PL010 空へ
静岡県静岡市清水区、富士川河川敷の滑空場に鎮座する、人力双発プロペラ機『グロリアスホーク』。
その脇には何十人もの人々が集まり、これから始まる希代の挑戦を今か今かと待ち受けている。
目指すは多摩工業大学の学生チームによる、人力飛行機の日本最長飛行記録・四十九㌔の打破。航行補助・パイロット支援システム──CAPASをはじめとした多数の新機軸に彩られ、赤と白の艶やかな機体は凛として前方を見つめている。
今、そのコックピットにパイロットが乗り込んだ。
多摩工大初の女性パイロット、羽沢歩美。テレビカメラのレンズに背中を追われ、足早にペダルへ靴を装着した歩美は、ヘッドマウントディスプレイの電源を入れた。起動音とともに舵が左右へ動き、準備ができたことを内外へ示す。
「ボートの準備は完了、了解」
無線機に繋いだイヤホンへ応答したのは、機体設計者・南浦清である。電装班長・高山すばるはタブレットパソコンから顔を上げ、他の班員たちと頷き合う。
「CAPASの動作異常なし。地上との通信状態も良好だよ」
「沖合いに出たら無線交信しかできない。頼むぞ」
確認を取った清は、背後の腕章を付けた男たちを振り返った。報道関係者である。彼らの準備が整っているのを見て、代表・井口修平に連絡を回す。
「翼班、ペラ班、駆動班、コクピ班、電装班、全学生の待機よし。揃った」
──『やろう』
至ってシンプルな応答の中に、すべてを動き出させる力が込められている。清はメガホンを手に取った。
午前八時。海風のうなりが、いささか強くなった。
幅三十四㍍に及ぶ横長の主翼が、正面からの風をかすかに受けて機体を鳴らす。
こんな音がするんだ──。発泡スチロール製の狭いフェアリングに囲まれて、座面に腰かけた歩美は深呼吸をした。室温は、ちょうどいい。
「本番フライト準備!」
清が叫んだ。
今は不思議と焦りも、緊張も、恐れもない。機体確認の点呼が澄んで聞こえる。
「コックピット(コクピ)傾き補正!」──「OK!」
「機体方向修正!」──「OK!」
「翼バランス調整!」──「OK!」
「昇降舵、方向舵!」──「OK!」
「パイロット!」
プロペラを少し回して、渾身の力で返答した。「OKです!」
左右のプロペラが軽やかに空を切り裂く。足が、軽い。これならいけると思えた。
「CAPAS!」──「OKだよ!」
「正面からの風!」──「一・二!」
「後方からの風!」──「ほぼ無風!」
「キャリアー離脱!」
応答が途切れた。主桁を支えていた台が外れ、『キャリアー』の仲間たちとともに機体の脇へ抜けてゆく。いま、機体を支えているのは、主翼両側の支持棒を持つ『ウイングランナー』と、主桁後方を手で持って離陸を支える『プッシャー』数名だけ。
「発進準備完了!」清が怒鳴った。「いつでも行けるぞ!」
「ペラ回しま──すっ!」
今さら覚悟を固めるまでもない。ふっと吸い込んだ酸素を足へ送り込み、歩美は思いきりペダルに力をかけた。
左右のプロペラが力強く回り始めた。
もう、この二つが止まることはない。どこかに着水するその瞬間まで。
鋭いプロペラの回転で揺られた空気の発する低音に合わせ、ディスプレイに表示された回転数グラフが上昇してゆく。空乃が報告の声を上げた。
『発進可能だよ!』
「行きます! 3、2、1、」
一気に踏み込んだ。見納めのつもりで周囲を見回し、──自然と笑みが漏れ、そのまま最後の一言を放つ。
「ゴ──────!」
ぐわんと機体が揺れた。後方からの力強い推進を受け、『グロリアスホーク』は離陸滑走を開始した。
景色が左右へ飛ぶように流れていく。アスファルトを蹴る振動が、恐ろしくて、心地好い。歩美はペダルに乗せる力をさらに強めた。離陸の瞬間までは、この力や速度が必要になる──。
滑走路端が見えてきた。
空乃が、叫んだ。
『VR突破! 機首上げます!』
「機体離せ────ッ!」
