PL007 頑張る理由
「……疲れた」
ぼそっと第一声を漏らすなり、破れた風船のように身体の力が抜けて、歩美はその場にぺたんと座り込んだ。
どうしたの、と空乃が尋ねる。歩美はぐったりとしたまま、答える。
「交流会やってたのよ、さっきまで」
『えー、もう十一時なのに! 寝なきゃだよ!』
「今から寝ても仕方ないでしょ。あと二時間もすれば、また集合なんだから」
ぼやきつつ、今回ばかりは空乃の方が正論だと思って、恐る恐る身体を横たえてみる。午後十一時を示す時計の下、わずかばかりの明かりの灯る作業場には、歩美の他に人影はない。今夜もこれからTFなのだが、さすがにみんな一旦、家に帰っているらしい。
交流会。他大学の人力飛行部を招いて意見交換や懇談をする、五年前からの伝統行事である。つい今しがたまで吉祥寺の駅前にある宴会場を借り切り、他所の大学の人たちを懇談を繰り広げてきたところだった。人力飛行機の界隈は狭く、携わる学生の数もそう多くはないので、こうやってお互いに情報交換をするのが欠かせないのだ。
『ねね、ボクのこと、誉めてもらえてた? かな?』
空乃の声が裏返った。歩美は寝返りを打った。
「あんたの存在すら明かされなかったわよ、今日は」
『そんなぁ!』
「まだまだ当分は極秘扱いらしいからね。特に、今日の相手は慶興大だし」
床の模様に指を這わせながら、嘆息した。空乃もがっかりしたようにため息をこぼした。
慶興大学鳥人間部は、鳥人間コンテスト出場校の中では多摩工大同様に中堅クラスのチームである。電装や駆動といった、システム系に強みを持つ機体製作を行っていると聞き、多摩工大にとってはれっきとしたライバルである。うっかり空乃やCAPASのことを漏らしてしまえば、たちまち真似をされてしまう──みんなはそう考えているのだろう。
「あそこは今年も鳥コン出られるみたいだしな……」
干された布団のように吊られる中央翼を見上げながら、小声で、ぼやいた。
『アユミもあれ、出たかった?』
「まぁ、ね。あたしが人力飛行機のパイロットに憧れたのだって、あの大会を見たからだもん」
『じゃあ、羨ましい?』
「どうだろ」
暗闇の底で、笑った。鏡のように景色を映す作業場のガラス戸に、交流会での光景が甦る。
向こうのパイロットは楽しそうだった。機体を支配できる楽しさか、空を自由に飛べる全能感からくる楽しさか。聞いてみたかったけれど、妙に気後れがして聞けなくて。
ただ、
──『チーム全員の期待を背負うのってさ、大変だけど嬉しいよな。それだけで、トレーニングなんかいくらでも頑張れる』
そんなことを口にしていた気がする。ちなみに向こうのパイロットは、男。この界隈ではむしろ女子パイロットの方が珍しい。
黙ったまま、やり場のなくなった目を天井に向けた。空乃が、ぽつりと言った。
『ボクは、アユミと一緒に空を飛べるのなら、どんな機会であってもいいんだけどなぁ』
「気持ち悪いこと言わないでよ。別に、あたしじゃなくても問題ないでしょ」
『でもほら! 多摩工大のメンバーで今、パイロットになれる能力を持っているのはアユミだけだし!』
「そんなの、ちゃんと適切なトレーニングを積めば誰だって持てる」
『自信ないの?』
なんでだろ、と笑ってみた。乾いたその声で少し、交流会の時に感じていた複雑な感情を整理できたような気になった。
慶興大のチームは人数が多い。たったひとりのパイロットは、相対的に見て多摩工大のそれよりも全体に占める比率が少ないことになる。
それでも歩美には、向こうのチームはパイロットとの仲が歩美たちよりも良さそうに見えた。
軽口を言っては小突き合い、笑って、それからまた話す。向こうのパイロットは歩美よりもスムーズにそれをこなしていた。歩美に同じことができるかと言われたら、多分、できていない。
(あたし、いつも突っ込みを入れる側だったしな。ボケで笑いを取るのは苦手だもん)
なんて言い訳を考えてはみたけれど、それも何かが違うように思えて仕方なくて。
そうなるとやっぱり、歩美とチームメートたちの間には、何かしら心の壁が屹立しているのだろうか。その正体がちっとも分からなくて、誰かにそのことを話してみたくて、咄嗟にその相手として浮かんだのは──空乃だった。
