PL004 飛行試験へ
「明日、いよいよ初の調布TFを実施したいと思います。まずは配布した資料に目を通してみてほしい」
代表・井口修平の言葉に、会議室に揃った人力飛行部の面々は一斉に紙をめくった。
『調布TF実施要項』とある。
(いよいよ、この季節になったんだ)
歩美の気はいやが上にも引き締まった。
調布TF。調布飛行場の滑走路を早朝に借りて行う、二週間に一度だけの大規模なTFである。既存の滑走路を使えばいいので仮設滑走路設置の手間が省けるだけでなく、整備された長さ一㌔以上の平地が用意されているため、大学のグラウンドとは比較にならないほど長距離の飛行試験を行うことができる。
「今回が初めての飛行試験になるので、みんな、これまでよりもいっそう注意して臨んでほしい」
全体を読み上げてから、修平は辺りを見回した。「当日は午前0時に作業場前に集合にしようと思っています。何か、質問は」
「あの、いつものTFに加えて持って行くものは……」
一年生の子が手を挙げている。さすがに三年目にもなると聞くこともないので、歩美はメモ用のシャーペンを資料の上でくるくると回していた。
(寒いだろうし、上に羽織れるものでも持って行こっかな)
思い立ったが何とやら、資料に書き込もうとする。……が、すばるが脇をつついたせいで、文字が思いきり歪んでしまった。
何すんのよと睨むと、すばるは手にしたタブレットを振ってみせる。
「一年生の子たち帰したら、TF進捗の検討会やるじゃん? 使えるかなって思ってCAPASの分析レポートを作ってみたの」
「レポートって?」
「回転数の変化とか、加減速時の加速度変化とかね。あ、面白いからソラノにプレゼンさせるつもり」
そんな面白さは要らない──。喉元まで出かかった叫びを飲み込んだ時、修平が立ち上がった。質疑は済んだようだ。
「では、ここまでにしたいと思います。解散!」
一年生部員たちがばらばらと席を立ち、あとには二年と三年ばかりが残される。
さて。本題とばかりに口を開いた修平が、再び着席した。
「続けて、これまでの三回の学内TFの内容の検討をしていきたいと思う。電装班、プレゼンを用意してきてるんだっけ?」
すでに代表にまで話が回っていたらしい。はーい、とすばるたちが起立して、プロジェクターにパソコンをてきぱきと接続した。さすがは電子機器を扱う電装班、こういう時は手際がいい。
空乃にいったい何をさせる気なのだろう。まさか、ここでしゃべらせる気か。机の下で手を組みながら戦々恐々としていた歩美の耳に、今いちばん聞きたくなかった声が流れ込んだ。
『空乃ですっ! みんなお疲れさまー!』
人工知能の空乃は、同期させた端末を使えばどこでもしゃべることが可能なのである。歩美は頭を抱えたくなった。
「機体に乗れない俺たちと違って、ソラノはCAPASと連動してるからな。きっとこの中の誰よりも『グロリアスホーク』の現状に詳しいと思うんだ」
修平の言葉に、電装班のメンバーたちはうんうんと大きく頷いている。歩美にはとても素直に首肯することはできない。
スクリーンにグラフが表示される。空乃の声で、解説が始まった。
『まず、これが各フライトごとの最高対気速度のグラフ! 第一回から第三回までの計二十二フライトが、順に記録されているんだけどー』
航空機と空気との速度差を計測したものを、対気速度と呼ぶ。地上との速度差を示す対地速度とは違い、例えば強い向かい風の中で飛ぶときの対気速度は弱い風の時のそれよりも大きくなる。基本的に空気だけの環境の中を進む飛行機においては、対地速度よりも対気速度の方が重要になってくる。
その対気速度を記録するグラフの平均値は、秒速九㍍半。
速すぎるな、と誰かがつぶやいた。
「……あんなに速かったっけ」
歩美は予想外の数値に目を丸くしていた。それもそのはず、対気速度九㍍半というのは、短距離競技のための高速飛行用機体に求められる速度である。歩美たちのように長距離フライトを目指す場合であれば、必要な機速はせいぜい毎秒五㍍前後。時速に換算して約二十㌔程度までなのだ。