号令とともにランナーたちが離脱。次の瞬間、揚力を得た機体はふわりと浮き上がったかと思うと、一気に数㍍近くの高さまで舞い上がった。
滑走路が、遠い。
『対気速度低下に注意して! 安定飛行に移るよ!』
空乃の警告を待つまでもなかった。持ち手を握り直し、歩美は怒鳴った。
「了解!」
午前八時三分。
人力飛行機『グロリアスホーク』は、富士川滑空場を予定通りに離陸した。
あっという間に滑走路の景色を踏み越え、海上に飛び出す。陽光に照らされた青と白のコントラストが、時間の流れを可視化するかのような風情で足元を流れ去る。耳元のヘッドフォンから無線の音声が入った。
──『追跡を始めるよ!』
──『しっかり見てるからな!』
側面の窓に映るのは、白波を蹴散らしながら機体を追いかけてくる三、四艘ほどのモーターボート。あれね、と無言の確認に唇を濡らして、前を向いた。
空に浮かんでいる。
間違いなく、飛行している。
『風が気持ちいいねー!』
空乃が朗らかな声を弾けさせた。『弱い向風、好条件だね! このまま続いてほしいなぁ』
「そうね。このまま」
額に滲み始めた汗を拭って、答えた。
海面から十㍍ほどの高さを、『グロリアスホーク』はゆったりとした勢いで飛んでいる。対気速度は秒速五㍍半。理想的な数値が、きちんと維持されている。
地図出して、と空乃に指示を発した。画面に表示されたのは駿河湾の地図である。南南西やや南寄りに向かって飛行する『グロリアスホーク』の現在位置が、富士川の河口から少し離れた地点にプロットされている。
「このまま飛ぶと伊豆半島か……」
つぶやくと、空乃が応じた。『およそ五十数㌔先で、伊豆半島西岸の松崎町近海を通過するよ! 途中、フェリーの航路を横切るから、衝突しそうなら迂回するつもり!』
そんな先まで飛べたなら、どんなにいいだろう。
「OK。各時間ごとのフェリーの航行地点、調べられる?」
『もちろん読込済み!』
さすがの有能さである。答える代わりに前を見据えて、よし、とペダルを踏み込んだ。
出力測定では最大一時間までしかペダルを漕いだ経験はない。自転車とは漕ぐ感覚が異なっているから、あちらでの経験がどれだけ通用するか──。分からない限りはやってみるしかない。
それだけの覚悟は決めてきたつもりだった。
青い。
蒼い。
視界を埋め尽くす空と、海と、遠方に霞む蜃気楼のような山々とが、どこまでも青い。
TFでは感じることのできなかったスケール感に、歩美の身体は未だ順応し切っていないようだ。離陸の瞬間から立ったままの鳥肌をそっと撫でて、宥めようとしても、いっこうに治ってくれる気配はない。
フェアリングの隙間から吹き込んだ潮風で、コックピットの中の空気は心なしか、べたついている。
(汗に包まれてるみたいだ)
ペダルを漕ぐ足が滑りそうになって、思った。ペダルと靴はしっかり連結されているので外れることはないけれど、ともすればペダルや靴もろとも足がどこかへ飛んでいってしまいそうで。
それほどの解放感なのである。
柵のない空を飛ぶということ。それは、重力以外のあらゆる呪縛から解放され、思い通りの道を描いて歩むことができるということ。──願う限りは、どこまでも。
無線に声が入った。
──『羽沢、調子は?』
地上で離陸を見守った清たちが、船で追い付いてきたようである。歩美はマイクを口元に寄せた。離陸からまもなく、十五分。
「そんなに、悪くない」
──『暑くないか。乾燥が気になるようなら水分補給も忘れるな』
「忘れてないわよ。ついさっき、ちょっと含んだところ」
そうか、と答えが来た。安心したのか張りを欠いている。
このまま心配をかけることなく、記録更新に至りたいもんね──。
少しばかり、微笑む余力ができた。
地面効果と呼ばれる物理現象がある。翼と地面、もしくは水面との間の気流の変化により、低空を飛翔する航空機が航空と比較して大きな揚力を得られるというものである。
