PL012 翼の夢
「しっかりしろっ! ──おい、左手掴め! 引き上げる!」
「酸素吸入器! 早く! 救命胴衣もだよっ!」
「機体回収するぞ! 引き揚げ用ロープの準備、急いで!」
「息あるか!? 大丈夫か!?」
「右足は慎重に扱えっ!」
耳元でいくつもの声が飛び交い、重たい水の中から身体が引き上げられるような感覚が、肩から足の先へ抜けて。
抜けて生じた感覚の隙間にそっと、意識が、戻ってきた。
歩美は目を開いた。
今まさに、仲間たちが引き揚げた歩美の全身をボートの中へ横たえたところだった。
右足が痛い。痛い。駆け寄ったすばるが両手を出し、右足首を掴んで伸ばそうとする。
「ちょっと痛いかも、我慢して!」
鼻声だった。頷くや、力任せに右足を曲げて伸ばす。痛みに顔が歪んで、汗とも海水ともつかない何かが頬を伝った。
ぼやけた視線の先に、海が映る。
ばらばらになって漂う機体の一部が見える。
墜ちたんだ──。いやが上にも、そう理解する他なかった。どうしようもない虚無感で力が抜け、意識が飛びそうになって、へにゃりと笑った。
限界まで努力したつもりだったけれど、届いてはくれなかった。
「ごめん」
飛び続けられなかった。
「『沈めたりなんかしない』って、言ってくれたのに……」
空乃からの返事は、ない。
弾かれたように歩美は海を覗き込んだ。無数に破れたフェアリングの残骸が波間に漂っている。主翼の下部で破断した胴体が、ぷかぷかと水面を泳いでいる。その向こう、三つに折れて破片を散らした主翼の下に、ほとんど沈みかかった状態のコックピットが窺える。
CAPASの本体は精密機械のため、重量が大きい。機体の重心を下げるため、その設置位置は没してゆくコックピットの下部、座面の直下だったはずである。
「うそ…………」
歩美は呆然とつぶやいた。
CAPASは、そして空乃は、墜落の衝撃で海没してしまったのだ。
──『このままずっと、ずっと……楽しい時間が続けばいいのになぁ』
──『忘れちゃダメだよ、アユミ。アユミはチームのためだけに飛んでるわけじゃないんだってこと』
──『ボクがついてる限り、アユミに苦しい思いなんてさせないよ。一緒に飛ぶのを楽しむんだもん!』
──『見えないのは分かってるよ。ボクにだってアユミのこと、見えてない……。だけど分かるよ。アユミが焦ってること、痛みに耐えてること』
──『忘れないで。ここにボク、いるんだよ。アユミはひとりぼっちなんかじゃない。アユミが頑張り続ける限り、……ボクだって機体を沈めたりなんかしない!』
四散した機体の下に広がる穏やかな海の中から、もう、空乃の声は聞こえてはこない。
「……そんな」
歩美は船縁にしがみついた。「そんな……っ……」
痛みと息苦しさが強くなる。あらゆる神経が痛め付けられ、思い通りに動かない今でも、目と耳だけは確かな知覚を続け──そこに空乃からの反応が引っ掛かることは、ない。
空乃は歩美をひとりぼっちにしないでくれたのに。
歩美は空乃をひとりぼっちにしてしまった。
チームの仲間たちは最後まで追い続けてくれたのに、歩美は仲間たちを最後まで引っ張り続けられなかった。
空を飛び続けるという約束も、守ってあげられなかった。空乃やみんなに楽しい時間を捧げられなかった。歩美自身すら、最後まで空を飛ぶことに喜びを見出だせなかった。ペダルにしがみつき、己の身を案ずるのが、精一杯だった──。
「うぅ……っ、う……っ」
激しくなる痛みに押され、涙が、一気に溢れた。
「ごめん、ソラノ……みんな……ごめん……っ、ごめんなさいっ……」
漂い続ける残骸を前に、ただ、泣きじゃくりながら謝り続けた。
誰も、何も言わない。清が黙ってタオルを差し出した。その頬にも、それからすばるの頬にも、水滴が川を作っていた。号哭する歩美の周りを囲む誰もが、ただ、静かに。
◆
八月一日、午前九時十五分。
富士川滑空場から見て南南東、約十七㌔沖合いの駿河湾洋上で、人力飛行機『グロリアスホーク』は着水、全壊した。
フライト時間は五十二分に及んだ。平均機速は秒速約五・四㍍、飛行距離は十七・〇三八㌔。目標達成はならなかったものの、多摩工大の持つ飛行距離の記録、フライト時間の記録を大幅に破った新記録となった。
そして。
『グロリアスホーク』の車輪が海水を跳ね上げた、その瞬間。
鳥人間コンテストの書類選考に落選して以来、今日までの歩美たち第八期チームを前へ押し出し続けた挑戦も、ようやく終了したのである。
「歩美ー、そろそろ元気出しなよぉ」
肩を揺さぶる手が訴える。うるさいと跳ね退ける気にもならなくて、歩美は揺さぶられるまま稲穂のように揺れた。
はぁ、と大きめの吐息をついたのは、すばるである。「もう三週間も経つんだから……」
「日にちの問題じゃないのよ」
