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PILOTESS  作者: 蒼原悠
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PL009 誓い





 深夜に、目が覚めてしまった。

 蒸し暑い。湿度はエアコンで管理しているはずなのだが、身体のそこかしこから侵入する違和感のせいで、どこかへ行った睡魔がちっとも戻ってこない。

(慣れないベッドのせいかな……)

 寝返りを打って天井を眺めた歩美は、嘆息した。ひとり暮らしの生活を始めた時も、似たような感覚を味わったのを、身体がまだ覚えている。原因になったのはどんな要素なのだろうか。

 不安では、ない。

 この期に及んで不安なんて持ってはいない。もちろん必要最小限の心配はしているけれど、それと不安とはまた、別だ。

 喉が渇いた。ベッドから起き上がって冷蔵庫に向かい、ペットボトルを手に取る。何となく窓の外を窺いたくなって、薄いカーテンを静かに払った。富士川駅前の東口に立つホテルの一室からは、きっと昼間ならば優雅に流れる富士川の姿を目に留めることができたのだろうが、丑三つ時をも過ぎた今は、静かな水の音さえ耳に入ってくることはない。……代わりに水を口に含んで、飲み込んだ。

(明日、あたし、飛ぶんだ)

 窓枠を掴みながら、思った。

(怖いくらい実感がないけど。……今までの先輩たちも、こんなだったのかな)

 そうであってほしいと願いつつ、先輩たちと自分では境遇が違いすぎるなと冷静になりつつ。ペットボトルを冷蔵庫に戻して、伸びをする。

 どうせ眠れないのなら、散歩にでも行ってみようか──。

 不意に思い立った。コンビニにでも向かう名目で外出して、そのまましばらく時をやり過ごせばいい。そうすればじきに、睡魔も歩美のもとへ帰ってきてくれるだろう。

 そっとカーテンを引き、玄関で靴を履いて、外へ。エレベーターで一階まで降りて自動ドアを潜ると、部屋の窓に遮られて感じられなかった夜の涼しさが爽やかに肌を撫でた。

(どこ、行こう)

 迷うこと数分。気の向いた方へ向かうことにして、右へ折れた。




 歩美に不安はない。

 練習だってあれだけ積んできた。

 空乃との話し合いを重ねて、ペース配分の調整だって自在にこなせるようになった。

 フライト中の『グロリアスホーク』を預かるパイロットとして、過不足ない力を蓄えてきた。みんなからも認めてもらえている。この三年間、自分にできる努力はすべてやってきた自負が、歩美には確かにある。

 ──それ以外のことについても、もう、募っていた不安を忘れられるように努めてきたつもりだ。


 あたしは飛べる。あたしたちは、行ける。

 無人のアスファルトを踏みしめながら、呪文のごとく繰り返した。自己暗示というのは案外侮れないものだと、少なくとも歩美は思っている。

 足が自然と滑空場の方へ向かっていた。点々と続く街路灯の先に広がる空は、まだ、暗い。どれほど待てば朝が来るだろう。

 どれほど待っても答えのない問いがあったことを、黒々と冷たい空の中に思い返した。

(ソラノのこと、結局一度も聞けなかったなぁ。あたし)

 あはは、と笑ってみた。掠れた笑い声はたちまち、宙に発散して消えた。

 もっと歩美の方から、正面切って疑問をぶつけてみるべきだっただろうか。どちらにせよ後の祭りだ。それに、教えてくれなかったというのはつまり、教えなくとも歩美のフライトには影響がないと判断されたということ──。

「そうだよね」

 口に出して確認した。「そう、だよね」

 真相が何であれ、今、歩美の心は割と落ち着きを取り戻してきている。本番準備のためにばたばたと多忙な時間を過ごしているうちに、そんなことに思いを馳せる余裕など、どこかへ取り落としてしまった。

 歩美は歩美に与えられた責務を、きっちりとこなすだけ。

 それでいいのである。

 とぼとぼと歩いているうちに、滑空場の入り口まで来てしまった。長い滑走路を覗き込む。野営のランタンがいくつも輝いているのが見え、その隣には組み立ての済んだ『グロリアスホーク』が巨大な主翼をゆったりと広げていた。その脇で警備のために立っているのは──シルエットからして拓か。