翼が揚力を生むためには、それなりの速度で飛び続けなければならない。しかし地面効果を併用することができれば、必要なエネルギーは相対的に見て小さくなる。地面効果の利用は、人力飛行機では必須の航法なのだ。ハクチョウのような大型の鳥も地面効果を使って飛んでいることが知られているので、同じことをする人力飛行機はまさに『鳥人間』であろうか。
アスペクト比の大きい、すなわち異様なほどに細長い形の主翼にも、抵抗を最小限に留めながら莫大な揚力を生み出す効果がある。もちろん設計の段階から盛り込まれている特徴である。
すべては、パイロットの体力を温存し、引いては航続距離を延ばすため。
少し、暑い。水のホースに指をやって、呼吸の合間に口腔を潤した。
ほぼ直上から当たる八月の日差しは、辛うじてフェアリングに遮られている。それだけでも救いだと思うべきか。
「はぁ、はぁ」
息も段々と上がってきた。
経過時間は間もなく二十五分。空乃が、尋ねた。
『一休みする?』
「滑空じゃ数秒も持たないでしょ。大丈夫」
『でも、けっこう苦しそう』
「まあね……」
答えて、笑った。苦しいわけではないのだが、どちらかというと回し続けた足が痛い。乳酸が順調に蓄積されていっているのをひしひしと感じる。
これだけ漕いで、どれほど距離を稼いだのだろう。
「今、いくつ?」
空乃が地図を表示した。『八㌔来たよ!』
駿河湾の洋上に浮かぶ赤い点が、『グロリアスホーク』の現在地点である。八㌔という距離は、多摩工大の人力飛行部始まって以来の最長記録だ。それだけではない。
『女性パイロットの世界最長飛行時間って、三十七分なんだって! あと十二分でアユミが更新することになるよ!』
「なら、頑張らなきゃ、ねっ」
空乃の嬉しそうな声色に背中を押されて、歩美の足から痛みが僅かに吹き飛んだ。吹き飛んだその分だけ、ペダルを踏み込む。
風が引き裂かれる音が鳴っている。
『グロリアスホーク』は今もなお、墜落する様相を見せない。
天候にも恵まれた。向かい風は弱く、心地のいい快晴。湾内であることも手伝って、波はほとんど立っていない。人力飛行機の飛行条件には最適である。
後方から追跡する五艘のボートには、報道関係者が同乗している。鳥人間コンテストへの出場ができなくなったことで、誰からも注目されないまま『グロリアスホーク』は沈む運命になるかと思われたけれど、それもどうにか回避できた。
コンテストと違い、駿河湾を一直線に横切るフライトコースでは、折り返しのような余計な動作をする必要はない。──仮に必要になったとしても、CAPASが自動で行ってくれる。歩美はただ、黙々と漕ぎ続ければいいのである。
だから。
絶対に着水などしない。したくない。
(落ちることなんてない。誰が何て言おうが、ないんだから──)
いつもの暗示をかけるように、歩美は自らの足をそんな台詞で叱咤した。
三十三分を越えた。地上からの無線が、叫ぶ。
──『聞いたか羽沢! もうすぐ、お前が世界一長く飛んだ女性パイロットになるんだぞ!』
「聞いたよ!」
それだけ答えて漕ぎ続ける。今度は空乃が、へへー、と誇らしげに笑みを漏らした。
まだ終わってないわよと、釘を刺しておく。
「こんなもんで、満足、しないからね。まだまだ行くんだから」
『うん。まだまだっ』
答えた空乃が、不意に高度を下げ始めた。機体が前のめりになったかと思うと、水面ぎりぎりまで接近して再び舞い上がる。
「ちょっと、今の──」
『空を飛ぶのって楽しいもんね!』
対気速度のグラフが、急上昇と急下降の山を描いてしまった。再び安定した機内に、ひとり言のような空乃の言葉が反響した。
『このままずっと、ずっと……楽しい時間が続けばいいのになぁ』
珍しく、控えめな音量の声だった。
あの急降下は空乃なりの興奮の発露だったのだろう。歩美は唇を結び直し、またペダルにかじりついた。増してきていた脇腹の痛みが、コックピットの中に溶けた。