたしも構わないけど』
──『ほんと! オッケー?』
すばるは変に声を弾ませていた。『あ、でもアップデートの間、システムを色々といじることになるから、ソラノとはしゃべれなくなるけど』
一瞬、言葉を詰まらせてしまった。しかしすぐに代わりの言葉を浮かべ、接いだ。
──『そんなの気にしないでいいから。あの子がいなくなったくらいで、今さら練習に影響きたさないわよ』
──『それもそっか!』
うまく表情を繕えていたのだろうか。すばるは何のためらいもなく、歩美の言葉を信じてくれたようだった。
かくして今、空乃は歩美と会話することはできない。分解された機体の眠る作業場に向かっても、空乃に愚痴をこぼしたりすることはできない。
(ま、あいつがおしゃべりだってことが分かって以来、そんなに愚痴は言わないようにしてきてるけどさ)
だから喪失感なんてない──。心で笑って、ペダルに食らい付いた。すべてのTFの終わってしまった今、こうしてエルゴサイザーを漕ぐことは、あの空へ続く走り方を忘れないようにする大事な日課になっている。
空乃という存在と出会って、一ヶ月以上。
ともに搭乗した回数も、交わした言葉の数も覚えていないけれど、そのくらい空乃の存在に慣れてきたつもりは歩美にはあって。
だからこそ、『二週間もしゃべれないのは長いや』──なんて言えるはずは、なかった。
そう広くはないトレーニングルームの中に、後輩の拓と二人きり。声以外の実態を持たない空乃がここにいてくれたところで、きっとそれほど何かが大きく変わるわけではないのだと思うし、思いたい。
(あたしは、あたしのやれることをやるだけ)
数えきれないほど繰り返してきた魔法の呪文を、ここでもまた、口にした。
◆
──『いよいよ来週ねぇ、本番』
電話口に出た母親に開口一番、そう声をかけられた。
冷たさを帯びたベランダの手すりが心地よくて、左腕を介して体重を預けてみる。歩美は夜空を見上げながら返答を考えた。
「二人は見に来たりしないでしょ?」
──『そうねぇ。お仕事の都合がつかなくて、ちょっとね……』
「仕方ないよ。そりゃ、琵琶湖よりは近いけど、富士川だって行きづらい場所だってことに変わりはないし」
ごめんねと謝る声が受話器の向こうで聞こえた。笑ってそれを遮ると、胸の奥にたまった濁り気味の酸素を吐き出して、吸う。
母の言葉の通り──多摩工大の本番フライトは、ようやく来週の日曜日に迫ろうとしていた。これから一週間はやることが山積みである。壮行会が行われ、何やら新聞社の取材も受け、機体の最終確認と搬出も行わなければならない。
──『富士川の滑空場まではどうやって行くの?』
「あたしは電車、他のみんなは車かな。車の方が資材運搬に長けてるからさ」
──『あんたはパイロットだもんねぇ。身体、大事にしなきゃよね』
うん、と首を振った。前日に滑空場入りした後、歩美と付き添いだけはホテルに宿泊、あとのチームメートたちは滑空場で野営することになっている。いちいち歩美だけが特別待遇を受けるのも、ひとえに歩美がパイロットだから。
「昼間は暑くて大変だよ、三鷹。コックピットは狭いからすぐに温度が上がるし……。海の上は涼しいといいなー、って感じ」
──『海風が気持ちいいといいわねぇ』
「うん。なんなら今の時点でまだ心配なの、暑さくらいよ」
──『あら。頼もしいじゃない』
朗らかな笑い声が耳元で舞った。歩美までちょっぴり嬉しくなって、微笑んだ。
本物の歩美の抱えている不安や恐れは、彼方の母親には伝わってはいなさそうだ。伝える気だって、ない。
ま、と母は一呼吸を置いた。
──『精一杯頑張って来なさい。また前日にでも、電話するわね』
はーい、と歩美は答える。互いに「おやすみ」の言葉を贈ると、歩美の側から電話を切る。幾度繰り返したか分からない、歩美が実家に電話をかける時の流れを、今度も着実に踏んだつもりだった。
共働きの両親は、歩美の小さかった頃からいつも忙しそうにしていた。休日に仕事へ出掛けることも少なくはなかったし、どうやら今度もそれが重なってしまった様子であった。
母としゃべる時間よりも、テレビに見入っている時間の方が長かったような気さえする。テレビで放映されていた鳥人間コンテストを初めて目にし、その勇姿に憧れを抱いたのも、両親が多忙だったゆえのことだったのかもしれない。
(昔のあたしが知ったらびっくりするだろうな。まさか自分がパイロットになるなんて、さ)
窓を開けてスリッパを脱ぎ、部屋に入る。
泣いても笑っても残された時間は一週間だけ。その間に、どれだけの不安を解消することができるだろう。分からない。分からないから、前に進むしかない。……歩美のこの数ヵ月間は、きっとそんな営みの繰り返しとして説明できる。
──『空の上ってひとりぼっちで、寂しいじゃないですか』
ひとりぼっちの部屋に、いつか誰かの口から聞いた言葉が反響して、壁に溶けて消えた。
◆
本番フライトの最終打ち合わせが行われた。前日十九時半に現地到着、二十時に布陣し、機体は組み立てた上で見張り人員を交代で立てることになった。翌朝六時半からフライト準備開始。目標は、八時の離陸。
──『近隣の漁協さんの好意で、各種ボートを用意していただけることになった。一部を除く三年生は合計五艘の小型ボートで機体を追跡、同乗しない二年生と一年生は陸で待機。全日本テレビさんの取材も兼ねて、追跡ボートのうち一艘にはテレビカメラが積まれることになってる』
