第一話
『ごめんなさいね。朝霧兄様。私まだ死にたくありませんし、お慕いしている方がいるの』
自分が最後に見たのは、そう言った十こ下の従姉妹殿の愛らしいはずなのに何故か恐ろしい危機迫る笑顔だった。
そして、その言葉に疑問を持つ間もなく、そのすぐ後に、背後から何者かに襲われ、朝霧はその場に倒れ込んだ。
『成仏してくださいましね。朝霧兄様』
意識を失う間際、従姉妹殿のそんな恐ろしい声を聞いた気がした。
「気のせいじゃなかったのか………」
真っ暗で狭い何か箱のようなものの中に押し込められた鈴置 朝霧は、深く溜息をついた。
この箱は………棺桶か?
片手でまだくらくらする頭を押さえて、もう片方の手で箱の側壁を探りながら朝霧は思った。
だが、本来自分が何をしにやって来たのかをはたと思い出し、すぐにそれが何か思い至る。
「花籠か………」
これは鬼神様に捧げられる花嫁を入れる籠だ。
朝霧自身は分家であり、東京の長屋住いだが、本家である鈴置家は地方にではあるが、大豪邸を構えるほど金も力もある、いわゆるなり上がりのお貴族様である。
廃藩置県に伴う村の合併が成される以前は、山岳の村の村長をしていた家系であり、その歴史は長く、昔は村の守り神として、そして今は家の守り神として古くから鬼神様と呼ばれる神を信仰していた。
分家の人間である朝霧には、その神とやらがどんなものなのかさっぱり分からないが、鈴置家の史実によれば、一介のしかも山岳の村だったにもかかわらず、鈴置村の村人達は大飢饉時にも餓えることなく暮らしてきたようであったし、今もどんどん没落してゆく士族をよそに、製糸場を経営するなど鈴置家が着実に社会的地位を築き上げてきている辺りから、そういった神憑り的なものの力が作用していてもおかしくない…とは、朝霧も思っている。
だが、しかしだ。文明開花も甚だしいこのご時世に、花嫁だ何だと言ってはいるが、結局は生贄だなんてものを捧げるなんて時代錯誤もいいところじゃなかろうか?
まぁ、そうと思ったところで、本家の恩恵にあやかり、父親共々学者と言えば聞こえはいいが、平たくいえば道楽の延長のような、本家の援助無しにはろくに飯も食っていけないようなことをやっている手前、朝霧に文句を言う資格は無い。
だから、今日も面倒だと思いつつも分家の長男坊として、花嫁として捧げられる従姉妹殿と今生の別れをするために、わざわざこんな片田舎までやって来たというのに………。
これは、一体全体どういうことだ?
これはどう考えても、自分が体よく身代わりに、花嫁にさせられたとしか考えられない。
朝霧はその事実に頭を抱えたくなった。
鈴置家の重要な祭事を、本来生贄になるはずだった人間が放り出し、生贄にするには少々厳しい者を身代わりに逃げ出したとなれば、神の加護も一族の信用も失うだろう。
「………おいおいおいおい。冗談だろう」
二十六にもなって本の虫で、女に興味も持てなくて花婿なんてものには縁遠い自分が、よもや花婿を通り越して花嫁になろうとは………
いやはや、これは笑ったらいいのか、はたまた泣いた方がいいのやら………。
あまりにも非現実的すぎて感情が湧いてこない。
て、いやいやいやいや。花嫁なんぞと言ってはいるが、そんなものは建前で、結局は鬼神とやらに捧げられる生贄。つまり供物だ。則ち、今、自分に示された道は死のみである。
「………死、か」
その事実が朝霧に重くのしかかる。
今までの好き勝手の手前、お家のためと言われれば、腹を括らなくてはいけない………とは思うし、本当に役に立つのなら、それも本望だ。だが、今回は状況が悪すぎるのではないだろうか?
ただでさえ、今までは数百年に一度の頻度であったはずのものが、この二年間は立て続けに、鬼神の花嫁として末席の分家の少女達が捧げられてきた。
しかし、それにもかかわらず、鬼神は何が気に入らないのか、また今年も花嫁をと本家の当主に言っているため、今年はなくなく本家の三女・夕月が差し出されることになったというのに………。
「………これは、まずくないか?」
自分で言うのもなんだが、器量の良い女である母に似た自分は、小綺麗な顔をしているし、あまり外出もしなければ、剣術などの稽古も全くしない体は白く、そして、細い。
だが、だがしかしだ。
自分はどこからどう見ても男である。
しかも、二十六と年も結構いっている。
本来捧げられるはずだった年端もいかない純粋な少女とは掛け離れている自分が差し出されたと分かれば、鬼神も相当頭に来るのではなかろうか?
