臆病なライオン
家畜の糞を燃料代わりに燃やすことは、中世ヨーロッパでは本当にあったらしいですね。
それはそうと、連休がもうじき終わりだなんて、絶望しかない…。
「タルトス砦?」
翌日の朝食の時に聞かされたその地名を、俺はさも初耳であるかのような怪訝な声で聞き返した。
「はい。ここから徒歩で一日あまりの距離の、森の中にある砦です。普段は無人ですが、守護騎士の選抜過程では必ず使われることになっています。」
アンディの説明に、ふむふむという感じで頷いて答える。
「それで、そこに行って何をするんだ?」
「特に決まっているわけではありません。ただ、王城から離れた地に赴き、我々8名だけで数日を過ごすことで、神官様に我々の人柄や騎士としての技量を見極めて頂き、また親交を深めることで、守護騎士選定の一助にして頂こうということです。」
話を継いで理路整然と説明したルーファの言葉に頷く。その内容は、俺の記憶の中のそれと完全に一致していた。移動の時間も含むタルトス砦での一週間弱の日々は、ゲームの中でも重要なイベントの一つだった。ルート分岐も多く、ここでの選択肢によって攻略対象キャラの絞り込みが行われる。俺にとっても気を引き締めないといけないイベントだった。
難しいのは、ゲームで得た知識があまり活用出来ないことだった。当たり前とはいえ、騎士達の俺に対する反応や言葉は、ヒロインに対するそれとはかなり異なる。攻略したいと思う相手がいて、そのキャラクターのルートを覚えていても、その知識が大して役立たないのだ。
俺はこの時点で、守護騎士候補をほぼアンディに絞っていた。アンディは元々、ゲームをプレイしていて最初に気に入ったキャラで、最初にクリアしたのもアンディルートだった。明るく優しく誠実な人柄はヒロイン限定では無かったようで、ゲームの世界に召喚されるという想像もしなかった事態に戸惑って不安を募らせる俺にアンディは優しく声を掛け、持ち前の明るい笑顔で元気付けてくれた。別に男が好きというわけでは全く無いけれど、アンディには背中を預けられる、全幅の信頼を置けると感じていた。
もちろん、アンディにも俺の知らない面が有るだろうし、他のキャラクターに関してもそうだ。だから見極めたいとは思っていたが、そうは言っても、俺の心はほとんど決まりかかっていた。そんな俺にとって、自分の決心を固められるこのイベントは、まさに渡りに船だった。
「たまには城から出るのもいいな。いつからだ?」
「明日の早朝に出発です。準備は全て我々の方で致しますが、もし何か必要なものがあればお申し付け下さい。」
ルーファの言葉に頷きながら、記憶のぼんやりした部分を精査して、これから起こることを思い浮かべる。なんでこんなことになったのか未だに分からないままだけれど、ともかくゲームのシナリオをクリアするために、最善の努力をするしかなかった。
男の俺が乙女ゲームの美男子を攻略するなんていう、悪い冗談みたいな状況で必死になっている理由。それはこのゲームにはバッドエンドがあるからだった。
このゲームのヒロインである鳴海アスカは、故郷から隔絶された異世界で、見知らぬ騎士達と重要な儀式を行うという、普通の高校生の女の子には重すぎるプレッシャーと戦いながら、騎士達の一人と互いに惹かれあい、過酷な運命に翻弄されながら、無事に儀式を終わらせる。そして、悩んだ末に、愛する騎士とともにこの世界に残ることを選択するのだ。
男の俺が儀式を成功させた場合、その後の展開がどうなるのかはよく分からない。ただ、目下の問題はもっと別のところ、つまり儀式に失敗する可能性だった。
ゲーム中でも、誰かと深い関係を築けなかった場合、儀式に失敗してしまう。その場合、共に儀式に臨んだ騎士を含む守護騎士候補達は全滅し、世界は闇に覆われてしまう。ゲーム画面には、ヒロインが泣き崩れるイラストをバックに「BAD END」と浮かぶという、何とも後味の悪い結末だ。しかもゲーム雑誌のインタビューによると、バッドエンドルートではヒロインの魂は永遠に闇を彷徨い続けるらしい。絶対に避けたい展開だ。
