UML――Unidentified Mysterious Lily
〈UML――Unidentified Mysterious Lily〉
――俺は彼女に嫌われているのだろうか。
パンを片手に不吉な予感を抱き、小さく嘆息。
「はぁ……」
秋晴れの午後、学生たちが昼食をとりながら各々の会話に花咲かせる教室の片隅に、その人はいる。
対面する女子の言葉に相槌を打ちながら楚々と食事を口に運ぶ彼女。そのクールな後姿を眺めているだけで、俺は見惚れるあまり口元が緩んでしまうのだが――
「よく飽きないな、淀川」
「いてっ」
友人の心ない鉄拳に、俺は極楽からの脱落を余儀なくされた。まあ、側頭部を軽く小突かれただけだが。
一瞬で機嫌を損ねた俺は、弁当の箸を咥えたままの友人に鋭い眼光をぶつける。
「なにか悪いかよ」
「別に。でも、あいつは……」
俺の文句を聞き流すと、友人は彼女の背中を横目に、
「相澤由緒、高校二年生。無口、無表情、無愛想の三拍子が揃った、他の生徒から敬遠されがちな女子だ。基本的に他人との関わりを避ける様子から、同年代の学生を装ったなんらかの組織の一員ではないかという噂もある。そして――」
彼女のプロフィールを機械的な語調で――まるで文書を読み上げるように――淀みなく羅列していった。
その尋常でない情報量に胸中でドン引きしながら、俺は友人の台詞を遮って言う。
「でも、かわいいだろ。好きになる理由としては充分だ」
そう、俺は相澤に恋心を寄せていた。同じクラスにいながら接点は皆無だが、片想いするくらいは自由だ。
「まあ容姿がいいのは確かだけどさ、隣にあんな完璧美少女がいるんだぜ?」
苦笑して友人が指し示したのは、相澤に猛烈マシンガントークをぶちかましている少女だ。会話を交わしているのかすら疑問だが、相澤にそれを嫌がる素振りはない。
友人がまた説明口調になる。
「秋庭千代、同じく高校二年生。容姿端麗にして文武両道、まさしく絵に描いたような優等生だが、それ以上に気さくな性格が生徒たちの人望を集めている。また、数多くの男子生徒から告白をされているが、そのすべてを断っている。相澤とは中学校からの親友らしい」
「……さっきからどうした。気色悪いぞ」
「これが作中での俺に与えられた役割だからな」
「言っている意味がわからない」
いったい誰に向かって解説しているのか。
とにかく、と友人は肩を竦めて相澤の背中を半眼で見つめた。
「悪いことは言わないから、狙うなら秋庭にしとけよ。ま、そっちも競争率が高すぎて無理だろうけど」
その厭味ったらしい言葉にすかさず反論しようとして、気づく。
「……げっ!」
相澤の胡乱な視線が俺たちを射抜いていることに。
「や、やべぇって……まさかさっきの聞こえてた、とか?」
水浸しにされた子犬のように震え上がる友人を横目に、存外と俺は平静を貫いていた。一瞬だけ相澤と交錯した瞳をすっと逸らす。
俺は、相澤に睨まれることに慣れていた。
冒頭での嘆きもそれが原因だ。
相澤が俺を睨む理由はわからない。その視線を感じたのは俺が彼女に好意を抱いて以降なので、やっかまれている可能性も否めないのだが……深く考えるのはよそう。
まあその睥睨に込められた意味が嫌悪だったとしても、一度芽生えた恋心は萎えてくれない。
すっかり無言に支配された食事の席で、俺はまた、ほんの小さく溜息を吐いた。
片想いの恋路は険しい。
「……よし」
昼休みのことを、相澤に謝ろうと思う。
さっきの会話が彼女の耳に入っていたかは知らないが、睨むということはきっと愉快な感情を抱いてはいないはずだ。
とにかく怒らせた(?)ことを謝罪して、あわよくば俺を目の敵にする理由を聞き出したい。
あとは弁明だ。昼休みに陰口を叩いていたのはあの馬鹿野郎だけで、俺はそれに微塵も関与していませんよ、と。これ以上俺の心象を悪化させるわけにはいかないのだ。
しかし、相澤に声をかけるタイミングがわからない。なにせ常に秋庭と行動をともにしているのだ。第三者に俺の言いわけを聞かせるのは、さすがに羞恥心が邪魔をする。
好機が訪れたのは、放課後。
普段なら相澤と秋庭は帰路に就くのも一緒のはずだったが、今日は違った。なにか用事でもあるのか、秋庭が校舎の昇降口に向かわず、そのまま相澤を置いて上階へと行ってしまったのだ。
相澤はひとり下駄箱で外履きに替えて校舎を出た。俺は覚悟を決め、こっそりその後を追った。
しかしまっすぐ帰宅するのかという俺の予想を覆し、相澤は校門を通らずに、なぜか柔道場の方角へ歩いていった。
――なんであんなところに?