 歩美は拓のもとへ近寄った。

「おはよ」

 拓が肩を跳ね上げた。「せ、先輩? なんで?」

「ちょっと、起きちゃってさ」

 照れ笑いのつもりで口角を上げると、拓はほっと息をつく。彼なりに緊張しているらしい。

「びっくりさせないでくださいよ……。けっこう心細いんですよ、この仕事」

 無理もない。不測の事態が起きて機体が被害を負いでもしたら、フライトどころではなくなってしまうだろう。

 ランタンの灯りに照らし出され、そこかしこに設置された木製の台に体重を預けながら、『グロリアスホーク』は無言で夜明けを待っている。光沢を放つ赤と白のフェアリング、二つ並んだ鋭い切っ先のプロペラ、真っ直ぐに機体を貫く主桁。この出で立ちに憧れて、ともに空へ上ることに憧れて、今日まで来た。

(……そういや、復帰してからのソラノとまだ、話してなかったな)

 何気なく思い至った。ちょうどいい、監視役を務めているのは話の通じやすそうな拓である。

 ね、と声をかけた。

「あたしがここにいるからさ。東台は寝てていいよ」

「とっ、とんでもないですよ」

 拓は両手を振った。「先輩は寝てなきゃダメじゃないですか。TFじゃなくて本番なんですよ」

「じゃあ、十数分だけで構わないから」

 歩美の意図を察したのか、今度は拓は反論しなかった。黙って頷いて、みなの眠る場所へ戻っていく。

 こういう時、話の分かる後輩がいるのはありがたい。拓はこれからも後輩として大事にしてあげなければ、と思う。つくづく。


 さて──。

 コックピットの扉を開け、中からヘッドマウントディスプレイを取り出した歩美は、空乃のスイッチを入れた。

 一応、配慮の意識はあるのだろう。久々に間近で聞くあの無邪気な声が、いくらか控え目な声量で流れ出した。

『おはよう、アユミ』

「おはよ」

『ずいぶん早いね』

 誰もが同じことを気にする。腕時計に目をやって、歩美は答えた。

「緊張してんのかな。目、覚めちゃってさ」

『体調は大丈夫なの?』

 むしろ体調は万全すぎるくらいである。

 答えず、コックピットの隣に腰を下ろした。抱え込んだ膝にディスプレイを置いて、機体を見上げる。草食恐竜のようにおっとりした出で立ちの人力飛行機が、この高さから見ると猛獣のように見えなくもない。(ホーク)なのだから、猛禽か。

 その名前に(たが)わず、組み立てればいつ、どんな時も、誇り高い猛禽類のように威風堂々と翼を膨らませている。そうかと思えばひどく軽い調子で会話する。──『栄光の鷹(グロリアスホーク)』は昔から、そんな不可思議でアンバランスな機体だった。

「あんたってさ」

 歩美は膝に目を戻した。「変わんないよね」

『こないだシステム改修は受けたよ?』

「そうじゃなくて……。雰囲気とか、ノリとか。いつでも楽しそうだし、元気だし」

 えへへ、と空乃は笑う。

『みんなを笑顔にするためにアユミは頑張ってるんでしょ? だったら、ボクはアユミを笑顔にするために頑張らなきゃだもんね』

 以前は『快適な空の旅を楽しんでもらうため』などと言っていた気がするが、そちらの目的はどこへ行ったのだろう。込み上げた可笑しさを受け流せず、歩美も笑った。

 笑ったら、なんだか素直に尋ねられるような気がした。

「……で、どこまでが本物なの」

『何が?』

 空乃が尋ね返す。歩美はすかさず、言い換えた。

「本当は知ってるんでしょ。自分がこの機体に搭載されることになった、本物の理由。快適な空の旅がどうのこうのとか、そういうのじゃなくてさ」

『…………』

「これだけの手間をかけて整備されてるあんたが、笑顔がどうとか、快適さがどうとか、そんなことを求められてる存在なわけないじゃん。本当はちゃんと理由があるのよね。お節介な性格にも、しゃべりたがりな性格にも、その無駄に賑やかで快活な性格にも」