速度が早ければ体力を消耗する。長距離の飛行を目論むのであれば、速度を抑えて体力を温存するのが定石である。
「割と息が上がり気味だなって思ってたけど、そういうことか……」
「私も後ろから見てて、ずいぶん速いなーって感じしてたな」
指摘が矢のように突き刺さる。フライト中、もっと対気速度に気を配るべきだったか。今になって悔やんでも仕方ない。
それまで黙っていた清が、待て、と口を挟んだ。
「まだプレゼンの途中だろ。ソラノ、続けて」
『はーい!』
空乃は無闇に元気がいい。そのテンションに呼応するように、グラフがスライドごと勢いよく切り替わった。
『次のグラフは、回転数の変化を図示したものだよ! 縦線が左右プロペラの平均回転数、横線が経過時間で、機体が発進したタイミングを揃えて並べてみましたっ』
プロペラの回転数は、上がれば上がるほど機体に大きな推進力をもたらす。当然、その分だけ体力も消耗するので、推進力の調節をする上では見逃すことのできない指標である。
果たして、グラフには二十二本の折れ線が描かれている。パソコン横のすばるがつぶやいた。
「……陸上短距離みたいになってるんだよね、これ」
グラフの線はいずれも最初に一気に上昇し、そこから数度にわたって下降してゆく形を描いている。
歩美にもすばるの言わんとするところが理解できた。要するに、序盤で飛ばしすぎなのである。
(一定のペースでやってたつもりだったのに……)
記録の数値は嘘をつかない。
視界の隅が、青く滲んだ。
「出力測定の時、こんなんじゃなかったよな」
目を細めた清の声が、歩美に向く。「……羽沢、漕ぐペース意識してたか?」
していなかったかもしれない。
歩美はうつむいた。答えられる言葉なんて、見つかりそうになかった。
沈黙が、痛い。メンバーの視線が自分に殺到しているのを感じながら、両の手を太ももに押し当てた。空気の読めない空乃が、さらにレポートの続きを読み上げる。
『まだ実際の飛行をしていないので何とも言えないけど、現状、アユミのペース配分はあまり適してるとは言えないかなぁ。これだけのペースで行こうとしても、体力消費が激しくなって序盤でいきなり怪我のリスクを跳ね上げることになっちゃうし、実機でこういう漕ぎ方をした場合をシミュレーションしてみても離陸直後の上昇で稼いだ高度を少しずつ消費するみたいにして後半は体力を失ったまま滑空────』
「ごめん」
歩美は話を遮って割り込んだ。空乃の指摘が、止まった。
「ごめん。……あたし、何も考えずにペダル漕いでた。ペース配分とか、忘れてた」
膝を見つめながら、続ける。本来ならチームメートたちの目を見るべきなのだろうが、そんな度胸も、勇気もない。
「こんなんじゃ駄目だね。あたし、ちょっと気持ち、緩んでたのかもしれない……」
言い切って、唇を固く結んだ。またも部屋がしんと沈黙に包まれて、取り成すようにすばるが声をかける。
「ま、まぁまぁ! 歩美だって初めて実機に乗ったんだから、最初は慣れない環境で上手くいかなくたって」
「ごめんなさい」
それ以上を聞きたくなくて、またも強引に遮ってしまう。
歩美は、パイロット。このチームの中でたったひとり、空を飛ぶのが仕事。
仲間たちはこうして機体を造り上げるという仕事をしてくれたというのに、歩美はいったい、何をしているのだろう。
(ちょっと楽しくなっちゃったくらいで、いつものペースを保つ工夫も忘れて……)
今は自分が不甲斐なくて、恥ずかしくて、仕方なかった。
さしもの空乃も、それ以上先まで話を続ける気にはならなかったらしい。しばらく沈黙が続いてから、うん、と修平が手を叩いた。
「パイロットの件はいいだろう。空乃、それ以外には?」
『えっと、次は機体制御に関して……』