そんなわけで、この世界のために、騎士達のために、そして何より俺自身のために、俺は何としても彼らと関係を深め、心から信頼しあった騎士と儀式を成功させないとならなかった。
そんなことを考えながら城の回廊を通っていると、アンディが中庭に座り込んで真剣な表情で何かと格闘しているのが見えた。
「どんしたんだ、こんなところで。」
「あ、神官様。いえ、素振りをしていたら、柄の細工が崩れてしまいまして 。」
アンディ達7人の守護騎士候補達は、剣技と魔術の双方を高いレベルで習得している。戦う時は剣技と魔術を連動させて戦うことが多く、そのために彼らの剣には魔法石を使った複雑な細工が施されて、魔術の発動を助けるようになっていた。
アンディは素振りをしていたら、愛用する剣の細工が少し崩れてしまったようだ。手元に広げた図面を元に、魔法石の配置を元に戻そうと懸命に取り組んでいるが、なかなか上手くいかないようだった。
「どれ、貸してみろよ。」
そう言って、剣を受け取って細工に手を入れる。プラモデルで鍛えた腕のおかげか、すぐに剣は元に戻った。
「ありがとうございます、神官様!お見事でした。俺はどうも、こういう作業が苦手で…。」
頭をかきながら、申し訳なさそうに、少し恥ずかしそうにそう言ったアンディを見て、俺は少し意外に感じた。ゲーム中のアンディは、やや鈍感なところがあるとはいえ、騎士としての技量は抜群で、欠点はほとんど無いように思えた。それが、こんな意外な弱点があったなんて!
だけどそれは、考えてみれば当たり前かもしれない。ゲームのプレイ時間は、精々数十時間。個々のキャラクターと触れ合う時間は、その中の一部に過ぎない。対して俺は、まだシナリオ展開上は序盤と言っていいこの時点で、既に数百時間をこの世界で過ごしている。ゲームの中で見えなかった面を見つけたとしても、何も不思議ではないかもしれない。
アンディの意外な欠点。けれどそれは、むしろ俺のアンディへの好感を高める方に作用した。当たり前だけど、アンディだって感情があって、失敗もする人間だ。それでも、生来の優しさや明るさ、そして自分を律する強さで、誰に対しても親切に誠実に接している。そう考えると、アンディに対する信頼と好感は一層増した。
それにしても、と思う。一通りルートをクリアしたアンディでもこれなら、他の5人はもっと知らない面が沢山あるかもしれない。まだクリアしていないルートも幾つかあった。
アンディと別れて自室に戻る道すがら、まだ城内に不慣れで巨大な内部構造を把握できていない俺は、あまり人気のない一画に迷い込んでしまった。誰かに道を聞こうと扉の一つを開けると、確かに人の気配がした部屋の中には誰も見当たらなかった。様々な棚や台が並び見通しがききにくい室内を歩いていると、ガラクタのような剣や弓の間で、見覚えのある真新しい剣が目に留まった。
「これ、どこかで…?」
その剣に付いている紋章は見覚えがあった。そう、これは、クラウディアスの剣だ。なんでこんなところに、と思った時、部屋の奥で息を潜めている誰かの気配を感じた。
「そういうことか…。」
俺は思わず、小声で呟いた。つまりこれは、小学校の下駄箱の靴隠しのような、程度の低い嫌がらせだ。この部屋の奥に潜んでいる正体不明の誰かは、クラウディアスに嫌がらせをしようとしてこの剣をこの部屋に隠し、出ようとしたところで俺が入ってきたのだろう。
次の瞬間、これは返してやろうと俺は剣を手に取っていた。なぜ躊躇いもなくそう決意したのか、自分でもよく分からない。俺はあいつが心底嫌いだった。あいつがもっと酷い目に遭っても(実際、ゲーム中ではそうなる)、せいせいしたとしか思わないだろう。それでも、こんなやり方はどこか許せなかった。それは、あいつが酷い目に遭うことへの怒りというより、こういう卑劣で低次元な嫌がらせに対する嫌悪と反発からかもしれない。
そんなわけで、俺は次の瞬間、剣を手に踵を返していた。後ろの誰かが安堵したのが、はっきりと分かった。俺はその顔を確かめる勇気を持てないまま、小走りに来た道を戻った。