「ソラノの言う通りよね。鳥コンだろうが個人での飛行記録更新だろうが、あたしたちのやることは変わんない」
歩美はつぶやいた。
「でもさ、あたし思うんだ。もしも鳥コンの選考に落ちていなかったら、きっとあたしたち、今みたいになってなかったんだろうなって」
『そうかなぁ』
「うん。……あたしだけ、あの日、泣けなかったから」
目を細めて、艶の美しいフェアリングを撫でる。でもでも、と空乃が困ったような声で遮った。
『鳥コンに出られてたら、ボク、ここにいられてなかったよ。それに、落ちちゃったことはもう変わらないんだし……』
「分かってるよ。今さら選考結果に文句を言いたいなんて、思ってるわけじゃない」
でも、と続ける。ひんやりと涼しい夜の吐息が、寝そべる歩美の周りを穏やかに漂う。
「あんたが『グロリアスホーク』に積まれた理由、あたしにだけはまだ知らされてないし。みんなの考えてること、あたしにはよく見えないことが最近は多いんだよね。だから、あたしがみんなに何を求められてるのかも、正直に言うとあんまり……自信持って『分かる』って思えない」
『…………』
「あたし、このまま頑張ってても、いいのかな」
空乃は答えてくれない。
少し待ってから、ううん、と歩美は首を振った。答えを求めたわけではない。聞いてくれさえすれば、それでよかったのだ。
立ち上がって、首を回す。それから空乃に声をかけ直した。
「今日のTFも頑張るわよ」
『任せといて!』
いつもの弾んだ声が戻ってきた。
◆
──『減速! 減速!』
──『西からの風が強い! 流されてる!』
──『右翼のキャッチングランナー、追い付いてないよ! そっちカバーして!』
──『着陸するぞー!』
画面からは賑やかな声が飛び出してくる。顔をしかめ、音量を下げた歩美は、タブレット端末を放り出して窓へ向かった。六月にも入るとさすがに夜も蒸し暑くなり始めて、網戸の状態にしていないとやっていられない。
先日行われた第四回調布TFの動画を眺め、イメージトレーニングを済ませていたところだった。撮影された動画は非公開でネットにアップロードされ、こうしてチームメート間で共有できるようになっている。体幹を鍛えながら見るのにはちょうどいい代物だった。
「雨か……」
外を窺って、つぶやく。しとしとと屋根を濡らすしめやかな音が、夜の帳を着た三鷹の町を染めている。清掃工場の塔の赤い光も、霞のカーテンを透過した今日は朧げだ。
大きな主翼を持つ人力飛行機は、重量に関しては実に敏感で、水滴が多少付着しただけでも左右のバランスを欠いてしまう。雨は歩美たちの天敵である。このくらいの雨、本物の飛行機なら物ともせずに飛ぶのにな──。機体にカバーをかぶせて雨をやり過ごすたび、意味のない無力感で身体が冷えそうになる。
窓を離れて、タブレット端末を取り上げた。すでにシークバーは動画の最後まで到達している。
(ま、あたしの方もだいぶ安定して漕げるようにはなってきてるし、機体のふらつきも軽減されてきたもんね)
再生を止めて、ひとつ前のページに戻った。そのまま布団に寝そべって、何となく、動画のサムネイル画像が並ぶ画面をぼんやりと見つめていた。
同じフォルダの中には、TF以外で撮影された動画も収録されている。
例えば、外注で手配した材料を加工し、機体の桁や胴体を組み立てる作業の動画。
例えば、それぞれ形の違う大量の小骨を並べ、薄い膜を張って主翼に仕上げる作業の動画。
例えば、出来上がった機体を逆さまにして吊り下げ、着陸や着水の衝撃に耐えられるかの検証を行う荷重試験の動画。
(懐かしいな)
サムネイルを見るだけで内容の見当はつく。自然と、笑みが口の隅をつついた。
人力飛行機は動力が弱く、安定しない。だから設計においては機体重量の軽減が至上命題で、なおかつ人の搭乗に耐えた上で、数十㌔ものフライトを可能にする頑丈さも備えていなければならない。限りなく無茶とも思えるその要求を、多くの人力飛行機チームは機体構造へのCFRP──炭素繊維強化プラスチックの採用などで乗り切っている。高い強度を持ちながら非常に軽い反面、極めて高価で加工の手間もかかるのが特徴の材料である。
