PL005 初めての空
作業場にいても退屈だ。誰もいないし、代わりにここには空乃がいる。
素直にトレーニングルームあたりで時間を潰せばよかったか。しかし今から向かっても遅いし、大事なTF前に体力を使ってしまいたくもないし。
暗闇にいるとスマートフォンの光が眩しい。画面の照明を落として、コックピットを見上げた。
『ね、アユミ』
空乃が何か言っている。
『焦ってる?』
「あんたにあたしの何が分かんの」
『ボクにはアユミのバイタルサインを計る機能はないから、本当のところは分からないけど』
さしもの空乃も時間には配慮しているのか、声が低い。時おり、作業場の窓の向こうのキャンパス内を、警備員の持つ懐中電灯の光の輪が通過してゆく。
歩美は膝を強く抱え込んだ。空乃の声が、今は思っていたほど鬱陶しくなかった。
『ボクの人工知能には、過去の色んなところのパイロットの出力測定記録がインプットされてるんだ。だから、それをアユミのフライト中のデータと比べてみれば、少しはアユミの現状を解析できるの。それで、思った。アユミは焦ってるんじゃないかって』
あっそ、という返事が口元を飛び出しかけたが、歩美は唾と一緒にそれを飲んだ。飲み込んだ理由は、分からない。
『図星?』
「違うって言ったら?」
『そしたら、ボクの解析能力はまだまだだなぁって、反省しなきゃね』
照れたように空乃が笑った。
いやに虚しく作業場の天井に響いたそれは、主翼で跳ね返り、扉を揺らし、歩美の耳に何重にも届く。
こんな人間臭い反応もできるのか──。口にしなかった「あっそ」が胃の中で膨らむのを感じながら、その感覚が何とも言えず愉快ではなくて、歩美はますます強く膝を抱えた。
これで空乃が本物の人間だったなら、きっと言えるのに。
チームのみんなに申し訳なく思っていることも。
自分が情けなくて仕方ないことも。
空乃が不安げに声を上げる。
『アユミ──』
「焦ってるのかも」
また、遮ってしまった。空乃が沈黙したのを確認してから、歩美は開いた口をそのままに笑ってみた。かすれた声が漏れた。
「だってパイロット、あたしだけじゃん。今さら他の人に交代なんてできないし、後輩の東台にやらせるわけにもいかないし。みんなはみんなの仕事をやったんだから、あたしはあたしの仕事をやらなきゃ。そうでしょ?」
『うん……』
「なかなか上手く行かなきゃ、そりゃ、焦るよ。あたしは天才でも何でもないんだもん」
言い切ってから、ほこりっぽい作業場の空気をそっと吸い込んで、吐く。
歩美も、清も、すばるも、誰だって天才ではない。『グロリアスホーク』を完成させたのは天才的な知ではなくて、多摩工大の面々の懸命な努力に他ならないのだ。
だったら歩美だって、腐らずに努力し続けなければならないはずで。
空乃はまだ、黙っている。
「……あんたはさ、あたしたちの目指す目標、把握してんのよね」
歩美は尋ねた。うん、と応じる声が聞こえた気がして、膝に回していた腕を頭の後ろに組む。
「今年の目標は鳥コンじゃないんだよ。ただの自主的な記録飛行。それってつまりテレビの注目を浴びないってことだし、この機体が世間の人たちの目に留まる機会はもう、来ないってこと」
『…………』
「ただ身体を鍛えて機体を飛ばせばいいだけのあたしよりも、周りのみんなの方が何倍も、何倍も、苦しんでるはずじゃん。自分たちの努力の成果を誰にも注目してもらえないなんて、そんなの、悲しいに決まってるよ」
『……だから、焦ってる?』
「あんたに分からなくていいって言ったのはそういうことよ。あたしは、あたしの苦労とか悩みをみんなには背負わせたくないだけ」
そこまで言ってから、一息。不意に作業場の外に人気を感じて歩美は腰を上げた。砂利を踏みしめながら歩いてくる人影が、遠くに見える。時刻は十一時半。もう三十分も、空乃と一緒に過ごしていたらしい。
せめて電気くらい点けた方がいいか。蛍光灯のスイッチに手を伸ばした時、