疑問を抱くのも無理はない。この高校では現在、柔道部が部員不足により廃部になっている。そのため柔道場の周辺は、特に放課後になるとめっきり人気がなくなってしまうのだ。
彼女の意図を探るため、俺は監視を続けた。というか、今声をかければ恐らくストーカー容疑の冤罪がかけられてしまう。いや、冤罪じゃないのか。
道場の裏手に回り込み、沈みゆく太陽の光を遮る壁面に背を預ける相澤。俺はそこから僅かに離れた駐輪場の裏に隠れて彼女を見張っていた。
彼女はたまに左手の時計を覗きこんでいる。まるで、誰かを待つように。
――なにをしている?
気分は有能な名探偵だ。そして実態は不審なストーキング野郎。
しかし、事態は急変する。
相澤を観察するのに夢中になるあまり、俺は背後から忍び寄る謎の気配に、まったく気づけなかった――
★
「ゆお、お待たせー」
名前を呼ぶ声に、あたしは顔を上げた。教室では仏頂面を貫徹している頬が自然と緩むのを感じる。
誰何を尋ねるまでもない、この秘密の場所にあたしがいることを知っているのは、ただひとり、
「遅い、ちよ」
人々に幸せを運ぶ可憐な笑顔で手を振る彼女に、あたしは極力無愛想を装った。寂しかった、なんて素直に言える性分ではない。
「あはは、ごめんねー。委員会が長引いちゃって」
「もう……」
卑怯者め、そんな表情で謝られたら、どんな重犯罪だって容易く許してしまう。そもそも、正当な用事があったのだから遅刻は不可抗力なんだけど。
あたしたちはこの高校に入学して以来、人気のなくなる時間帯になると、いつもこの柔道場の裏手に訪れ、
禁断の愛を育んでいた。
言葉にすると大袈裟に聞こえるが、要するにイチャついているのだ。女同士で。
この高校の入試に合格した日、あたしはちよに告白して、親友の一線を越えた。
けれどふたりの関係は周囲に――両親にさえ内緒だから、こうしてふたりきりになれる場所で逢瀬を楽しむ時間が必要なのだ。
最初は無言で手を繋ぐのが恒例のパターンだったのだが、
「ところで……どうしたの、それ?」
心の奥底から響く衝動に負け、ついあたしは尋ねてしまう。
なんとちよは熊を仕留めた狩人のように、男の首根っこを掴んで地面に引き摺っていた。委員会でどんな活動をしてきたのか。
「……って、淀川?」
失神しているのか脱力した体躯をよく観察すると、彼の正体はなんとクラスメイトの男子、淀川だった。ますます意味不明だ。
不穏当な予感を抱くあたしの胸中とは裏腹に、ちよはあっけらかんと笑った。
「急いで委員会から戻ったら、彼がゆおのこと尾けてるみたいだったから、いっそのこと連れてきちゃった」
「き、気絶してるのはなんで……?」
「最近は世の中物騒だからね。秘孔のひとつくらい突けなくちゃ女子高生はやってられないよ」
「そんな馬鹿な!」
それが女子高生の必須スキルならば、むしろその類の変質者は現存し得ないだろう。というか、もう恋人になって何年も経つのに、未だにちよの潜在能力は底知れない。
「――まあいっか。淀川だし」
「ゆおって、淀川くんにやたら辛辣だよね……。なにか因縁でもあるの?」
苦笑混じりにちよが問う。
あたしは精魂かけた蔑視を淀川に突き刺しながら、吐き捨てるように、
「あたし、こいつ嫌い」
きっぱりと拒絶する。たとえ淀川が気絶していなくとも、面と向かう機会があればあたしはそう宣言するだろう。
横目にちよが「可哀そうに……」と呟くのが見えた。台詞の端々から憐憫の情が透けて見える。
「本人には言わないであげなよ……。傷つくから。いろんな意味で」
「いや、こいつに気を遣う必要なんてないし!」
半ば呆れ気味に溜息を漏らすちよに、しかしあたしは自分の主張を曲げない。淀川を唾棄するのにも、明確な理由がある。
ちよはその事実を知らないから勝手を言えるのだ。あたしからすれば、淀川なんて人権すら存在しない。
だって……
「だって淀川の奴、絶対にちよのこと好きだよ」
「……は?」
予想外に彼女の反応は淡白だった。ただぽかんと大口を開き、疑問符を掲げるだけ。衝撃の真実だ、もっと愕然としてもいいだろうに。
「ゆ、ゆおさん? その根拠は……?」
「ちよは知らないの⁉ この変態、昼休みとかいつもちよの方を見てにやにや笑ってるんだよ? 今日あたしを尾行したのだって、きっとちよの情報を収集するためなんだ!」
毎度の昼休みの情景を思い出すだけで腹立たしい。どれだけ威嚇を繰り返してもまったく懲りる様子が窺えない。
