⑤アンヌの場合
あまりにも皆、気持ちよく別れてしまうので。復縁編。
「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」
要は、事業に失敗したのだと言うことだった。
婚約相手の父である、ブラウニング伯の言うことには。
このまま婚約を継続した場合、こちら側のメリットはなくなるどころか、負債をも負いかねない。
今のうちに、婚約の条文にある、業務提携の話も白紙に戻した方がいいだろうと。
話し合いを始めた当主同士の会話には混ざらず、ブラウニング伯の隣で黙したまま、たった今「元」がつきそうな婚約者は、それでも俯くようなこともなく、堂々とこちらを見つめていた。
これだけは自分の口から言わなければ、そう思っての発言だったのだろう。
蒼色の瞳にしっかりとアンヌの顔を写して、誠実に告げてくれたのだ。
真面目な彼らしい、精一杯の別れの言葉だったのだと、今でもそう思っている。
アンヌの今後や、今日までに費やされた婚約期間を思えば、無賠償で終われる話でない。
けれど、今その賠償金の支払いを求めるのは、難しい状況なのだった。
あまり貴族らしくない父からは、アンヌがどうしたいかを聞かれた。
貴族家の子女に当主が意向を委ねるなど、つくづく変わった父だと思う。
けれど、それがどれほど恵まれたことなのかは知っている。
そんな父が当主である我がアーデン子爵家は、他家に支援する余裕はないが、先々のお金には困らないくらいには、事業もそこそこ回っている。
元よりアンヌは伯爵家に嫁いだ後、働きに出るつもりだった。
先月、王太子妃となったばかりの友人から、侍女として、王宮に上がって欲しいと打診を受けているのだ。
結婚後に身辺が落ち着いたらで構わないと言われていたけれど、多少、その時期が早まって困ることはない。
昨年学院を一緒に卒業した友人は、結婚こそ、その卒業を待たれたが、王太子とは幼馴染で気心が知れている。
慶事はそう遠くないだろう。
身近な者には少し子供っぽい所も見せる彼女のためにも、味方は多い方がいい。
アンヌの今後の見通しが立っているとは言え、何も求めないのも体裁が悪いので、賠償は支払える時まで待つ、という希望を伝えておいた。
あちらは歴史の古い伯爵家だから、取り潰しになるようなことは国も避けるはずだ。
手元の事業を売却するのか、梃子を入れるのか、あるいは新しい婚約でもって支援を取り付けるのか、何にせよ立て直しを図るだろう。
そしてそれが実る頃にはきっと、アンヌも新しい人生を歩んでいるだろうから。
「アンヌ、貴女良い人はいないの?もういい歳ではないの」
立て続けに三人の子を産み、もうすっかり次代の国母らしい顔付きになった友人が、生まれたばかりの末姫を抱いて、そんなことを言う。
来月に王宮で王太子妃が主催する茶会の、出席者のリストを読み上げている所だった。
近くに控えた乳母が、そっと末姫を受け取り、隅に下がっていく。
吐き出し窓から差し込む日差しが、豪奢なレースのカーテン越しに揺れて、白い王太子妃の私室を照らしている。
アンヌの婚約が以前駄目になった経緯は知られているし、この数年、周囲から揶揄されることはあっても、友人が水を向けてきたことはなかった。
自分が慕う相手に想われ、その相手と婚姻を結ぶ。
それが貴族の子息令嬢達にとっては、どれほど稀有で恵まれたものであるのか。
今や国一番の幸福を体現する友人であっても、それを正しく理解っている。
だからか、もう何年も、自身がどんなに結婚の素晴らしさを味わっていても、それをアンヌに勧めてくるようなことはなかったのだが。
「仕事が楽しくて、それどころではありませんでした」
アンヌの嘘偽りない本音である。
元々子爵家の出でもあるアンヌは、その上未婚だ。
もう何の爵位も持たないただの、元、貴族令嬢なのである。
だから、下級使用人ですら高位の者が多い王宮で、この数年必死に働いてきた。
毎日が目まぐるしく、本当にあっという間の数年間だった。
働くことは存外、自分には向いていたとアンヌは感じている。
あの婚約破棄を、ただの家の事情だと受け止められたのも、あの時すでに働く道筋があったからこそであるし、その後、かつての婚約期間と同等の年月を、卑屈になる暇もなく駆け抜けて来られた。
子爵令嬢であり、伯爵家の婚約者であったあの頃の自分よりも、今のただのアンヌとして在る自分に、心から満足しているのだ。
「家格に応じて侍女になってもらったけれど、いずれは女官として仕えて欲しかったのよ。そろそろかしらと思っていたのだけれど、少し、先になるわね」
そう言って友人が楽しそうに浮かべる笑みは、アンヌの好きな、今はもう限られた者にしか見せない、学生の頃と変わらぬ笑みだった。
そして用意された席で、目の前に座っていたのは、元婚約者だった。