 空乃は黙ってしまった。

 小さく、小さく首肯して、歩美は空を振り仰ぐ。

 ──言いたいことを言ってしまったらすっきりした。別に、答えを求めたわけではない。誰かに胸のうちの疑問をぶつけてみたかっただけなのだ。

「──なんてね」

 だからおどけて、誤魔化した。

「最後のフライト、頑張るわよ。あんたも──」

 突然、膝の上のディスプレイに光が宿った。フライト中の各種諸元表示状態になっている。かと思うと、その中央に黒い枠が現れ、その下にシークバーが出現した。

 こんなものを見たことはない。

「ど、どうしたのよいきなり」

『見せたいものがあるの』

 どもってしまった歩美とは対称的に、空乃の声は沈着だった。

『心配しないで、ただの動画だから。こないだのアップデートの時に収録されたものなんだけどね』

「動画……?」

(ユーザー)(インターフェース)の改修に(かこ)つけてアップデートしたけど、ぶっちゃけこっちが 本命なんだよね──って、すばるが言ってた』

 システム改修の詳細をすばるに聞かされた時、そんなものの話は出なかった。そんなに重要な代物を、なぜこんなタイミングで……。ともかくディスプレイを手に取って、再生ボタンに指を伸ばす。

 空乃からの返事はない。それがゴーサインだと思って、触れた。


 見慣れたはずの作業場の風景だった。画面右下に映っているのは、撮影日時か。最後の出力測定の日のものだと気付いた時、画面内に三年生の部員たちが一斉に顔を覗かせた。思わず、うわ、と口にしてしまった。

──『……ちゃんと映ってるんだろうな、これ』

 ぼそっと言い放った清に、画面の外から空乃の声が返事を寄越す。『ばっちり!』

──『あー、それならいいや。……うん』

 清は咳払いをして、微笑を浮かべた。

──『羽沢。お前がいつ、どこでこれを見ているのか俺たちには分からないが、たぶん本番フライトよりも前だろうと信じて、このビデオを回そうと思う』

 堅いんだよ清は、と笑い声が上がった。後ろから小突かれた清が痛そうな顔をするのを、歩美はただ、黙って見つめていた。

 あの日、清が出力測定を途中で抜け出したのは、これを撮影するためだったのか──?

 清は再び、咳払いをした。

──『謝りたいことがある。何の相談もせず、勝手にソラノの開発と搭載を決定してしまったこと。……悪かったと思ってる』

 返答が思い付かない。だが、と清が続ける。

──『ソラノ開発の理由を聞けば、きっとお前は反対……いや、遠慮するだろうと思ったんだ。俺だけじゃない。全員の見解が、そう一致した』

──『ソラノはね、歩美をひとりぼっちにしないために作ったものなんだよ』

 脇に進み出てきたすばるが、照れ臭そうに後を接いだ。

 まるっきり、初耳であった。『場合によっては手が離せないこともあるかもしれないじゃん? そんな時、言葉で状況説明とか指示をしてくれる存在がいたら便利だろうなって思って』──以前はそう言っていたではないか。

(あたしが、ひとりぼっち)

 そんなわけないじゃんと叫びかけて、ここで叫んでも仕方のないことに思いが至って、それでも黙って従うこともできずに歩美は口をぱくぱくさせるばかりだった。思い当たる節など、掃いて捨ててもまだ余るほど足元に転がっていた。

 すばるはそっと、目を閉じる。

──『ちゃんと見えてたんだから。鳥コンに落ちて、うちらみんなが泣いてた時、歩美だけはそうじゃなかった。歩美は、我慢してくれてたんだよね。あたしだけは頑張り続けなきゃって、みんなが廃人みたいになってる間も毎日のようにトレーニング、続けてたじゃない。いつも、いつも、たった一人で……さ』

