始まり
目を開ければ、いつもどおりの天井が目に入った。
昨日の夕食の後、お風呂に入ってそのまま寝てしまったんだ。
『ロゴスさん、コメットさん……あたし、旅に出ます』
『―――強く、なりたいんです』
自分が発した言葉を思い出す。
いつもどおりベッドから降りて、いつもどおりの服に着替え、いつもどおり寝間着を洗濯籠に投げ込む。
……この『いつもどおり』の生活が、今日で終わる。
じわりと浮き出た涙を無意識に拭う。
あたしは今日、約十年間お世話になった家を出る。
★
ぎしぎしと軋む廊下を歩き、階段を降りリビングを覗き込む。
そこには、一人でもくもくとご飯を口に運ぶルディがいた。
いつもは、海に出て遅くまで帰ってこないロゴスさんを除いて、コメットさんとルディとあたしの三人で朝食を食べていた。
でも今日は、ルディだけがテーブルのいつもの席でご飯を食べている。
キッチンから音がしてるから、コメットさんが何かしているのだろう。
リビングの入り口で何も言わず突っ立ったままでいると、不意にルディがこっちを向いた。
ルディは目を見開く。しかし次の瞬間には柔らかく微笑んでいた。いつか見た、ガラス絵の女神の微笑みとよく似た笑みだった。
「カレンちゃん」
「おはよう、ルディ」
「うん、おはよう」
いつも通り。そう、いつも通りだった。
ルディの隣に座って、あたしのために用意されたご飯を食べる。
同じおかず。同じご飯の量。同じお皿の置き方。食べる順番まで、ほぼ同じ。
小さい頃に何かを教えてもらったときは、常にルディと一緒だった。
双子とまではいかなくとも、まるで姉弟のようだと思っていた。
何も言わなくても意思の疎通はできた。一緒に育って、一緒に事を成し遂げてきたから。いつも一緒だったから。
あの日母を殺され泣いていたあたしにルディが手を差し伸べてくれなかったら、今あたしは生きていなかったかもしれない。
初めの頃、あたしはルディを敬遠していた。両親がいて、頭を撫でられたり抱きしめられるルディが羨ましかった。嫉妬していた。
お母さんは殺されて、お父さんは今何処にいるのかもわからないのに。どうしてお前ばかりが、ずっとそう思ってた。あの時のあたしは、本当に子供だったんだ。
でも、顔を合わせて数秒で睨みつけていたあたしにルディは、根気強く話しかけてくれた。無視し続けても少しも気を害することなく、優しく接してくれた。
傷心したあたしにとって、ルディはまさに消毒薬のような人間だった。ロゴスさんやコメットさんは、絆創膏。
どんどん活気付いていってルディとも打ち解けてきた頃には、嫉妬も薄れていた。それでも時々、胸中がざわりとしたことはあった。
あたしは今、ルディと違う道を歩もうとしている。
昨日のお風呂で考えたのはその事だった。これでいいのか。本当に、これでいいのか?自分に問いかけた。問い続けた。
結果。
★
「……カレン、これを持って行って」
「おにぎり……。助かります、ありがとうございます」
オルブライト家の玄関にて。
コメットさんが差し出したまだ温もりの残るおにぎりを受け取って、手提げの中に入れた。
コメットさんの隣にいるルディは、あまり明るい表情をしていない。それどころか、時間が経つにつれてどんどん暗くなっているように思う。
暫くの間、沈黙が流れた。言うには、今しかなかった。
「ルディ」
「な、何?」
あたしが話しかけると、ルディは餌を与えられた犬のように勢いよく顔を上げた。
ずっと言おうか悩んでいた。でも、どうしても曲げられるものじゃなかった。もう覚悟は決まっている。
「あたしと一緒に来ない?」
「……え」
「あたしの旅に、あんたも」
急な申し出に、ルディは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
コメットさんが徐に家の中に戻っていく。それに気付かないほど、あたし達はお互いに一つのことに集中していたんだ。
ルディは迷っているみたいだった。両親を残すのが心配なんだろう。そうじゃなかったら、ルディはすぐに頷いていたはずだ。
……だって、昨夜あんなに付いて来たそうな表情をしていたんだから。
コメットさんは、すぐに戻ってきた。その手には、小さな袋と鞘に収まった剣が握られている。
「ルディ……私達の事は気にせず、行ってきなさい」
「お母さん……なんで」
ルディは泣きそうに顔を歪めた。
コメットさんは、そんなルディに荷物を半ば強引に手渡す。
「女の子一人で旅に出すつもり?お前も男の子でしょう。父さんには言っておくから、さあ」
次の街へ行くために通る森を指差す。
ルディはついに泣き出してしまった。静かに、ぽろぽろと雫を落として。
コメットさんが困ったように笑う。あたしは苦笑した。こんな時まで泣き虫なんだなぁ、と。
★
ルディが泣き止んだ。
ついにこれから旅に出るのかと思うと、気分が高まった。自然と、杖を握る手に力が篭もる。
あたしはルディと目を合わせると、オルブライト家に背を向けた。半歩ほど後ろに、ルディが後を付いてくる。
後ろ髪を引かれる気持ちで振り返れば、コメットさんが手を大きく振っていた。
それに二人して振り返して、今度こそあたし達は森の中に入った。
まだ旅は始まったばかりだ。