そのCFRPを主構造に使用していることもあって、人力飛行機の一機あたりの建造費は数百万円にも上る。簡単にやり直しはできないし、そんな時間もお金もない。あらゆる方向からかかる厳しい制約の中で、多摩工大のチームメートたちは協力し合い、助け合い、ようやくあの『グロリアスホーク』を完成させた。
TFを重ねて機体の調整を繰り返す今と比べたら、きっと遥かにきつい作業だったと思う。直接作業に加わっていなかった歩美でも、そう感じる。
でも、あの頃は『機体完成』という分かりやすい目標があった。
成果がなかなか見えなくても、亀のようにゆっくりでも、段階を追って形を成してゆく『グロリアスホーク』の姿を目にしていれば、自然と達成感や意欲はどこかから湧き出してきたものだった。
あの頃と今と、何が違うのだろう。──否、何が違わないのだろうか。
(むしろ、変わってないのはあたしだけだったりして)
苦笑して、端末を手放す。
部屋の向こうの方でスマートフォンが鳴り出したのは、その時のことである。
歩美は顔を上げた。こんな時間に、電話。誰だろう──? そんなことをする相手は親くらいしか思い浮かばなかったが、ともかくスマートフォンを拾い上げて画面を点ける。
【南浦 清】
そう書かれている。
「もしもし?」
受話ボタンを押して通話に出た。とたん、いつもとトーンの違う清の声が耳元に流れ込んだ。
──『あーもしもし。今な、設計の二三年全員で駅前の居酒屋にいるんだけどな』
口調が軽い。何かがおかしいと思ったら、酔っ払いのテンションである。
歩美は電話を切りたくなった。下戸なのでほとんどお酒は口にしないし、酔っ払い特有のノリもそんなに好きではない。
「酔ってるのは分かるけど、どうしたの」
──『いやな、お前に言っておきたいことがあったのを思い出してな、居酒屋からわざわざ電話をかけたってわけでな』
清は酔うと語尾が“な”で統一される。ついでに、平時の何倍も饒舌になる。
「言っておきたいこと?」
ちょっぴり耳を離しながら聞き返す。ああ、と清は応じた。
──『お前こないだ、ソラノに愚痴ったんだってな。俺たちに求められてるものが分からない、ってな』
信じられない。歩美の愚痴を空乃はあっさりバラしてしまったのか。
怒り心頭に発しかかった歩美だったが、それより早く清が続けた。
──『あのなぁ、何バカなこと言ってんだよって話なんだからな。お前は今まで通り、パイロットとしての最善を尽くしてくれりゃあいいんだよな。お前がいなかったら『グロリアスホーク』は飛ばないし、お前は俺たち人力飛行部の希望の星なんだからな。分かったか』
「酔っ払いの口ぶりで言われても……」
歩美は溜め込んだ息を、そっと受話器の外へ落とした。
酔った勢いで出てきた言葉なんて、いったいどこまで信用がおけるものだろう。でも、気にして電話をかけてきてくれた配慮にだけは、素直に感謝するべきか。
──『うるさい。聞いてただろうな、羽沢』
呂律の回りきっていない清に、声をかけた。
「大丈夫だよ」
──『何がだ』
「これまでも、これからも、あたし頑張るから。心配しないで」
だめ押しのつもりで続けた。
清たちに無用の心配をかけたくはないし、“希望の星”に不安を感じてほしくはない。愚痴に付き合ってもらうのは空乃だけで十分だ。──いや、空乃の口が想定以上に軽いことが判明してしまったので、明日からは空乃にも漏らさなくなるかもしれないが。
──『そうか。なら、いい』
清の口調が乱暴である。用件が済んだのを感じ取って、「じゃあ切るよ」と告げた。返事が戻ってこなかったので、本当に通話終了ボタンを押してしまった。
しん、と空気が揺れる。
部屋の中はたちまち静寂で満たされた。
雨が止んでいる。今夜はもう、降らないのだろうか。
画面の光を落としたスマートフォンを右手に、立ち上がった。
「……ジョギングでもしてこよっかな」
ひとり言ちた時には行動に移していた。トレーニング用の服に着替え、靴を履いて外に出る。肌を撫でる冷涼な湿気に、ふと、身体を洗われるような感覚が走って。
足を止めたりはしなかった。
人気の乏しくなった夜道を、広い道の通る南を目指して歩美は駆け出した。
顔を上げれば広がる三鷹の夜空には、今は星も、それからあの分厚い雲の影も見当たらない。