『ボクは、知りたいな』
空乃が言った。
『アユミの苦労も、悩みも、不安も』
「あんたが知ってどうすんのよ」
『何かの役に立てるかもしれないよ。だって、ボクはパイロット支援システムなんだから』
そういえばそんな名前のシステムだった。ふふ、と自然に口の端が緩んで、歩美は電気を灯した。
「そんなことより、もうちょっとフライト中は静かにしてくれない? あんたの声って気が散るんだよね」
『ええー!? ひどい! ボク少しはアユミの気晴らしになりたいなって思って!』
空乃が悲痛な声を上げる。だから、そういうところなんだけど──。ため息をこぼしてしまう前にコックピットに近寄って、空乃の主電源を落とした。ちょうどチームメートたちが作業場の扉を開けたところだった。
「あれ、歩美じゃん!」
「来るの早くね?」
「寝過ごすのが怖くてさー」
こういう時、いつもとっさに照れ笑いのような何かを繕ってしまう。邪魔にならないようにカバンを手に取って、それを担ぎながら、扉から吹き込んだ夜の冷たい風に歩美は吐息を重ねた。
さぁ。
雲一つない夜空の彼方から、いよいよ、飛行試験が迫ってきている。
『ボクは、知りたいな。アユミの苦労も、悩みも、不安も』
何気なく空乃の口にした言葉が、やけに鮮明に歩美の記憶には染み付いていた。
◆
調布、三鷹、府中の三市にまたがる都営の空港・調布飛行場は、公共用飛行場として戦前に開設され、戦中には旧陸軍によって首都防空の拠点として運用された経緯を持つ。
滑走路の幅は三十㍍、長さは八百㍍。現在の用途はもっぱら、大島や三宅島といった伊豆の離島へ向かう定期就航便、それから個人所有の小型プロペラ機などの発着で、離着陸の行われない深夜の時間帯には駐機場としての役割も果たしている。
隣接する味の素スタジアムも、武蔵野の森公園も、午前一時を回ったばかりの今は静寂の海の中へ沈んでいる。閑静な住宅街に囲まれた夜の空港は、どこまで見渡そうとも、無人だ。
「なんか、神秘的でいいっすよね」
体操に励む歩美の隣で、拓がつぶやいた。「一年の時から好きだったんですよ、調布TF。こんな機会でもないと夜の空港になんか入れないし」
「航空協会さんの好意で使わせてもらってるもんね。感謝しなきゃ」
屈伸をしながら、答えた。
鳥人間コンテストへの参加経験という実績を着実に積みつつある多摩工大の人力飛行部には、スカイスポーツの統括団体である東京都航空協会からも期待の声がかかっていた。東京都の管理下にある調布飛行場をTFに使えているのも、航空協会の助力のおかげである。
今年はあの人たちにも、恩返しができないんだったな──。拓への言葉で今さらのように気付いて、ちょっぴり、寂しさが増す。
駐機場で眠るプロペラ機たちの影の向こう、東の空がやや明るい。紫色のそれをぼんやりと見上げていると、
「大丈夫ですか」
拓に尋ねられた。
「どうかな。初めて空、飛ぶわけだし」
歩美は苦笑を返した。このくらいの不安なら、誰かに晒しても許されると思った。
午前四時、機体の組み立て完了。
「飛行試験一本目準備!」
清の号令で、チームの仲間たちが続々と配置についてゆく。歩美も頃合いを見計らって、コックピットのそばに腰かけた。
すでにCAPASと空乃は起動されている。空乃が、言う。
『寒くない?』
「運動すれば寒くなくなるわよ」
『コックピットの中、あったかいよ!』
早く乗れと言いたいのか。清やすばるを振り返ると、みんなは一様に頷いて見せる。例のごとくパイロット補助の手を借りて、狭い機体の中に身体を滑り込ませた。
フェアリングの薄い窓の先に、遥か先まで点々と続く中央区間線。本物の、滑走路である。
「初めてで上手くいかないこともあると思う。可能な限り俺たちが安全は確保するから、今回は飛行の状態に慣れることさえ考えてくれればいい」
「そそ。ソラノも操縦、よろしくね」