憤慨しながら熱弁を振るうと、
「……あーめん」
ちよは世界の真理をくまなく理解した菩薩みたいな容貌で淀川に向けて合掌した。支えを失った淀川の肉体は地面に崩れ落ちる。
「えぇ⁉ ちよ、話聞いてた⁉ だからこいつは極悪人で……」
「ゆおは……なにも知らなくていいんだよ……」
両手であたしの肩を抱くちよは、あたしの困惑で満ちた眼差しに、ただしきりに頷いていた。まったく理解不能だ。
「でもね」
呟くと、ちよはその表情を一瞬で塗り替えた。
教室では決して見せない、どこか甘える幼子のように無邪気な笑顔。
「嬉しいよ。淀川くんのことを嫌うのは、あたしを心配してくれてたからなんだよね」
「ちよ……」
その屈託ない微笑みに、蠱惑的に潤んだ瞳に、ちよを抱き締めたいと願う本能が胸中で渦を巻く。
無意識に腕が伸び、ちよの身体を引き寄せようと――
「大丈夫だから」
しかし、残念ながら先を越された。
肩に乗せられていた彼女の両腕が優しく腰に触れる。
「あたしはずっと、ゆおだけが好きだよ」
耳元で囁かれ、あたしは顔中が熱を帯びるのを感じた。今頃きっと頭から首まで、絵具で塗りたくったような赤に染まっているに違いない。
あまりの不意打ちに声が出ない。こんな告白、ずるい。
でも、ちよの双眸は答えを待っているように滾っていて。
だから、どうにかひと言だけでも振り絞る。
「……あたしも」
ちよの表情がぱあっと華やぐ。
もう言葉はいらない。無言で唇を突き出すちよに、あたしは瞼を下ろしてその唇を、舌を受け入れた。
「んっ……」
いつもより、少しだけ濃厚なキス。
太陽の目すら届かないこの場所に身を潜めて、ふたりの身体が重なる。
ちよの体温を全身で、味を口腔で、気持ちを胸で感じながら、あたしは手をそっと彼女の背中に回した。
昔。
ちよに思いを告げたとき、あたしは怖かった。
女同士の恋愛関係。きっと行く手は障害だらけだ。倫理や常識や世間体が内から外から、ふたりの邪魔をする。
いつか、ちよを好きになったことを後悔する日が来るんじゃないかと恐怖した。それを考えて、枕を濡らす夜もあった。
でも、告白から一年半が過ぎて。
確かに、かつての予想通り数多くの問題があたしたちを待ち構えていたけれど。
今もあたしはちよが好きで、幸せだ。
★
さて、昨日の放課後の記憶がない。
目を覚ましたとき、俺は雄大な星空の下にいて、背中に砂の感触がして、仰天して身体を起こすと校庭のど真ん中にいた。なぜ。
無性に後ろ首が痛かったが、まあこんな屋外で眠っていれば寝違えるだろうし、気にしないことにした。
とにかくその日は相澤に謝罪できなかったことに悔悟の念を感じ、憂鬱な心情で帰宅した。そして連絡もせず深夜までどうしたと母親に叱られたが、事実を正直に話すわけにもいかない。自分でも校庭で寝ていた原因は不明なのだ。
そして翌朝、重い足取りで学校まで来て、現在に至る。
――相澤、まだ怒ってるかな。
授業も休み時間もお構いなしで、脳内は相澤に完全支配されていた。斜め前の席に視線が吸い寄せられる。
そして、
「……っ!」
昼休みを終えた五限目の授業、気配を察したのか振り向いた相澤と目が合った。
緊張のあまり俺が唾液を飲み下した音が、静まり返った教室に一際強く響いた――気がした。
あの泣く子も黙り笑う子は泣く威圧の眼を覚悟した俺だったが、相澤は無表情のままふっと視線を外すと、黒板に向き直った。
――睨まれなかった……?
拍子抜けだが、同時に心底から安堵した。
とりあえず、昨日の件ではもう怒っていないらしい。
楽観的にそう結論づけると、俺は相澤と恋仲になる理想の未来を夢見て、だらしなく笑った。
読んでいただきありがとうございます!
タイトルにあるように、百合思考の女性は未確認というだけで、実は世界中に溢れているのではないでしょうか。
そう、恋愛関係は異性でのみ成立するとされている常識の中で、世間から隠れて蜜月を楽しむ女子は、確かに存在しているはずです。愛らしい少女が、人目につかぬ路地裏で絡み合う――想像しただけで人間と生殖器を男女に分けた神にお説教したいというか、もうおじさん辛抱たまりません! 陰で私がこっそり見守っているから、百合女子たちは存分に愛を確かめ合ってね!
……こりゃ秘孔のひとつも突けるようになるわ。
ゆおとちよのコンビは拙作〈カコイマミライ〉にも登場していますので、よろしければそちらも合わせてお願いいたします。