PL011 海へ
プロペラが風を切る。唸るような回転音の中に感じるのは、前に進みたい、飛びたいという、機体の叫び──。
まだ幼かった頃のことである。人力飛行機が飛翔する姿を画面の中に目の当たりにするたび、懸命に回転するプロペラは何かを叫んでいるように見えたものだった。
今ならば、分かる。それは機体の叫びではなかった。他ならぬパイロット自身の叫びであり、文字通りの『足掻き』の証であった。
翼を広げて浮かび上がり、空気の海を泳いで進む人力飛行機は、今も歩美の憧れのまま。パイロットになりたい──むかし祈った遠い夢を、歩美はこうして現実のものにした。同時に、なってようやく新たに知ったこともある。それは、パイロットの背負う責任の重さ。幅三十㍍超の機体を飛ばすことの困難さ。
それらの苦痛を前にしていると、かつてパイロットになりたいと願った理由など、あっという間に忘れてしまいそうになる……。
フライト時間が四十分を突破した。
出力測定の計測タイムは一時間だったので、あと二十分で未経験の時間に歩美は突入することになる。
足と、脇腹。痛みが走っているのは意外にもその二ヶ所だけで、心臓などはそれほど痛くはない。過去にパイロットだった諸先輩から、そんな話を伝え聞いてはいたのだが。
(やり過ごせているっていうのが実情かな……)
今、こうして実際に漕いでみると、どうしてもそんな感想に至る。
特に不気味なのが足だ。痛いのみならず、時おり不穏な感覚が微電流のように流れ消えていく。それが何の予兆なのかを、すでに歩美は自分の身体を以て知っていた。
攣る予兆だ。
(四十三分経過、か──)
腕時計を一瞥し、水を含み、歩美は首を小さく振って前方に目を戻した。
そろそろ、何か起こってもおかしくない頃である。
「ペース、落ちてきて、ない?」
尋ねると、空乃がすぐさま回転数変位のグラフを表示した。『落ちてはいるけど、心配ないよっ。高度は十分に保ててる!』
そうだろうか。高度の数値は今、五㍍にまで低下してきている。低空であればあるほど地面効果は大きくなるが、墜落のリスクだって高くなる。
ここまで来ると息切れも大敵だ。喘ぎの合間に、掠れた声で歩美は言った。
「やばくなったら、いつでも、言ってよね。あたし、ちゃんと、漕ぐから」
『アドバイスになるかは分からないけど……』
空乃の声色はあくまで長閑だ。『アユミ、漕いでる足元ばっかり見てない?』
なぜ、見抜かれたのか──。落ちていた視線を慌てて持ち上げた時、待っていたかのように空乃が続ける。
『せっかく飛んでるんだもん、空を眺めて楽しまなかったらもったいないよ!』
「そんな理由で……」
『忘れちゃダメだよ、アユミ。アユミはチームのためだけに飛んでるわけじゃないんだってこと』
初めて心臓に痛みが走った。そうだ、と口元を歪めた。
(あたしはみんなと、むかしパイロットになりたいって願ったあたし自身のために……)
だが、今の歩美には、素直に空の世界を楽しむだけの力はもう、残ってはいないのに。
脇腹の疼痛がいよいよ強まり出した。
──『失速してきてるぞ! 頑張れ!』
無線の向こうで清の檄が炸裂する。歯を食い縛り、返した。
「けっこう、痛い、っ」
『息を落ち着かせて! 左足を伸ばした時に呼吸するの!』
空乃の声が割り込んできた。左足を──? 言われるがまま、乱れつつあった呼吸のタイミングを揃える。
痛みがほんのりと和らいだ。
『脇腹の痛みの原因は横隔膜にあるんだよっ。そうすればちょっとはマシになるはず!』
「いやに詳しい、のねっ……」
息も絶え絶えになってきた。当たり前じゃん、と空乃は言い返す。
『ボクがついてる限り、アユミに苦しい思いなんてさせないよ。一緒に飛ぶのを楽しむんだもん!』
「もう……してる……」
初めて、空乃に弱音を吐いた。口に出してからその事実に気付いたが、撤回する元気も余裕も今はない。
さらに高くなった陽がフェアリングの赤い塗装を反射して、コックピット内は乱雑な青と赤と白のマーブルに染まっている。あんなに海、近かったっけ──? 寒気が瞬時に恐怖へ代わり、ペダルを強く踏み込んだ。
風切り音が大きくなったかと思われた瞬間。電撃のような痛みが爆発した。
「あっ────!」
──『どうした!』
無線が即座に反応した。歩美は叫び返した。「攣ったっ────!」
右足が燃えるような痛みに包まれている。速力がまた、落ちた。不安定に揺れる機体の中で、まだ動く左足を必死に回し続ける。
痛みのせいでまともに目も開けない。
「今の高度は!」
『三㍍! 二から五の間で推移してるよ!』
空乃の声色も懸命である。しきりに昇降舵を動かして高さの調整をしているのが、画面の端に何とか確認できる。
落ちたくない。
墜ちたくない。
まだ墜ちたく、ない──。
フライト開始から五十分以上が経過している。固く目を閉じたまま、歩美は死に物狂いでペダルを漕いでいる。自動操縦でなかったら、CAPASがなかったなら、こんな芸当はできなかった。
追跡するモーターボート群が左右に展開してゆくのが、ほんの一瞬、小窓から窺えた。
(嫌だ)
激痛の色をした息にまみれながら、訴えた。
(まだ落ちるもんか。ここから……っ)
この三年間、今日のためだけに努力を絶やさないで生きてきた。ひとりだろうと何だろうと、トレーニングを怠らなかった。そこに意地が混じっていたのは事実だと思う。それでも、それだけが歩美の仕事であり、任務であり、それを続けることだけが歩美の心を支えてきたのである。……そんなに簡単に取り落としてしまえるような努力は、積んでいない!