すばるの言葉に、はーい、と元気よく空乃は笑った。寒さを少しも感じさせないあたり、やっぱり彼女はどこまでいっても機械なのだと感じる。正直なところ、薄着の歩美には今の気温は低すぎる。
可能な限り安全は確保するから、か。
そんな心配はさせないようにしなきゃね──。ペダルに靴を装着し、前を見据える。
ヘッドマウントディスプレイに緑色の線が浮かび上がったのは、その時だった。
「ちょっと。何これ」
『高度とプロペラの回転数を表示するグラフ!』
空乃の声が変に嬉しそうだ。グラフには同じ緑色の光で曲線が描かれ、【目標高度・回転数】の表記がある。かと思うと、グラフは見る間に小さくなり画面の端へ移動した。
得意気に空乃は説明を始めた。
『いま書かれてるのが、過去の調布TFでの実際のデータなの。フライト中、高度と回転数をリアルタイムで計測して、このグラフに白色線で反映しようと思うんだ! ね、そしたらスピードを出しすぎたりすることもないでしょ?』
これなら確かに、分かりやすい。
「あんたの発案?」
思わず尋ねてしまった。当たり前じゃん、と空乃は誇らしげに鼻息を荒げる。
『アユミに快適な空の旅を楽しんでもらうためにボクはいるんだもん。このくらいの工夫は朝飯前!』
「その目的、初耳……」
ため息をついてから、そのついでに深呼吸も済ませた。調布飛行場に来てもいつもと変わらぬ空乃のノリに、どこか安心を感じそうになっている自分がいる。
(文字通りの“朝飯前”か)
何の笑いかも分からないまま笑って、前を見据えて。
機体確認の点呼が始まった。
「コクピ傾き補正! 機体方向修正! 翼バランス調整! ──昇降舵、方向舵!」
CAPASの指示で二つの舵が作動、後ろから「OK!」の声が上がった。今日は初飛行ということもあり、地上から一㍍前後の高さを維持しながら飛行することになっている。
「パイロット!」
「OK!」
ペダルを漕ぎ、歩美も答えた。ゆったりと回転する左右のプロペラが、駆動システムに異常がないことを教えてくれる。
前回はなかった点呼が、その直後に加わった。「CAPAS!」
「OKでーす!」
答えたのは空乃である。今回から本格的に自動操縦を行うので、空乃やCAPASのチェックも欠かせないのだ。
正面からの風、後方からの風、いずれもほぼ無風。「キャリアー離脱!」の号令がかかり、主桁の前方から台が外されると、いよいよ歩美の視界を遮るものはなくなる。
東の空は白んでいる。時は、来た。
「飛行試験一本目、開始!」
清が怒鳴った。歩美も怒鳴った。
「ペラ回しま────す!」
大丈夫、いつも通りの要領で。エルゴサイザーを漕いでいる時の感覚で回すだけだ。
ペダルを踏み込むたび、両翼のプロペラが威勢よく空気を切り裂く。ディスプレイ上のグラフに光の線が走った。回転数を示す曲線が、上昇してゆく。そろそろ、行けるか──。
『離陸可能回転数突破! 行けるよ!』
空乃が告げた。弾かれたように歩美も声を上げた。
「行きますっ! 三、二、一、ゴー!」
機体が押される。車輪の蹴立てる音をじかに感じながら、歩美は必死にペダルに食らい付く。後ろから押されることでぐんぐん推進した機体は、今にも、飛びそうだ。風圧でフェアリングが不気味な風音を響かせる。
甲高い電子音が炸裂した。次いでグラフが赤く点滅し、空乃が、叫ぶ。
『VR到達!』
続けざまに清の一声。「機体離せッ!」
ふっ。
推進力が、落ちた。
鎖から解き放たれたかのような浮遊感が、次の瞬間には本物へと変わった。機体を押していたメンバーたちが離脱し、同時にCAPASが昇降舵を操作。巨大な主翼が瞬間的に揚力を生み、すでに加速していた機体を一気に地上から持ち上げる。
「あ」
思いがけず声が出てしまったのは、座面から伝わる滑走路と車輪の感覚が不意に失われたからだった。
五月十五日、午前四時八分。
人力飛行機『グロリアスホーク』は、ついに初めての離陸を果たした。