しかも今回で三回目だ。これでは鬼神の加護ももはや期待できなくなるのではないだろうか?
そして、怒り狂った鬼神に自分はどんな恐ろしい手段で殺されるのか………
大体、朝霧は鬼という生き物の生態を良く知らない。
どんなに硬いものでも噛み砕く強靭な牙を持っているのか?
はたまた、全てを引き裂く鋭い爪を持っているのか?
そして、どのように人を喰らうのだろう?
「生きながらにして臓物を喰らわれるのだけは嫌だ………」
絶対痛い。
そういうことは死んでからしてほしい。
一年目は少女を殺してから籠の中にいれたようだが、去年は鬼神の要求により生きたまま入れられた。
そして、去年の少女は首から大量の血を流し絶命していたと聞いた。次の日の朝、確認した者の話によれば、血が籠から漏れ出し、部屋には夥しい血の海が広がっていたとか………
「………うぅ」
自分はどんな恐怖を味わって死ぬはめになるんだ?
死の間際、彼女達は何を思ったのだろうか?
「………怖い」
日本男児として情けないことだが、心臓が早鐘のように打ち、体が震えるのを抑えることができない。
「はは…。情けない」
笑い飛ばそうとしたが、顔が強張ってうまくできなかった。
そういえば、父や母は自分がただ従姉妹殿と別れを惜しむためだけに行っていると思っているのだ。
息子が人知れず死を迎えようとしていることを知りもしない。
そう思うと泣けてきた。
「父上。母上。私の先立つ不孝をお許し下さい。夕霧。夜光。楓。桜。兄が死んだ後、兄の分もしっかりとお二人の孝行をするのだよ」
けして聞こえはしない別れの言葉を述べ、朝霧は静かに涙を零した。
……リン………チリン………
「………!!」
朝霧が一仕切り泣き終えた頃、どこからともなく鈴の音が響き、次いで微かに障子の開く音がして、何者かが籠の置かれたこの部屋へと入ってくる気配がした。
朝霧は慌てて涙の跡を拭い、息を潜めた。
「………嫁御殿。口が利けるのであれば、返事を返してはくれないだろうか?」
低く心地のよい、だが、どこか不安そうな声がかけられた。
朝霧は戸惑いながらも無視することはできず、小さく返事を返した。
「………はい」
「よかった。今年の嫁御殿はちゃんと生きているのだな」
あからさまにホッとした様子の声が聞こえ、朝霧は違和感を覚えた。
自分は本当に死に直面しているのだろうか?
「嫁御殿。籠を開けても良いだろうか?」
こいつは本当に鬼神なのか?
神というにはあまりにも腰が低すぎやしないだろうか?
第一、自分は「はい」と声を出したのだ。男だとわかったはずなのに、何故………?
気付いていないのか?
それとも、人と人でないものでは、男女の別が異なるのか?
だから、分からないのだろうか………。
「………嫁御殿?」
朝霧が考え込んでいると、再び不安そうな声に呼ばれ、朝霧は慌てた。
「え?あ。あの、すみません。あの籠を開けるのは少し待って戴けませんか?少しお尋ねしたいことがあるのですが………」
「なんだ?なんでも聞いて構わない」
鬼神の寛大な返答に、朝霧はホッと胸を撫で下ろす。
そして、鬼神の意思が変わらないうちにと、すぐに口を開いた。
「ありがとうございます。あの、鬼神様。今更なんですが………」
そこで、朝霧は一度大きく息を吸い込み、無意識のうちにぎゅっと拳を握り締めた。
そして、ごくりと唾を飲み、意を決して尋ねた。
「私は男です。それでも宜しいんですか?」
極度の緊張に、汗が噴き出す。
怒り狂ってズタズタに切り裂かれるのか、それとも、運よくその場に捨て置かれるのか………。
だが、朝霧の予想に反し、
「何か問題でもあるのか?」
と、逆に不安そうに聞き返され、
「………は?」
相手が鬼神であることも忘れ、朝霧は気の抜けた声を出してしまった。
しかし、しまったとすぐに我に返り、慌てて聞き直した。
「可愛らしい少女じゃないんですよ?柔らかくもないし、声だって鈴を鳴らすような軽やかなもんじゃないんですよ?」
やはり気が動転しているらしい。朝霧は自ら己の首を締めるようなことを必死に言い募った。
だが、やはり鬼神は怒り出しも、呆れもせずに、ただ、ただ、穏やかな声で、朝霧に問い掛けた。
「嫁御殿はおかしなことを聞く。人というものは皆そうなのか?見た目はまだ見ていないから分からないが、嫁御殿の声は十分に美しいよ?それとも嫁御殿は私と夫婦になるのが嫌でそんなことを聞いてくるのか?」
「い、いいえ。そんなことは………」
無いとは言えないが………。
「では、籠を開けてもいいだろうか?」
「………はい」
ついに来てしまった。
鬼神は自分をどうするのだろうか?
