PL001 二人目の操縦士
五月も半ばに差し掛かった、ある日の早朝。
しんと冷えた静寂に包まれた、多摩工業大学・三鷹キャンパスの多目的グラウンドでは、いくつもの灯火に照らされながら人力飛行機の組み立てが進められていた。
機体がロールアウトして、二ヶ月。初めてのTF──飛行試験を数日後に控え、機体の試乗会が行われようとしていた。
コックピット、プロペラ、電装部品、主翼、垂直尾翼・水平尾翼……。数十に分割された機体を組み立て、それを見守るのは、総勢二十五名の多摩工大人力飛行部員。『グロリアスホーク』を製作したのは、他ならぬ彼らである。
羽沢歩美は緊張していた。屈伸や伸脚をいくら繰り返しても、身体中に散りばめられた凝りがちっとも取れない。
──『気、張りすぎじゃないの?』
──『もっとリラックスしなよー』
深夜のグラウンドに集合してからもう三時間になるが、その三時間だけでそんな言葉を軽く十回は浴びた気がする。そのたびに、仕方ないじゃん、とぼやいた。
(みんなの造った機体に乗るの、初めてなんだから)
ヘタなことをして壊してしまえば、みんなにも大迷惑だ。最も機体に近い場所で活動をする操縦士の責任は、重い。
照明の輝きの先に浮かび上がった機体には、今、ようやく主翼の先へ翼端板が取り付けられつつある。砂を踏みしめながら歩いてきたジャージ姿の男が、言った。
「もうそろそろ、始められると思う」
機体の設計主任、南浦清。歩美と同じ三年生である。
うんと首肯して、歩美は伸びをした。「今日は乗るだけよね」
「一応、そのつもり」
「一応?」
清は黙って、機体に目を向けてしまった。普段からこのくらい口数が少ないので、歩美も文句は言わずに同じ方向を見る。
主翼の全長、三十四㍍。中央翼の両端付近には二つの大きなプロペラが装備され、その向こうには十字の形に重なった昇降舵と方向舵が窺える。舵とコックピットとは武骨な黒のカーボンパイプで結ばれていて、鮮やかな赤と白に塗り分けられたフェアリングが目立つ。多摩工大人力飛行部の力作、一般にダイダロス型と呼ばれる一人乗りの人力飛行機である。
歩美たちは三ヶ月後の八月、この人力飛行機『グロリアスホーク』を静岡県の富士川にある滑空場から飛ばし、国内最長飛行記録の更新を狙うことになっていた。
「終わったな」
清がつぶやいた。ワイヤー繋いだぞー、と声が飛んできている。
「いよいよね」
歩美も応じた。声まで硬い。硬い関節をどうにか動かし、機体の方へ向かおうとした時。
待って、と清の声が引き留めた。
「……その、一応、言っておきたいんだけどな」
視線を機体に向けたまま、清は早口で言った。「お前、しばらく作業場に顔を出さなかっただろ。あれから色々と仕様が変わってるから、気を付けてほしい」
「へぇ……」
「具体的に言うと、自動操縦システムを搭載した」
清が何を言っているのか分からなかった。人力飛行機で、自動操縦──?