代表の修平によれば、今回は新聞社の他に急遽、テレビ局一社が取材に入ることになったらしい。いずれも鳥人間コンテストに落選したチームの挑戦を追う企画のようで、実際に記事や番組になるかどうかはまだ、分からない。それでも班員たちは嬉しそうだった。歩美は歩美で、凝り固まってしまった肩の処置に困っていた。
離陸に使うのは、静岡県静岡市の富士川滑空場。富士川の広い河川敷に位置する滑走路を持ち、すぐ南には太平洋に面した駿河湾が宏漠と横たわっている。空港設備を持たない飛行場『場外離着陸場』の一種である滑空場は、グライダーや人力飛行機のフライトで頻繁に用いられる場所でもあり、特にこの富士川滑空場は人力飛行機の利用頻度の高さで有名だ。人力プロペラ機の国内最長飛行記録・四十九㌔が樹立されたのも、ここ富士川滑空場から離陸した機体であった。
前日にトラックを手配し、分解した機体を積み込んで輸送。歩美を除く大半のメンバーたちはレンタカーで向かい、修平たちチーム代表は一足先に新幹線で現地入りして船の手配などの確認。フライトの直前まで、てんてこまいである。
直後の壮行会には、あろうことか空乃が乱入した。
『わーい! 戻ってきたよー!』
パーティー会場に響き渡った第一声がそれである。歩美は危うく、口に含んでいたものを落としそうになった。
──『……どっからしゃべってんの、あいつ』
──『パソコン持ち込んでスピーカーに繋げただけだよ? いやー、思ってたよりシステム改修に時間かかっちゃってさー』
隣のすばるが朗らかに笑う。笑っていないのは歩美と、それから壮行会に駆け付けてくれたOBの面々くらいのものであった。
空乃の存在の秘匿はOBに対してさえ貫かれていて、壮行会が公式発表の場ということになっていたらしい。電装班は質問責めに遭っていた。どうやって開発したのか、どれだけの手間がかかったのか、云々。
無論、歩美のもとにもたくさんの激励が集まった。
──『今年はコンテストの余計なルールに振り回されないで済むからね、期待してるぞ』
──『長い距離になるだろうけど、頑張って!』
そのどれにも歩美は柔らかく笑い返すことができただろうか。楽しさが緊張を上回る前に壮行会は終わってしまったので、実際のところは分からない。
本番前日、午前。最後のTF以来、分解された状態のまま各種の改造を受けていた『グロリアスホーク』が、保管用の型枠もろとも次々に朝の屋外へと運び出された。
作業場の目の前まで乗り付けたウィングボディの中型トラックに、機体や資材を片っ端から積み込んでいく。いよいよ、機体の搬出である。午前九時に三鷹キャンパスを出発したトラックは、高速道路を経由して午後五時前には富士川滑空場に到着する見込みになっている。
修平や清ら、人力飛行部を代表する面子たちは、今朝のうちに誰よりも早く静岡県に向かってしまった。歩美と、付き添いを名乗り出たすばるや二年生数人は、それを追いかけて午後二時に東京を出発する。
──『俺たちはレンタカーで追いかける』
──『富士川で会おう!』
正午が回ったのを確認してすぐに、仲間たちの言葉を背中に受けながら歩美一行は多摩工大を出立した。
中央線で東京へ。そこから始発の東海道線に乗車し、一路、静岡を目指す。すばるがいち早くクロスシートを手に入れてくれたおかげで、混雑の中を立っていく事態は何とか回避した。
──『ソラノに施した改修のこと、一応だけど、解説しておくね』
流れ行く窓の景色を眺めていると、すばるはパソコンをどこからか取り出してきた。
──『基本的にはUIの変更が中心。あと、昇降舵の調整が最近うまく行ってなかったから、数値の狂いを見つけて取り除いておいたよ。それから機体にドライブレコーダー代わりのビデオカメラを搭載したんだけど、そっちの収録もCAPASに任せることにしてみた! ……消費電力が大きくなっちゃうから、ちゃんと当日は晴れてもらわなきゃなぁ』
本番前日とも思えぬ変更点の数である。が、すばるに言わせればメインのシステムに変化はないそうで、操作感覚が多少変わる程度の影響だけだろうとのこと。
静岡県に入る頃には陽も傾いてきて、西の空は鮮やかに明るく軽い。当日の天気は、どうなるのだろう。
──『予報だと晴れるみたいですよ』
──『大丈夫ですよ! 今までだって、先輩がフライトする時は大抵晴れてたじゃないですか』
後輩たちは口々にフォローを贈ってくれた。雑なフォローでも今は安堵の材料にする他なくて、歩美はそのたびに『だよね』と微笑みを返していた。
右手を伺えば富士山。左手に広がるのは、駿河湾。
三鷹の多摩工大や調布飛行場からは拝むことのできない光景が、歩美たちの視界を埋め尽くしてゆく。
やがてトラックやレンタカー組の到着の報が届いた。すでに現地にいた修平からは、当日に使う船舶の用意ができたとの連絡も来ている。歩美の泊まるホテルの予約も、打ち上げに使うレストランの予約も取れている。
離陸の準備は順調に、整いつつある。
「明日は午前六時半に集合、離陸前の支度を始める。遅くとも午前九時前までには離陸、十二時頃には全員が滑空場に戻ってくるだろう。着水した機体の回収できるまでには少し時間があるだろうから、それまでに撤収の準備も多少は進めておいてほしい。
詳しいスケジュールは明日、改めて説明する。──今夜はこれで解散だ」