先程までとは違い、どくりどくりとやけにゆっくりと心臓が鳴る。
朝霧の気持ちをよそに、籠の蓋があっさりとずらされ、月明かりと蝋燭の淡い光が目に入る。暫く暗闇に慣れた目には、それでもきつく、朝霧は微かに目をすがめた。
「綺麗だ………」
吐息のように呟かれ、朝霧は相手の顔を見た。
そこにいたのは、人では有り得ない色彩を持つ美丈夫だった。
真っ赤な髪と瞳。そして、細く鹿のそれのようにも見える角。黄金色に輝くそれは、とても神々しい。鬼を神と崇めたくなる気持ちが、朝霧は初めて理解できた。
「嫁御殿。私は怖くないか?」
強く華やかな外見に反し、どこか頼りない声音で問い掛けられ、朝霧は首を横に振った。
「いいえ」
怖くは無い。
ただ、鬼とはこんなにも美しい生き物だったのかと驚いた。
朝霧が答えると、鬼神は嬉しそうに柔らかく微笑み、朝霧を壊れ物を扱うかのように、そっと、そおっと籠から抱き上げた。
彼は捕食者じゃない。
朝霧は思った。
命を奪う者だったら、こんなふうに愛おしげに相手を見つめるだろうか?
幸せそうに微笑むだろうか?
鬼神は朝霧を抱いたまま、籠の後ろに用意されていたらしい布団の上にすとんと腰を下ろし、朝霧の顔を覗き込んできた。
何故だろう。その表情は嬉しさの中に、やはり不安を色濃く映している。
「嫁御殿。私と共に生きてくれるか?」
自分を映す緋色の瞳が切なくて。
自分を包む、人となんらかわらぬ温もりが愛しくて。
朝霧は家族のことも仕事のことも全て忘れ去って、こくりと頷いた。
「はい」
「そうか」
ああ。本当に嬉しそうに笑ってくれる方だ。
こちらまで幸せな気分になってくる。
「………その………な。嫁御殿。今すぐ契りを交わしてもよいだろうか?」
微かに頬を染め、モゴモゴと言いずらそうに鬼神が尋ねてきた。
あまりにも気恥ずかしげに問われ、数瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「………え?契り?」
朝霧がきょとんと鬼神を見返せば、鬼神ははひどく思い詰めた顔をして頷いた。
「そうだ。私は今すぐお前様が欲しいのだ。駄目だろうか?」
やっぱり、この人は本当に神なのだろうか?
どうしてこんなに自分に気を使うのだろう?
まさか………
「あの………契りを交わした途端精気を抜き取られて死ぬとかってことは………」
「そのようなことはない!!精気はもらうが、私が嫁御殿を殺すなんてありえない」
ひどく驚いた顔で返され、朝霧は「なんだ…」と、ほっと息をついた。
「それならば、私はかまいませんよ。鬼神様。布団が用意されているということは、そういうことなのでしょう?」
死ぬわけじゃないならと、朝霧はさっさと腹をくくった。
衆道の趣味はないが、初な処女でもないので、鬼との契りには、なんら不安は湧かなかった。
彼なら悪いようにはしないだろうという確信もあった。
「無理強いはしたくないんだ」
だが、鬼神は尚も不安そうに言う。
「いえ。別に無理とも思っていませんが………」
心を痛めてくれているらしい彼には申し訳ないが、自分はそこまで悲嘆も何も無い。
死ぬわけでもなく、少し人の道からは外れるが、好ましい相手と共に居られるならば、朝霧はそれでよかった。
朝霧は恐ろしく楽観主義な人間なのだ。
だが、当の鬼神は、
「だが、私と契るということは人の生から逸脱し、長い時を私と共に過ごすと言うこと。親しい者は皆先立ち、自分だけが取り残される。それでも貴方は私と夫婦になってくれるか?」
と、何を心配しているのか、朝霧が良いといっているにもかかわらず、うだうだと言い募る。
絶対、石橋は叩き過ぎて割るような性格に違いない。
心配性………というか、きっと、彼は優しいのだろう。
だから、必要以上に弱気で臆病になるのだろう。
だが………、
「いいって言ってるでしょっ!!」
朝霧はさすがに面倒になってきた。