PL003 夕焼けと思い出
「……って具合でさー、歩美ったらそれから三回も減速指示を聞き逃して南浦に怒られたんだよー」
「えーマジ!? やばくない?」
「トレーニングのしすぎで疲れてるんじゃないの? だって朝、めっちゃ早いんでしょ?」
「わたしだったら絶対そんな時間に起きてらんないやー」
「だよねだよね! 人力飛行部の人たちってマジで人間離れしてると思う!」
「文字通り“鳥人間”だしねぇ」
「…………」
ばつが悪いやら哀しいやらで、歩美は口々に囃す友達の声をぜんぶ無視して昼食を掻き込んでいた。
学生食堂の喧騒が、歩美の周りに壁を作ってくれる。今はTF後の午後0時半、昼食の時間である。
たまたま一緒のテーブルにすばるがやって来たのがいけなかった。TFで歩美がオーバーランしたことを大袈裟に話して聞かせたものだから、周りの友達も今やすっかり“そういう目”で歩美を眺めてしまっている。
「……仕方ないじゃん」
うつむいて、ぼやいた。「初めてだったから勝手もよく分かんなかったし、機体は口うるさいし」
「機体が口うるさい?」
尋ね返した子の隣で、すばるが口元に人指し指を立てている。空乃の存在は秘密、ということか。
「まぁ、色々あってさ」
歩美は食器を置いた。我ながら強引な誤魔化し方をしてしまったと感じたが、友人たちはさほど気にも留めていなかったらしい。あっという間に次の授業の課題に話題が移って、ほっと、息が漏れた。
机を回り込んで来たすばるが、歩美の耳に囁く。
「ごめんね。ソラノのこと、完成って言える段階になるまでは秘匿扱いにしてるんだ。いずれCAPASと併せて鳥人間界隈全体に発表したいねって、話し合ってはいるんだけど」
「ふーん……」
その話し合いのことさえ、歩美は知らない。ちょっと意地悪を口にしたくなった。
「その秘匿扱いの対象、あたしも入ってたわけ?」
すばるは眉を下げてしまった。
「……やっぱ、まだ気にしてるよね。黙ってたこと」
「当たり前じゃない」
実際に空乃やCAPASを運用する張本人は、歩美なのだから。
あれだよ、とすばるは手を合わせる。「ソラノを開発したのにはちゃんと理由があってさ。だけど、もしもそれを説明した上で搭載の可否を問えば、きっと歩美は反対するだろうって……。だから、言えなかった」
「…………」
「でもさ、あの子けっこういいでしょ? 可愛いし楽しいし、元気くれるし!」
「……開発者がそれ言うと、自画自賛にしか聞こえないんだけど」
ばれたか、と彼女は戯けて笑った。
声が可愛いのは認める。楽しそうなのも認める。百歩譲って、元気をくれるというのも認める余地がある。それでも空乃そのものの存在を認めてやる気になれないのは、なぜだろう。
(理由っていうのも、気になるし……)
足に溜まった乳酸が疼く。今日のトレーニングの内容を思い出しながら、歩美は課題の話に混じりに行ったすばるの背中を見つめた。
最近、あの背中が何気なく、ひどく遠く見えることがある。
人力飛行部に入部して二年以上。こんな経験は、初めてだ。
◆
第二回、第三回と、その後もグラウンドでの地上滑走試験は続いていった。
さすがの歩美も、減速指示を聞き逃してあわや衝突事故──などという事態を引き起こすことはなくなっていた。代わりに意識したのは、如何に効率よく、足の力をペダルの回転に繋げられるか。実機の感覚はトレーニング用のマシンのそれとは違うので、やっぱり乗る回数をこなす必要があるのである。
逆に言えば意識したのはそれだけで、操舵に関してはCAPASにまるっきり任せておけば済む。CAPASの性能は優秀で、滑走試験中に機体が浮かび上がることはただの一度もなかった。
(これ、案外あってもいいのかも)
歩美自身も前向きに捉えられるようになってきている。
それとは対照的なのが空乃である。とにかく走行中も待機中も、うるさい。鬱陶しい。
『機速がもう少し一定だといいと思う!』
だの、
『もうすぐ飛行試験だね! ね、楽しみじゃない?』
だの。
歩美もいちいち反応しなくなっていたので、端から見れば、機体が誰かに向かって一方的にしゃべっているだけという不思議な光景が出来上がっているだろう。空乃を開発して積んだ理由など、これではますますさっぱりである。
(あたしには分からなくてもいい……ってことか)
清やすばるたち、空乃の搭載決定に携わった面々を眺めるたび、不満にも似た思いが燻りそうになって、慌ててそれを消火する。そんなことを歩美は無限に繰り返しつつあった。