それも何故か、王太子宮の一角にある庭園の片隅で。
向かい合うのは、ただの貴族令息と、王太子妃付きとはいえ一介の侍女である。
場違いな二人を囲う、見頃のカンパニュラが、ただ、美しい。
あの婚約破棄の後、いくつかの事業の売却や、領地の一部返上などで、随分資産を減らしたようだったが、残った事業に、古くから付き合いのあった貴族家からの支援が入り、今や国内で押しも押されぬ中核事業に成長している事は把握していた。
その中心人物が伯爵家嫡男の彼であることは、最近の社交界でも噂の的だった。
旧貴族の老獪な好々爺達からの評判も上々で、貴族としては実直過ぎるきらいがある性質も、好意的に語られることが多かった。
彼の真っ直ぐな心根が変わることなく、そのまましっかりと実を結んでいることが、アンヌも嬉しかった。
「賠償金の支払いを待っていてくださったこと、心から感謝しております」
数年ぶりの再会の挨拶が、こんな色気のない言葉だったことにも、以前の彼を感じて笑みが漏れた。
「その約束を頼みにしてきました、貴女との、最後の縁だと思って」
目の前に跪いた彼の顔には、お互いに流れた時間と、隠せない苦労の跡が残っている。
けれどその蒼い目は、あの頃と同じように、アンヌの顔を真っ直ぐに映している。
「賠償金の一つとして私を貰っていただきたい」
「それは…家を出られると言うことですか」
婚姻の打診であることは想像していたものの、それは予想外の言葉だった。
「一度こちらから破談にした家です、嫁に来て欲しいとは言いません。それでも私は貴女がいいのです」
こんなに真っ直ぐ、気持ちを言葉にする人だっただろうか。
婚約していた数年間、話すのは主にアンヌで、それを不満に思ったことはなかったけれど。
事業を立て直す際、父親であるブラウニング伯と取り決めをしたのだという。
自身の婚約を破棄し、その身を賭して伯爵家の再興に殉じる代わりに、それが成った暁には、もう一度アンヌに婚姻を申し出たいと。
その時には、家としてではなく、自分個人として申し出たいのだと。
「私がその時まで一人だと、思っていらしたのですか?」
意地の悪い聞き方になってしまったのは、なんとも途方もない計画に、少し、むくれる気持があったからだろうか。
「覚悟はしていました。けれど、王太子殿下に、それとなく貴女の事を聞いていましたので」
そういえば、王太子殿下は彼の同窓であったか。
王太子妃である友人とは、お互いの婚約者の歳の差が同じで、それもあって、学生の頃に話が弾んだのだ。
何とまぁ。
これはきっと、彼女も嬉々として噛んでいたに違いない。
その結果がこの、蒼い空の下での一幕なのだろう。
そんな内情をあっさりと晒す彼が相変わらずで、礼儀と体面を美しく着飾る事が日常のアンヌには、何だか眩しいくらいに見える。
「ルーク様変わっていないですね」
ブラウニング伯と呼ぶべきところを、つい昔の呼び名が口をついたのは、懐かしさと、過ぎ去った日々への哀惜かもしれない。
あの時、アンヌ自身も婚約破棄を受け入れた。
運命を恨んでもいないし、ルークに償って欲しいという気持ちもない。
傷つかなかったと言えば嘘になる。
あると思っていた未来が形を変えたことにではなく、ただ、彼がもう、自分の人生に関わりのない他人になることが、自分たちの人生が交わらないことが、悲しかった。
ルークは決して言葉は多い方ではなかったけれど、いつも真っ直ぐにアンヌの目を見て話をしてくれた。
その瞳の色をずっと覚えていた。
きっとあれは、アンヌにとって恋に似た何かだったのだと、ようやく気付いた。
咲く前に散ってしまった小さな蒼い花だったのだと。
跪いたまま、自分を見上げる彼の蒼い瞳には、あの頃には無かった色が見える。
「…伯爵家の後ろ盾がある方が、女官としては箔がつくかしら」
ルークが僅かに眼を張って、一気に破顔する。
あの頃に比べると随分、表情も豊かになったものだ。
きっと、変わったものも多くあるだろう。
さっきの言葉がアンヌの、照れ隠しであることも、見抜かれているような気がする。
「家族も喜ぶ。母も君を気に入っていたから」
アンヌに申し訳ないと、伯爵夫人が泣いてくれていたことは、父からも聞いていた。
破談にした側が未練がましいのはよくないと、謝罪の手紙等は、たった一度も送られてこなかった。
けれど、慣れない王宮でアンヌを助けてくたのは、伯爵夫人に縁のある令嬢達ばかりだった。
懐かしい時間が一気に帰ってくる。
あの頃よりも硬く、骨ばった大人の男の手に、あの頃よりも荒れた手を、けれど美しくなった所作で添えて。
もう一度、縁を紡いでゆくのだ。
もしかしたら、もう一度恋を、紡ぐのかもしれない。
欲しいものには素直になることを学んだルーク。
復縁マター、ハッピーエンド編
バッドエンドの皆さんは、近日お目見え。