──『うちの機体じゃ、搭乗できるパイロットは必ず一人だけ。パイロットは孤独なもんだって、昔から相場が決まってる。……でも、俺たちはお前のことを、ひとりぼっちにしてやりたくなかった。せめて話し相手になれるような相棒を用意してあげたい、ついでにそいつが操縦の一部を肩代わりできたらいい──。そんな話になって開発されたのが、空乃(そいつ)なんだ』

「なんで…………」

 ぽつり、言葉が漏れて落ちた。呼応するように清が、告げた。

──『頑張り続けるお前を見て、俺たちは落選の落胆から立ち上がれたんだ。墜ちていく俺たちを再び空へ向かわせてくれたのは──お前だったんだよ』


 鳥人間コンテスト出場の選考に落ちたことが通知されてから、一週間。無気力に堕ちたメンバーを横目に、歩美はトレーニングルームにこもって身体作りを続けた。誰にも弱音は吐かなかったし、吐けるはずもなかった。当然ながら作業場に顔を出すこともなかった。

 歩美の孤独な奮闘を最初に見つけたのが、拓であった。トレーニングルームで歩美の姿を見た拓は、たちまち作業場に戻り、その姿を話して聞かせたのだという。先輩の努力を無駄にしたくないです──。顔をくしゃくしゃに歪めながら訴えた拓を前にして、ようやく清たちは再起を果たしたのだ。

 そんな人力飛行部の面々にとって、数多のOBの助力を得て産み出されたCAPAS──航行補助・パイロット支援(・・・・・・・)システム『空乃』は、歩美への恩返しであり、歩美を孤独のままにしないための支えのつもりであったのだという。歩美のことを最もよく知る存在でもあるすばるが、『歩美がこのことを知れば辞退しちゃうと思う』という懸念を示したことで、歩美に対しては徹底的な秘匿が貫かれ、試乗会までの間にこっそり機体に搭載。そして、『鳥コンでは実施することのできない自動操縦機能の実験』という名目で、歩美の前に公開されたのである。


 画面に並ぶ仲間たちの姿が、ぼやけて鮮明に見えない。歩美は今や、鼻を啜りながら、時おり拳を握り締めながら、ビデオに見入っていた。

──『羽沢は、真面目だからな。誰かがそばにいられなくても、ひとりで頑張れるやつだと思ってる』

 清の声は優しかった。

──『でもな。お前にもきっと幾つもの悩みや不安があるだろうし、そんなものまでひとりで抱え込んで欲しくはないんだよ。空を飛ぶ不安、俺たちが何をしているのか分からない不安……。そういうものを気軽に話せる相手になる役割を、俺たちはソラノに求めたんだ』

「そんな……今さら……っ……」

 声が掠れてノイズのようになってしまう。拭っても拭っても溢れるモノを前にして、歩美には画面を必死に見つめ続ける以上のことは叶わなかった。

──『今までひとりで頑張らせちゃって、ごめんね』

 すばるの顔が、身体が、波に揺られたように歪んで膨らんで、その声までも湿らせる。歩美は唇を噛んだまま、首を振った。

「……そんなこと……言わないでよ」

 歩美の声は、すばるたちには届かない。

──『でもさ、忘れないでよ。うちらはみんな歩美の仲間(チームメート)なんだってこと。これまでだって、泣きたい時も寂しい時もきっとあったんでしょ? たまには頼ってくれていいんだし、不満とか不安とか打ち明けてくれていいんだからね。……せめて、海に着水した後くらいはさ』