作業場の壁を撫でながら、蒸し暑い空気を吸って、ぼやいた。目の前には駿河湾から回収した亀裂まみれの機体の残骸が、木箱や台に分けられて保管されている。
すでに八月も下旬である。夏休み真っ只中の多摩工大三鷹キャンパスに、学生の人影はほとんど見当たらない。もちろんそれは活動の区切りのついた人力飛行部も同じで、近頃は見渡せば引退した三年生OBばかりがたむろしている有様であった。今日はたまたま、歩美とすばるの二人だけ。
立ち上がって、コックピットの前に立った。墜落の衝撃で多数のカーボンパイプが折れてしまい、コックピットは見るも無残な姿に化けている。座面下部にあったはずのCAPAS本体に至っては、墜落時に脱落し行方不明と聞いている。
(まだ、夢みたいなのよね)
機体をつっつきながら、嘆息した。
空乃とともに飛び方を極めたことも、たくさんの話を交わしたことも、墜落の寸前にかけられた言葉も。……まるで、初めから相手が機械なんかではなかったかのように思えるほどで。
駿河湾の海水に引きずり込まれ、歩美だけが船上に救い出されたあの時から、歩美の心の中には空洞のようなモノが巣食っているような気がしてならなかった。もちろん、今も。単なる無気力とか脱力と言い捨ててしまうこともできず、こうしてすっかり暇を持て余している自分がいる。
「こないだの飲み会でも上の空だったし……。そんなに空乃、恋しい?」
すばるが隣に立った。思わず、違うわよ、と声を荒げてしまった。
「恋しいわけないじゃん。あんな、うるさいだけの子」
「制作者的にはそれもそれで傷付くけど」
すばるは難しい顔付きになる。
大嘘をついてしまった自覚はあったので、歩美もそっと肩を小さくした。……この虚無の正体が喪失感であることくらい、歩美だって分かっているのだ。けれどそれは空乃に関してだけではない。空を飛ぶチャンスそのもの、八代目チームという仲間、『グロリアスホーク』という愛機、すべて。
フライトが終わり、代替わりを済ませてしまった以上、もはや、それらが戻ってくることはない。
だから今はせめて、余韻に浸っていたいのだと思う。
がら、と扉が鳴った。トレーニングウェア姿の拓が、またですかと言わんばかりに目を細めながら入ってきた。
「お疲れさまです。ちょっと、探し物に」
「精が出るねぇ」
すばるの暢気な声が答える。はい、と拓も応じた。「みんな今から張り切ってますよ。来年こそ鳥コンに出て、先輩方の雪辱を晴らすぞって」
「お! じゃあ本番は琵琶湖に甘いものでも差し入れに行っちゃおっかな。ドーナツとかどう?」
「それ、高山先輩が食べたいだけなんじゃないですか」
ばれたか、とすばるは朗らかに笑った。拓も笑った。笑うタイミングを逸してしまった歩美は、曖昧な表情のままさらに縮こまってしまう。
毎度毎度、作業場に来るたびにこんな姿しか見せてやれないのが、つくづく不甲斐なくて仕方ない。
空を飛ぶということ。
それは拓の言葉の通り、孤独で寂しい挑戦に他ならなかった。
どんな群れを作って飛ぶ鳥も、手や足を互いに取り合うことはない。飛行とは広大な自由を手に入れる代わりに、地面という確かな支えを失う取り引きなのだと、──その事実を誤魔化すことはできないのだと、今度の挑戦で痛みとともに思い知った。
それでも声で、あるいは言葉でなら、寄り添うことはできる。それは例年であればフライト中の地上との無線交信であり、歩美たちの代ではたまたま空乃が大きな役割を占めることになった。
鳥人間は、ひとりでは飛ぶことはできない。
ひとりで飛ぶには、あの空は広すぎるから。
今にして思えば、歩美の克服すべき課題は体力でも技術的限界でもなくて、その挑戦を支える存在の枯渇にあったような気もするほどで。だからせめて飛び終えた後、支えてくれたみんなに感謝したかった。『見捨てないでくれてありがとう』『あたしを信じてくれてありがとう』──と。
空乃にも同じことができたなら、今、こんな具合に心の内の虚無に苦しむこともなかったのだろうか。
作業場を出ようとした拓が、あ、とつぶやいた。
「『ばれた』で思い出しましたけど……。高山先輩、アレのこと、まだ明かしてないんですか」
「え」
すばるの声が不自然に固まる。何気なく振り返った歩美は、そこでようやく、拓の視線がすばるではなく歩美を射ていることに気付いた。
「あははー。じ、時期、逃しちゃったなーって」
「さすがに先輩が可哀想ですよ」
拓もすばるもおかしなことを言う。歩美は恐る恐る、口を挟んだ。
「……何の話? “アレ”って?」
もしかしなくても、また隠し事か。歩美の目が落胆の色に濁っていくのを察知したのか、すばるは焦ったように両手を振ってみせる。「ち、違うよ! そんな大したことじゃないし、その」
「CAPASの本体、実は回収されてるんですよ」
拓があっさりと続けた。
言葉の意味が一瞬、分からなかった。実は、回収──?