「例年の風車と違って、給電のために主翼に太陽電池パネルを内蔵したから、機体の重量も若干ながら増えてる。あとは……」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
歩美は話を遮らざるを得なかった。「人力飛行機に自動操縦システムなんて、聞いたことないよ。操縦も含めて全部、パイロットがやるもんじゃないの?」
人力飛行機の操舵は、電気信号かワイヤーを介してパイロット自身が行うのが常だ。自動操縦の機能なんかを積めば、鳥人間コンテストあたりに出ようとしても書類選考で引っ掛かってしまうはず。
「あたしは確かに女子パイロットだけど、そのくらい信用してくれたって……」
違うんだ、と清は首を振った。一緒に機体の方へ向かいながら、なだめるように説明を続ける。
「羽沢の実力云々が問題なんじゃない。どうせ鳥コンにも出られなくなったんだから、今回は色んなことを試してみよう──そういう方針になってただろう。改造のこと、事前に話しておかなかったのは、悪かったけど」
「…………」
なんだか一気に機嫌が崩れてしまった。歩美は口をつぐんだまま、歩く。
道理でここ一ヶ月以上、電装班のメンバーが忙しそうにしていると感じていたわけだ。トレーニング終わりに晩ご飯に誘っても、ちっとも応じてくれない。深夜になってもSNSの返信がない。
(確かに、今年はチャレンジの年だねって、みんなとは話してたけどさ……)
この心のもやをどうやって晴らそうか。心地良さそうに翼を広げる『グロリアスホーク』を前に、歩美はひそかに嘆息した。こんな気分で機体と対面することになるだなんて。
主翼上部への太陽電池パネルの装備、GPS受信機の設置、座面下部への小型コンピューターの搭載──。施された改造は多岐にわたる。それらはすべて、自動操縦のために行われたものだという。
航行補助・パイロット支援システム。略して『CAPAS』。多摩工大の誇る電装班メンバーたちの作り上げたそのシステムは、従前までは地上からの無線でしかパイロットに伝えることのできなかった風向や風速などの情報を効率的に統合、パイロットに伝達し、さらには必要に応じて機体の向きや高度を自動的に調整することを可能にするのだという。
得られる情報はこれまでの風向風速に加え、飛行ルートと現在位置、飛行時間、気温、気圧、対地・対気速度、左右プロペラの回転数……等々。それらはすべて、パイロットの装着したヘッドマウントディスプレイに表示され、パイロットはいつでも欲しい情報を手に入れられるようになる。らしい。
必要最低限の広さしかない人力飛行機の機内は、狭い。一年生部員の補助を借りてやっと中へ入ると、手のひらにじわりと汗が滲んだ。
ようやく、飛行機に乗れたんだ──。達成感を味わう間もなく、コックピット正面の窓から顔を覗かせたのは、電装班長・高山すばるである。
「あはは、めっちゃ窮屈そうな顔してる!」
「じろじろ見ないでよ」
歩美は頬を赤くしながら言った。狭い機内にやっと押し込んだ足が、こうして見ると太い。ちっとも嬉しくない。
「いーじゃん。今年はテレビに映ることはないんだから」
ひとしきり笑ったすばるは、ヘッドマウントディスプレイを装着した歩美を見て、右耳の前に手をやる。
「そのへんに起動スイッチがついてないかな。押してみて」
言われるがまま、押した。
コックピットの窓越しに、すばるの顔と、暗く沈んだままの空が見えている。──突然、そこにたくさんの文字や図形が表示された。
「わ」
とっさに声を上げてしまった。緑色に輝く光の文字が、風景に重なって大量の数値情報を示している。若干、視界の邪魔ではあるけれど、昼間に使っても眩しくて見えないことはなさそうだ。
「自動操縦機能は今は封じてあるんだ。調布TFの時にでも、実際にやってみることになると思う」
すばるは右耳から指を離して、今度は左耳に当てた。「こっちにもボタン、あるでしょ?」
「……うん、ある」
「そっち押すと機体がしゃべるよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。機体が、しゃべる?