 嗚咽が野営のキャンプに聞こえていないか真剣に心配になってきた。拓には勘付かれてるかな、と笑った。

 気付かれてもいい。

 本当は誰かに気付いてほしかった。

 たったひとりで空へ旅立つ恐ろしさ、先の見えない怖さに震えていることに、気付いてほしかった。

──『色々、あったけどさ。多摩工大人力飛行部のパイロットとして頑張ってきてくれて、ありがとう』

──『羽沢は俺らの希望なんだよ。冗談抜きでさ』

──『幾らでも遠くまで行っちゃっていいからね。どこまで飛んでも、船に乗って追いかけるよ』

──『帰ったら打ち上げで美味い酒、飲もうぜ!』

 黙っていた他のメンバーたちも、口々に言葉をかけてくれる。まともに返す言葉も思い付かず、痛む目尻をこするばかりの歩美の前で、

──『ソラノと一緒に日本記録、更新するぞ!』

 清の声を最後に、動画の再生は終わってしまった。


 歩美はそれからもしばらく肩を震わせていた。

 海沿いの風は涼しすぎる。塩辛い空気の中で、あ、と空乃がのんびりした声を出した。

『夜が明けそうだね』

 ぐいと涙を拭って、歩美も空を見上げた。東の際が白み始めている。

「……あれが見えるの、あんた」

『ボクに目なんてないよー。日の出の時間が近いから、言ってみただけ』

 えへへと空乃は無邪気に笑った。『ね、どう? 当たってる当たってる?』

 センチメンタルな場の空気をそっとしておくという配慮は、やっぱり空乃に期待してはいけない。歩美は、嘆息した。

 空乃の性格も考え方も価値観も、この数ヵ月でずいぶん理解が進んだ。

 空乃は歩美のことを、歩美は空乃のことを、チームの中でも別格級によく知っている。──そして今日、新たな真実を知った。空乃が生み出され、歩美のフライトを支えるに至った経緯を。

「ねぇ。覚えてる?」

 膝を抱えて、尋ねた。足元を涼しい風が吹き抜けた。

 ざらついたアスファルトの上を一通りさらった早朝の風は、長い長い道の上を遠ざかってゆく。戻ってきた静寂の中に、

『何を?』

 空乃の疑問符が、重なった。

 艶を放つ赤白のフェアリングを撫でながら、歩美は答える。

「あたしとソラノが、今日まで一緒にやって来たこと」

『ボクは覚えてるよ』

「だよね。……あたしたち、頑張ってたよね。ちゃんと成果、出してきたよね」

『不安なの?』

 その問いには答えず、歩美はじっと黙ったまま、目を細めた。

 遥か彼方まで続くオレンジの中央線が、ここが滑走路であることを示している。その先には建物も、木々も、はたまた山も見えない。太い川の河川敷に位置するこの滑走路から飛び立てば、何の障害に出くわすこともなく、じきに海へと達することができるだろう。

 ポニーテールの髪が風に揺られる。そうだねと笑って、首筋を掻いた。

「不安なのかも」

『本番前なのにそんなに自信なくしてどうするのー?』

 冷えた静寂の中で、少し、身体を縮めた。「だって……」

 仲間たちの期待の、祈りの大きさを改めて思い知ってしまった今、そう易々と今日までの自分を認めてやることなどできそうもない。もっと走り込みをしておくべきだったか。もっと漕ぐ時の姿勢も研究しておくべきだったか。もっと──。

『大丈夫だよ』

 開いた扉の向こうから聞こえる声が、優しい。

 歩美は抱えた膝に顔を埋めた。五秒、十秒と時間を数えたところで、

『アユミは頑張りすぎなくらい頑張ってきたよ。ボクがいっぱい保証できる。それに……』

 畳み掛けるように空乃が笑った。『アユミにはボクがついてるんだから』

 ようやく、うん、と頷く気になれた。


 今なら、あの空の果てまでも。どこまでだって歩んで、走って、飛んでいける。

 その全能感に根拠を与えるだけのことを歩美は遂げてきた。そして、空乃やチームの仲間たちの支えがあってこそ、挑戦は実を結ぶ──。

 立ち上がって、黒々と輝く彼方の海を睨んだ。

「ソラノ」

『うん』

「遠くまで、行こうね」

『任せて!』

 空乃の返事に躊躇いはなかった。小気味のいいやり取りが楽しくて、それから少し、嬉しくて。

歩美はその場に立ち続けた。

 他の誰かが起き出してくるまで、愛機の隣にじっと立ったまま、朝の光に切り開かれてゆく夜空を見上げ続けていた。





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