人力飛行機のパイロットには、継続的にペダルを漕ぎ続けられる体力が要求される。機体製作メンバーから離れて体力作りを進める、それが基本的なパイロットの日課であり、仕事でもある。
トレーニングの内容は様々だ。エルゴサイザーと呼ばれるトレーニングマシンを用いての、長時間耐久漕ぎやインターバル。体幹を鍛えるトレーニング。それから、機体を模したラジコンやフライトシミュレーターを用いての操縦練習。CAPASには自動操縦機能があるけれど、最低限の操縦技能がなければ故障時に大事故を引き起こしてしまうので、どのみち練習は積まねばならない。
その日も、歩美はトレーニングルームの片隅でエルゴサイザーに向き合っていた。普通の自転車の形と違い、身体のだいぶ前方にペダルがついているのが特徴で、『グロリアスホーク』のペダルの位置もおおむねこれに近い。
「はぁ、はぁ……終わりにしよ……」
かれこれ一時間ほど漕いだだろうか。すっかり息が上がってしまって、喘ぎながらふらふらとマシンを離れる。
傍らで見ていた後輩がペットボトルを渡してくれた。一年下のパイロット候補、東台拓である。
「大丈夫ですか」
「うん……。ちょっと、休もう」
ベンチに腰かけて、タオルで汗を拭った。
人力飛行部のメンバー構成は、機体製作の主軸を担う三年生、部活そのものの運営を引き受ける二年生、それから補助や手伝いがメインの一年生から成る。機体には『翼』『コックピット』などの様々な部位があり、それぞれを『翼班』『コックピット班』といった専門の班が製作していて、三年生と二年生はそれぞれの班に所属して活動する。つまり完全分業を敷いているのである。
だから、他の班が具体的にどういう作業をしているのかは、報告を受けないことには分からない。
「ね、東台はさ」
隣の後輩に歩美は声をかけた。「CAPAS、だっけ。あれが搭載されるって話、いつから聞かされてた?」
「俺は話し合いの段階から知ってましたよ。先輩は高山先輩と仲良いですし、てっきり知っていると思ってましたけど」
がっかりしながら、そっか、とつぶやいた。仲間外れだったのはいよいよ歩美だけのようである。
「例年の話とか聞いてても、やっぱりパイロットの一番苦労するのは機体の操縦だと思いますし、漕ぐだけでいいっていうのは気楽なんじゃないかなって俺なんかは感じますけど……」
拓は天井を仰ぎながら、つぶやいた。「嬉しそうじゃないですよね、先輩は」
「まあね」
小声で答えて、水を含んだ。
嬉しくない理由は色々とある。でも、ともすれば愚痴になりかねないのは分かっていたから、それをいちいち説明する気にはなれそうもなくて。
(引っ掛かってるのはあたしだけだろうし、なんだかなぁ)
なんて、もやもやと煙る心を抱えたまま、今日も明日もトレーニングに励むのだろう。次の第四回TFまで、三日。先は長い。
「心配すること、ないですよ」
浮かない顔の歩美を窺い、拓は変に明るい声を上げた。
「機体設計主任の南浦先輩が、わざわざ設計変更してまで搭載したシステムなんですよ、ソラノは。むしろ俺、あんな子と一緒に空を飛べる先輩が羨ましいです」
「好みのタイプなの?」
「そうじゃないですけど……。でも、空の上ってひとりぼっちで、寂しいじゃないですか」
歩美にはとっさに返す言葉が思い付かなかった。
◆
東京の都心から十数㌔。多摩地区の東の端に位置する三鷹市は、鉄道に見放された自動車交通の町だ。その代わり、日本有数のレベルで高度に発達した路線バス網が、町のあらゆる場所を結んでいる。
多摩工大のキャンパス前を発着するバスに揺られて、だいたい五分。そこに歩美の下宿する、三階建のアパートは建っている。東京都内と言えども都会ではないので、この辺りはどこに立っても空が広い。そんな景色が好きになったことも、多摩工大を選ぶきっかけになった。
人見街道を見下ろす自分の部屋に帰りつくと、大抵、ぐったりと布団に沈み込んで動けなくなる。
「疲れた……」
自分の状態を言い表せる言葉が、それ以外に見つからない。ただでさえ授業やトレーニングの負荷が大きいこともあって、最近はTFが終わるたびにこうなるようになってしまった。
ひとり暮らしのアパートは狭くて、静かで、放っておいても誰も家事をやってくれない。しばらくじっとしてから、やむなく起き上がった。せめて夕食を食べてから眠りに落ちたかった。
(食材、買いに行かなきゃな)
空っぽの冷蔵庫を前にして、またもため息が出た。