幸運にも、俺は迷わずに中庭に戻れた。中庭では、クラウディアスを除く6人の騎士が素振りをしたり稽古をつけたりしている。近くで素振りをしていたティトに声を掛けた。
「お疲れ様。みんな、いつからやってるんだ?」
「え…?そうですね、半刻ほど前からかな。」
俺の質問の意図が分からず戸惑いがちにそう答えるティトに、俺は勢い込んで尋ねる。
「みんなずっとここにいたか?いたよな?」
「は、はい、いましたけど…。どうしたんですか、そんなこと聞いて。」
困惑しながらも頷いたティトを見て、俺は思わず安堵する。生身の人間である以上、綺麗な感情だけでいられないのは当たり前だし、俺だって人のことは全く言えない。でも、ここにいる6人の騎士達に、こんな卑劣なことをする奴がいるなんて考えたくなかった。
「本当に、どうしたんですか、神官様。」
「いや、本当に大したことじゃないんだ。そうだ、クラウディアスがどこにいるか分かるか?」
怪訝な顔で話しかけて来たアンディにそう問うと、アンディは即答した。
「今朝は体調が優れないので、少し自室で休むと言っていましたが。」
「ありがとう!」
あまりあれこれ聞かれても面倒なので、言うと同時に駆け出した。後ろから何か聞こえたが無視して階段を駆け上がる。守護騎士候補達の部屋は、俺の、というか神官の部屋からほど近い一画に並んでいる。
「クラウディアス、入るぞ。」
そう言ってドアを開けた瞬間、俺は思わず立ち尽くした。空き巣にでも入られたような散らかった部屋の中で、クラウディアスが黙々と部屋を片付けていたのだ。驚いた顔で俺の方を見たその美しい翠の瞳は、確かに少し潤んでいた。
「これは、神官様。突然いかがなさいました?」
微かに声を震わせながらも、気丈にそう言ったこの美少年を前に、俺は思わず言葉を失ってしまう。それから、剣を差し出しながらおずおずと言った。
「えっと、これ。」
「これは…!!」
自分の剣を渡されて驚愕しているクラウディアスに、慌てて付け加えた。
「言っとくけど、俺じゃないぞ!城の反対側の部屋で偶然見つけたんだ。お前のだろうから、無いと困る思ってだな…」
「分かっております。神官様を疑っているわけではありません。第一、もし神官様が犯人なら、わざわざ私に直接手渡したりしないでしょうから。」
ひとまず疑われていないと知ってホッとしてから、改めて周囲を見回す。単に散らかってるだけではなく、妙な悪臭も漂っており、酷い状態だった。
「剣を探していた、わけじゃないよな。」
「朝食後に部屋に戻ったら、こうなっていました。剣もその時に。」
無表情にそう言ったクラウディアスに掛ける言葉が見つからず、ただぼんやりと部屋を見回す。奇妙な染みが目に付いた。
「何だこれ、泥か?この酷い臭いの原因もこれだな。何だこれ、どういうつもりだ?」
「神官様もご存知無いのですね。これは家畜の糞を乾かしたものです。」
「家畜の糞…?」
鸚鵡返しにそう尋ねた俺に、クラウディアスは遠い目をしながら答えた。
「はい。貴族や富裕な商人はともかく、貧しい庶民は高価な炭など買えません。王都の厳しい冬を乗り越えるため、家畜の糞を乾かしたものを炭代わりに燃やすのです。酷い臭いですが、それでも暖をとらねば生きていけません。」
「それは分かったけど、なんでそんなものを?」
わけが分からない、という顔でそう言った俺に、クラウディアスはどこか自嘲的な顔で答える。
「私は他の騎士の方々と違って、王都の貧民街出身ですから。貧民は馬糞の臭いのするボロ家に帰れということでしょう。」
その言葉を聞いて、俺は思わずあっと叫びそうになった。確かにクラウディアスには、貧民街出身という秘められた過去があった。本編中ではほとんど語られなかったけど、ノベライズ版では結構詳しく語られていたと結衣が言っていたのを思い出す。
それと同時に、俺は抑えきれない怒りが湧き上がるのを感じた。こいつが貧民街出身だからと蔑み、それだけでなく、最も嫌がり傷つくであろう方法で嫌がらせをする。それは、こいつの外道っぷりとはまた違う、人間の最も陰湿で嫌らしい側面の発露だった。
「…おい。それ貸せ。」