能天気な解説の再開で、部屋の空気が一気にもとに戻される。翼班やプロペラ班の面々が一斉にペンを取り上げた。ふたたび賑やかな意見交換の始まった自分の周囲を、歩美は虚ろな目で、見つめていた。
自分だけは一瞬たりとも、みんなの足を引っ張るまい──。
そう、固く決めていたはずだったのに。
◆
深夜十一時の作業場には、さすがにまだ人影はない。
「……あたしだけ、か」
ひとり言ちて、スライド式の扉を開けた。さして広くもない作業場の中には、分解された『グロリアスホーク』の機体が眠っている。
集合時間は0時。まだ一時間も余っている。せめて荷物、置かせてもらおう──。まだ少し肌寒い五月の夜空を見上げながら、作業場の中に踏み込んだ。
これから初めての飛行試験だというのに、気分は宙を舞うどころか、上の方向すら向いてくれそうにない。
検討会のあと、何人もの仲間にフォローの言葉をもらった。初めてなんだから仕方ない、塩梅を確かめるための飛行試験なんだから──と。
(本心ではそんなこと、思ってるわけ、ないのにな)
作業場の隅にカバンを立て掛けて、心の内にそっと吐露した。ちゃんとやれよ──みんなの本音はむしろ、そちらにあると思う。美しい光沢を放つ、整備の行き届いた『グロリアスホーク』の部品を眺めていると、余計に。
何の作業もしていない手前、チームメートたちへの遠慮もあって、今でも作業場にはあまり近寄らないようにしている。壁に寄り掛かって、体育座りを作った。プレハブの壁はひんやりと涼しかった。
歩美の目の前に、コックピットが鎮座している。その足元で点滅している赤色のLEDは、座面下部のCAPASの動作ランプか。思わず、目を背けてしまった。背けてから、そっとそれを床に下ろして、ついでに吐息をぶつけた。
(去年のパイロットの先輩、羨ましいな。鳥コンにも出られてるし、機体に空乃が積まれることもなかったし、あたしなんかよりずっと……)
やめよう、妬んでも仕方がない。首を振って歩美は立ち上がった。それから飲み物を用意してきていなかったのを思い出して、財布をポケットに突っ込んだ。
コックピットの上にぽつんと放置された、CAPASのヘッドマウントディスプレイが、ちょうど歩美の目線の高さと一致した。
置きっぱなしなんて、不用心な──。やれやれと思いながら手に取って、コックピットの扉を開ける。いっそ空乃が盗難にでも遭って失われた方が、歩美も心安らかに飛べるだろうか。まさかねと笑った時、指が空乃の起動ボタンに触れた。
「やばっ」
手を離したが、遅かった。狭い作業場の中を、空乃の声がたちまち跳ね回った。
『あ、アユミだ! こんな時間にどうしたの? 夜更かしはダメだよ?』
声が大きい──。暗闇の中で音量ボタンを探り当てようと指を這わせながら、歩美はしっかり毒も盛っておく。
「これからあんたを運ぶために夜更かししてるんだけど、文句あんの?」
『パイロットは身体が大事だよ。夜更かしは敵!』
まったく聞く耳を持っていない。
起動ボタンを押せば、空乃とはいつでも会話をすることができるようだ。よく作業場でチームメートたちとしゃべっていると、そういえば誰かに聞いた気がする。
「うるさいから切るわよ」
起動ボタンを押して終了を試みる。待ってよ、と空乃が悲しげな声を上げた。
『たまにはボク、アユミとも話したいなぁ、なんて』
「フライトのたびに話してるじゃん」
『そうじゃなくて、もっとこう……普通の話、したいなって』
断固、お断りだ。だいたい空乃はいったい誰のせいで、TF中の歩美の気が漫ろになっていると思っているのだろう。
が、空乃は尚も続ける。
『アユミ、検討会の時、とっても凹んでいたから……。ボクだってそれくらい、分かるから』
「分かんなくていい」
歩美は吐き捨てた。
なんだか終了の動作さえも面倒になってきて、ディスプレイをコックピットの中へ放り込む。考えてみれば、別に空乃がぺらぺらとしゃべる分には構わない。歩美が反応を返さなければいいだけである。
もとのように壁に寄り掛かって、長い息を漏らした。