「動きなさいよ────っ!」
右足を思いっきり突き出した。機体が左右に激しく上下し、海が近付く──。
『無茶しないで!』
空乃の絶叫が耳を穿った。
「いま、無茶しないで、いつ無茶すんのよっ!」
歩美も負けじと喚いたが、空乃はすぐさま切り返した。『攣った足に無茶をさせたら壊れちゃう! 左足だけで推進できるところまで飛ぼうよ! それで十分だよっ!』
「だけど────!」
こじ開けた瞳が飛距離の数値を捉え、歩美は呻いた。表示された数値は十六㌔。足りない。これでは、足りない──。
機速が一気に落ちた。
水面すれすれを車輪が通過し、無線機から悲鳴が漏れる。波が激しいのか、プロペラの吹き飛ばした空気が舞ったのか。半透明の水飛沫がフェアリングに激しく飛び散る。
──『羽沢ーっ!』
「まだ────っ!」
渾身の力を込めた左足を送り出した。器用に動いた昇降舵が、ぎりぎりのところで機体を上に向ける。流れ去りざま、洋上の湿った空気が引き攣ったような笑い声を上げた。
満身創痍の歩美に、もはや余力は残されていない。
墜落は時間の問題となりつつある。
『アユミ』
空乃が、何事かを口にしている。
『ボクのこと、見えない?』
反応など返せるはずはなかった。強い痛みで固まりそうな右足を無視し、歩美は左足に全神経を集中させる。海が近い。波が近い。空乃はなおも、続けた。
『……見えないのは分かってるよ。ボクにだってアユミのこと、見えてない……。だけど分かるよ。アユミが焦ってること、痛みに耐えてること』
目尻に浮かんだ涙を振り払って、歩美は頷いた。心なしか空乃の声も、震えている。
『忘れないで。ここにボク、いるんだよ。アユミはひとりぼっちなんかじゃない。アユミが頑張り続ける限り、』
ふわり、機体が吹き飛ばされたように横へ流れた。警告音が鳴り響く。ディスプレイの片隅で激しく点滅する赤文字は、【強風注意】──。
『ボクだって機体を沈めたりなんかしない!』
気付いたときには機体の進路が十数度ほどずれていた。吹き寄せる強風を察知し、前方からそれを受けられるようにCAPASが調整していたのだ。
下からの力がコックピットを突き上げた。
凄まじい揚力で浮き上がった機体は、たちまち支えを失って急減速する──。今度は歩美が力を振り絞る番だった。
ペダルに全体重を押し付け、
「進っ、めぇ────ッ!」
機体が揺れた。続けざまに襲来した向かい風が、前傾姿勢になりつつあった主翼を下向きの力で強く殴ったのである。
歩美の抵抗は仇となった。プロペラの弾いた風は機体を推し進め、その先には、海面──。
足元で水が大爆発した。
濁流のごとき勢いで流れ込み、弾けた水飛沫が、刹那のうちにフェアリングを破壊した。木っ端微塵に砕けた赤白の発泡スチロールが宙を舞う。響き渡った破砕音は、次の瞬間には煮え立つような水音に置き換わって、もがく暇の与えられなかった歩美を額まで飲み込んだ。
CFRPの折れ曲がる音が聞こえる。
水中に没した視界の端を、大きな亀裂の入ったプロペラが横切った。
長い主翼が、桁が、渦を巻く水の中へ引きずり込まれてゆく。その景色にふと、空乃の声が重なって、泡になって、破れて、消えて──。