沈んだのではなかったのか?
唖然とする歩美とすばるを前に、あーあ、と大袈裟に拓はため息をついた。「電装班の人たちも意地悪ですよねー。『羽沢先輩との面白い会話が録れてるかもしれない!』なんて理由で回収を隠匿するなんて」
「……すばる?」
歩美は精一杯の低い声で尋ねた。たちまち、すばるの視線が作業場の中を超高速で飛び回る。
「いや違う! 違うの! CAPASは飛行記録装置の役割も兼ねてて、来年以降のフライトに活かせるように今回の飛行データを回収しようとしただけで……だからそんな怖い顔しないでってばっ」
「つまり、墜落の衝撃で脱落したっていうのも、駿河湾の海底に沈んだっていうのも、嘘?」
「……ごめんなさい嘘です」
すべてカバーストーリーだったというのか。頭が、痛い。
視界の隅で拓が必死に笑い声をこらえている。目に力を込めると、歩美よりも肩を小さくしながらすばるは作業場の端へ歩いていって、小さな箱を取り出した。
CAPAS、すなわち空乃の本体に相違なかった。
今にも全身が脱力してしまいそうだ。見たところ、箱の外装に損傷は見当たらない。そして先刻の話を聞いている限り、中身の記録や記憶はまだ、生きている──。
「で、でも、三鷹に戻ってきてからは記録データしかいじってないから、ソラノ本人がどんな状態なのかはうちらも知らないけど……」
後ろめたいことをしていた自覚はあったようで、そばのタブレットパソコンを手に取りながら、すばるは小さな声で申し出る。「……どうしよう。しゃべらせてみる?」
邪魔しないようにとでも思ったのか、拓はいつの間にかするりと作業場を抜け出していた。
ドアから吹き込んだ熱気が膨らんで、歩美たちの背中をそっと包む。迷わず頷きかけて、やっぱり少し躊躇って──それでも歩美は、首を縦に振った。気持ちがいっぱいいっぱいで、どんな感慨で頷いたのか自分でも分からなかったが、それでも。
「聞いてみたい」
「じゃあ、やってみるよ」
コードを接続したすばるが、スピーカーのスイッチを入れる。
途端、爆発音のような大音響のノイズが作業場に轟いた。「うわっ」と、すばるも歩美も反射的に耳をふさいでしまう。やっぱり壊れていたか。
だが、次に手を離した時。
『ん────っ、よく寝たぁ』
機内で聞き慣れたはずの無邪気な声が、歩美の耳を、脳を、心に空いていた虚を、あっという間に満たしていった。
動力担当、羽沢歩美。
操縦担当、空乃。
二人でひとりの操縦士の物語は、その翼を失ってしまった今もなお、ともに空を飛んだ記憶を失ってはいないようである。
以上で、本作「PILOTESS」は完結となります!
タイトルにも用いられた「pilotess」は、女性操縦士を意味する古典英単語です。操縦士・水先案内人を意味する「pilot」の複数形にもかけてみました。
動力を引き受ける歩美が操縦士ならば、自動操縦で機体を操る空乃は水先案内人でしょうか? 実は、本作に登場する人力飛行機『グロリアスホーク』の機体塗装は、水先案内人が乗船中であることを示す国際信号旗・H旗に由来しています。
機体や登場人物たちの名前など、他にも多くの小ネタを仕込んだ場所を用意しているので、もしも再び読み返していただける機会がありましたら、ぜひ着目をいただければ!
本作は、わずかな期間ではあるものの鳥人間チームに所属していた作者が、当時の経験を少しでも活かせたらと思って着想した作品になります。「しゃべる機体」そのものはすでに実現しているのですが、もしも人力飛行機に自動操縦機能が搭載されたらどうなるだろう……という発想から執筆が始まりました。
執筆にあたり、機体設計者やパイロットなど、実際に人力飛行機に携わっている数名の方々に取材協力をお願いしました。快く応じてくださった皆様、ありがとうございました!
空を飛ぶことへの憧れは、きっと地上を離れることのできない人間の性──。
いつか、誰もが気軽に宙を舞い、どこへでも向かえるようになる時代が来るのでしょうか。
そんな時にも忘れたくないものです。空を飛ぶことの心地よさと、恐ろしさを。
お読みいただき、ありがとうございました!
2017/11/11
蒼旗悠