返事も聞かずに、クラウディアスが手にしていた雑巾を奪い取り、壁や床に付いた糞を拭き取り始めた。
「神官様、何を…?」
「何って、一人より二人の方が早く終わるだろうが。」
その言葉にクラウディアスはしばし絶句してから、なぜか泣きそうな声で言った。
「神官様は、私のことがお嫌いなのでは。」
「嫌いだよ。でも、だからってお前がこんな目に遭って喜ぶような下衆にはなりたくない。ほら、俺が掃除してやるから、お前はさっさと片付けろ。」
そう言って掃除を続けると、クラウディアスは俺につられるようにのろのろと片付けを再開した。無言で作業を続けていると、「ありがとうございます」という消え入りそうな呟きが聞こえた。その声は、ゲームの中で抱いていたイメージともこの世界に来てから感じた印象とも違う、こいつの本音が垣間見えるような声だった。
「俺はこんなやり方が気に入らなくてやってるんだ。お前のためじゃない。」
ゲームの中でこいつがやったことを頭に浮かべて、敢えて突き放すような言い方をする。こうでも言わないと気持ちが傾いてしまいそうだからだったけれど、そんな俺の心を知ってか知らずか、クラウディアスは飾り気の無い口調で答える。
「分かっています。それでも私は嬉しいんです。」
そんな殊勝なことを言われて、何だか目が合わせ辛くなる。しばらく黙々と作業を続けて、日が傾きかけた頃、室内は一通り綺麗になった。
「よし、こんなもんだろ。」
匂いもほとんど無くなり、染みも消えた室内を見回して、満足感とともに言った。
「色々とありがとうございます、神官様。剣のことも、部屋の掃除も。お陰で助かりました。」
「お前のためじゃないって言っただろ。」
俺の憎まれ口に、クラウディアスは「そうでしたね」と言って笑う。端正な顔立ちに浮かぶ、繊細で心底嬉しそうな笑み。それは、仮面を被ったような、表面的で本音の見えないこいつの普段の笑みとは正反対の、本心からの笑みに見えた。
いつもそういう顔をすればいいのに、と思ってから、慌てて首を振る。こいつの本性は狡猾で冷酷な外道なのだ。そう思いつつも、俺の口から出たのは別の思いだった。
「これからは気を付けろよ。今日のは本当に偶然の幸運なんだからな。」
「はい。ご忠告ありがとうございます。」
そう言って頭を下げたクラウディアスを見ながら、何気なく頭に浮かんだ言葉を口にする。
「ったく、一人で抱え込まないで誰かに頼れよ。あいつらなら嫌とは言わないだろ。」
何気ない俺の言葉にクラウディアスは固まってから、さっきまでの笑顔も穏やかな声も消え去って、冷たい顔と声で言った。
「そうですね、確かにアンディ達は嫌とは言わないでしょう。お優しい方達ですから、心から同情して哀れんで、協力して下さるでしょうね。」
「お、おい…。」
突然豹変したクラウディアスにどう声を掛けたらいいか迷っていると、目の前の美少年はきっぱりと言い切った。
「私はあの方達と違って実力だけで騎士になりました。この卑しい身にも矜持はあります。安っぽい同情を引いて哀れみを買うつもりはありません。」
「それは…悪かった。」
何気ない一言から始まった予想外の強烈な反応に、上手い返答が思い浮かばず、たどたどしくそれだけ言うことしか出来ない。何となく居辛くなって、じゃあ、と言って部屋を辞した。
「なんなんだ、あいつは。」
自室に戻る道すがら、思わず不満が口を突いて出る。半日もかけて汗だくになりながら部屋を掃除してやったのに!そこまで思ってから、あの強情な、ハリネズミのような表情を思い返して呟く。
「まるで臆病なライオンだな…。」
普段の計算高さや本心を見せない作り笑いとは正反対の、少年らしい(と言っても俺と同い年だが)意固地さを全開にしたあの雰囲気。それは確かに、俺が脳内でイメージしていたクラウディアスの姿とは、明らかに異なるものだった。何かを掴みかけて手放してしまったような少し空虚な感覚に捉われながら、俺は自室のドアを開けた。
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