脱走
私が彼に連れ戻されてから,もう5日たった。あの後,気を失った私を,彼は2人で住んでいたマンションまで運んできたらしい。彼の容赦のない抱き方によって,私は熱を出し,2日ほど寝込んでいた。
あの時の彼には恐怖を抱いた。しかし,嫌悪感はひとかけらも覚えなかった。痛みに涙しながらも,心のどこかでは愛する人に奪われたことを嬉しいと思う自分もいた。
たとえ,そこに愛が存在しないとしても。
しかし,恐怖の爪痕は残った。私は,目が覚めてから彼に触れられると無意識に震えてしまった。心と体の反応が一致していないことに戸惑いを感じた。彼は,私が震えたのを感じて苦しそうな顔をした。私に責任はないはずなのに,その顔をさせたことに罪悪感を抱いた。
彼は熱が下がってからも,外出を一歩も許さず,私は半ば軟禁のような状態に置かれている。彼が運んできたため,当然靴もないし,この家に置いていた私の私物は全て持って出た,財布も向こうのアパートに置いているので,脱出しようにも免許証も身分証もキャッシュカードもない。携帯も置いてきてしまった。おまけに彼が出かけるときは部屋に閉じ込められる。
「いい加減,外に出してください。」何度目かわからない頼みをしてみる。
「ダメだ,そんなことをしたらお前はまた俺の前から消えるのだろう?外出を許すわけにはいかない。」彼の表情は読めない。
「そもそも,どうして私を連れ戻さなければならなかったんです。もう私は用済みでしょう?こんなことをされる理由はないはず。」
今はただ,彼の真意を知りたい。
私を大切にしてくれた過去の彼は偽りだったのだろうか。少しでも心を許せると思っていた私が馬鹿だったのだろうか。なぜ,私をわざわざ探し出したのだろう。実家に連れ戻すよう頼まれたのかしら。あの人たちなら私を再び政略結婚させることくらいするだろう。でも,なぜあんな風に私を抱いたのだろうか。そんなことをすれば離婚しにくくなるのに…。
いくら考えても答えは出ない。この問いに答えられるのは彼しかいないのに。
「…とにかくこの部屋から出るな。いいな!」カチャッという無情な音が響く。
「チッ,鍵をかけ忘れてくれたらいいのに。せめて彼のいない間に鍵を開けられたら,ここから脱出する手立てを探せるのに。というか,昼ご飯にカップ麺は飽きた。」彼が運んできた,水とカップ麺を眺めながらぼやく。わざわざ部屋にポットまである。連れ戻されてから,朝は近所のパン屋のパン,昼はカップ麺の生活だ。夜だけ彼がいるときは作らせてくれるのだが,正直カップ麺にはうんざりしている。栄養価を総無視しているこの商品は,おいしいが飽きるのも早い。
というわけで,私は脱出を試みることにした。この部屋は,廊下に続くドアと別に,隣の部屋に続くドアもあるのだ。廊下側のドアは外側からしか鍵がかけられないようにされている。もう1つのドアは,鍵は私の部屋の側からかけられるようになっていたのだが,もちろん没収された。割と簡単な鍵の構造になっているので,ヘアピンで簡単に開けられるのではないかと考えている。幸いにも,彼は化粧ポーチは渡してくれたのだ。鍵と対峙しながら,気分はちょっとした泥棒だ。一時期スパイ映画にあこがれて,こういう勉強をしたことがあるのだ。…誰にも言えないが。
数分格闘すると,カチッ小さな音がして扉があいた。よしよしと思いながら,隣の部屋に入る。
実は,この部屋は彼の部屋だ。同居してから初めて入った。
彼の匂いがする。柑橘系のようなさわやかな香りだ。物は少ないながら,服の散らばっているベッドや,書類の積み上げられたデスクにクスリと笑いが零れる。ベットボードまでたどり着いたとき,黒い革張りの日記帳を見つけた。
心臓が跳ねる。これがあれば,彼の真意を知ることができるかも知れない。そっと日記の最後,日付は一昨日になっているページを開く。
―――そして慌てて閉じた。
見えたのは1文,それでも私を凍り付かせるには十分だった。
そこには,「全てあの女のせいだ。」という黒々とした文字が書きなぐられていた。