「ど、どういうこと?」
すばるが窓越しに胸を張った。「だから、しゃべるんだよ」
「…………?」
「CAPASを使えば大概の情報は手に入るけど、場合によっては手が離せないこともあるかもしれないじゃん? そんな時、言葉で状況説明とか指示をしてくれる存在がいたら便利だろうなって思って、用意してみた」
どうやら、スマートフォンにおける秘書機能アプリケーションソフトのようなものらしい。
いよいよ歩美は新機能の実験台にされているような気がしてきた。押して押して、と言わんばかりのすばるを前に、仕方なく左耳手前の小さなボタンを押し込む。
と、機内に声が響き渡った。
『初めまして!』
幾つぐらいの子だろう、ともかく少女の声である。同時に画面の端に【空乃:ON】の文字が表示される。
「空乃って言うんだよー」
すばるが補足を加えた。呆気に取られている歩美をよそに、少女はさらに言葉を繰り出す。
『あなたがパイロットの羽沢歩美だね。ボク、あなたのことをアユミって呼んでもいいかな?』
「……何なの、これ」
『空乃』の問いかけには答えず、余った疑問符を歩美はすばるにぶつけた。「なんかやたら馴れ馴れしいんだけど……」
「すごいでしょー! 人工知能の研究してるOBがいてね、その人と一緒に苦労して開発したんだからぁ」
歩美の話は全く聞こえていない様子である。
『ね、アユミ、聞こえてる?』
なおも空乃が割り込んでくる。おそらく合成音声なのだろうが、それらしき違和感をほとんど感じさせない。それがかえってやかましくて、歩美は自棄気味に叫んだ。
「聞こえてる! あと、何でも好きに呼んで!」
『じゃあアユミって呼ばせてもらうね! よろしくね、アユミっ』
歩美の雑な返しを聞いても、彼女は少しも気分を害する様子を見せない。余計、心が重たくなった。
確かに、情報の読み上げが必要な場面が出てくることも、これから先にはあるのかもしれない。しかし、こんなに普段からぺらぺらとしゃべる必要はあるのか。
ボタンを再度押して、『空乃』を眠らせる。感想を求めんばかりに頬を紅潮させているすばるに、歩美は言った。
「……もしかしなくても、遊んでない?」
「そんなことないけど」
「だって、明らかに余計な機能じゃん……。百歩譲ってCAPASは必要だとしても、このソラノとか言う子は要らないでしょ」
「んー、でもCAPASにしてもソラノにしても、うちらみんなで話し合って搭載を決めたものだしなぁ」
そうでなければ、機体の設計変更なんてするわけがない。そりゃそうだろうけど、と歩美はため息をついた。
次期機体のパイロットになることが決まって、一年以上。この機体のために懸命にトレーニングを積んできた。
歩美のフライトはいったいどうなってしまうのだろう。
ついに誰もその答えを教えてくれないまま、試乗会は“成功”のうちに終わったのだった。
◆
東京都郊外の三鷹市、井の頭地区に広大なキャンパスを有する、国立理系大・多摩工業大学は、理系の雄と呼ばれる首都工業大学の人気を分散させ機能強化を図るため、三十年ほど前に開学したばかりの歴史の浅い大学で、学生数も、はたまた偏差値も際立って上位にあるわけではない。
そんな多摩工大の最大の売りは、近隣に施設を持つ宇宙航空研究開発機構や海上技術安全研究所、電子航法研究所などの国立研究機関と、積極的に提携して研究を行うことができることであった。特に航空工学や流体力学の分野は論文引用数などの発展が目覚ましく、それらの研究に従事する夢を持つ学生たちが多摩工大には集まりやすい特徴がある。各研究機関へも多くのOBが流れ込み、現役学生たちとの間をうまく取り持ってくれている。
多摩工大人力飛行部は、そんなバックグラウンドのもとに活動を行っていた。国内最大の人力飛行機競技会『鳥人間コンテスト』へは、過去五年連続で出場。部そのものの歴史が短いこともあって、現時点での最長飛行記録は四五○○㍍にしか届いていないものの、双発──二つのプロペラを持つ特殊な構造などで注目を集め、近頃はすっかり常連有名校の序列の端に名前を加えられつつあった。
鳥人間コンテストには事前の書類選考がある。歩美をパイロットに擁する第八期チームも、『グロリアスホーク』の設計図を大会運営委員会に提出し、選考への応募を済ませていた。機載カメラ設置への協力など、求められている条件もすべて満たしたつもりだった。
ところが──届いた書類選考の結果は【落選】。
六年連続の鳥人間コンテスト出場の夢を、多摩工大人力飛行部は取り落としてしまったのである。今年の三月、機体がロールアウトした直後のことだった。
鳥人間コンテストの書類選考は厳しい。長大記録を叩き出す超有名チームですら、落として泣かせることがある。せっかく建造した機体をどうしよう──。チーム全員で話し合いの場が持たれた結果、代表を務める井口修平の言葉ですべては決まった。
新たな目標は。
『日本国内の最長飛行記録・四十九㌔を、打破する』こと。