仕方なく家を出て、近くのスーパーで買い物をする。時報のチャイムが聴こえていたから、時間はもう午後五時か。積み上げられた買い物カゴの数がずいぶん少なかった。
三鷹は親子家庭の多い町だと聞くけれど、今日も今日とて小さな子を連れた人々が、スーパーの中にはいくつも見当たる。はしゃぐ女の子の手を取りながら、歩美の横をスーツ姿の女性が通り過ぎた。あの親の姿に自分の顔を重ねるのは、今の歩美にはまだ、難しい。
(今は目の前の仲間、大事にする時期だもんね)
考えてから、無性にそれを取り消したくなった。その仲間たちから隠し事をされている自分のことに、嫌でも思い当たってしまう。
余計なことは、考えないようにしよう。
首を小さく振って邪念を追いやり、買い物に意識を戻す。必要なものを一通りカゴに放り込むと、足早にレジを通過して会計を済ませ、外に出た。
夕闇色に沈みつつある西の空を、見上げる。どこからかプロペラが空気を乱す重たい音が響いてきた。またか、と思いながら見ていると、まもなく現れた一機の小型プロペラ機が空を横切り、マンションの陰へと消えていった。
三鷹市の端の方にはプロペラ機専用の空港、調布飛行場がある。このあたりの上空は着陸する飛行機のルートになっているのか、空を飛ぶ姿を見かける機会が多いのである。
飛行機の消えていった先を、歩美はしばらくぼんやりと見つめていた。
いつか、あの空へ。遥かな高みへ。自分たちならば昇って行けるのだと信じていたし、今も信じていたい。後輩の拓はいつも、トレーニングに付き合ってくれている。チームメートたちも歩美の様子を気にかけてくれる。歩美はひとりではないのだと、信じていたい。
けれど、
──『空の上ってひとりぼっちで、寂しいじゃないですか』
拓の口にした言葉が脳裏で瞬いて、その邪魔をする。
多摩工大人力飛行部は今年、鳥人間コンテストの書類選考で落とされ、六年連続の出場を逃す結果となった。
落選の理由は実行委員会に問い合わせれば教えてもらえる。多摩工大が落とされたのは、駆動系──すなわち双発プロペラとペダルを連動させる仕組みに不安が見られたからだという。構造欠陥が原因で大会中に大事故が発生しても、主催者側は責任を取ることができない。だから審査は厳密に行われ、多くのチームが落とされるのである。
元々、人力飛行機において双発は構造が複雑になりすぎるために敬遠されがちで、だからこそ双発プロペラを持つ多摩工大の機体は注目を集めてきたという事情があった。その特徴が見事に、仇となった形だった。
送付されてきた選考結果の通知書を前に、チームの仲間たちは落胆の隠しようもなかった。清が、すばるが、誰もが一様に泣いていた。努力の結晶を評価してもらえなかったばかりか、挑戦する権利すら獲得できなかった──。落選という現実は、どう足掻いてもそうとしか捉えることのできないものだったのだろう。
あの時、たったひとりだけ、涙を流すことのできなかった者がいた。
他ならぬ歩美である。
あたし、飛べないんだ──。そんなどうしようもない失望の波が、歩美を包み込んだところまでは覚えている。しかしそこまでだった。虚しくはなれても、悲しくはなれなかった。
無理もなかった。歩美は、機体の製作にはほとんど関与していない。パイロットの歩美の仕事は、来るべきフライトのために身体を作り上げ、整えることで、目下それを歩美は着実に遂行しつつあった。何も失敗していないし、何も否定されていない。
そんな自分に、みんなに倣って泣く権利があるだなんて、歩美にはとても思えなかったのだ。
あたしはたったひとりのパイロット。あたしは、あたしに与えられたことをやり続けなきゃ──。
通夜のようだった作業場にあまり立ち寄らなくなったのも、思えば、その頃からだった。どん底に沈んだままのチームメートから懸命に目を背け、歩美はひたすらトレーニングルームにこもり、体力作りに励み続けた。誰も傍らにいてくれなくても、深夜の学内にひとりぼっちになっても。
そうして、今がある。
ひとりぼっちだったら何だというのか。できる限りの努力を続ける義務が、歩美の肩の上には今も常に乗っている。そして、今日に至るまで、その義務を自分なりにきちんと履行してきたつもりだ。言うまでもなく、これからも。
いつか飛行機とともに、涙よりも塩辛い海の中に沈むまで。
「…………」
黙っていると徐々に焦点が地上へ戻ってくる。
そっと、そこを離れて、歩美は街灯の照らす家路を辿った。