㉙ミュリエルの場合
続きました。
「貴方との婚約は無かったことにしていただきたいのです」
この国で最も高貴な色の青年に、毅然と断りを告げる姉の美しさが、今もまだ、ミュリエルの目に焼き付いている。
姉の赤い唇と、同じ色の赤いドレスが翻って去って行くのを、誰もがただ、魅入られたように見つめていた。
「父上!捜索しないとはどういうことですか!子爵家の令嬢が、他国の者に連れ去られようとしているのですよ!」
普段、感情を露わにすることの少ない兄が、父であるガドリエ子爵に口答えする姿を、ミュリエルは初めて目にしていた。
ミュリエルの隣に居る母は、そんな息子と夫を前にして、おろおろと狼狽えるばかりだった。
そんな母の手を握り、側に寄り添いながら、ミュリエルの胸の裡は、どこまでも凪いでいた。
「何度も言わせるなルーファス。これはエレオノーラが自主的に行ったことだ。愚行を犯す娘など、子爵家には相応しくない、このまま離籍する……それがあれの望みでもある」
事務手続きを告げるように淡々と話す父は、いつもと変わらぬ、疲れた顔だった。
兄の剣幕に顔色一つ変えることなく、話は終わったとばかりに、居間を出て行こうとする。
皆、夜会から帰ったばかりの姿のままだった。
今日の為に誂えた、普段よりも高いヒールに、じんじんと爪先が痛んでいる。
「お待ちください父上!エレオノーラを、ノーラを捨て置くのですか!」
貴族家の子息としては、些か乱暴な語気で、兄が閉じた扉に向かって吠えた。
(不甲斐ないお兄様)
一度も呼ぶことのなかった愛称など、何の意味もないだろうに。
「まぁ、どうしましょう、ルーファスがこんな、旦那様も、エレオノーラもどうして」
先刻の夜会で、王子殿下に婚約の辞退を告げる姉を目にした時と同じ様に、隣でおろおろとするばかりの母の姿は、社交界で良妻賢母として知られる母とは、別人のようだった。
(救いようがないわ)
情けない兄と、愚かな母と、どうしようもない父。
扉を睨みつけていた兄が、首を振りながらこちらを振り返った。
ミュリエルは慌てず、目元に不安げな色を載せると、いつもと同じ声音で兄を呼ぶ。
「お兄様……」
庇護欲をそそる、愛らしいミュリエルの声。
「ミュリエル……声を荒げてすまない。母上もご心配なさらずに」
近寄ってきた兄が、母の手を取り、ミュリエルの肩をそっと抱く。
「心配するなミュリエル。君の姉は、必ず連れ戻す。……このままにはさせぬ」
兄のどこか昏い声を聞きながら。
ミュリエルは、この夜の闇が、姉の足跡を覆い隠してくれることを願った。
兄であるルーファスの、エレオノーラに向ける感情に、気づいたのはいつからだったろう。
『どちらかと言えば、ミュリエルに似合いそうなドレスだな』
ある時、王子がエレオノーラに贈ったドレスを見たルーファスはそう口にした。
(そこはお姉様に、もっと似合うドレスがある、と言うところでしょうに)
別の男が贈ったドレスが気に入らないのは分かるが、ミュリエルを引き合いに出してどうするのだ。
貶された当のエレオノーラは、何ら気にした様子もない。
ルーファスが自分に関心を持っているなどとは、夢にも思っていないからだろう。
ガドリエの当主である父と、後妻である母の連れ子であるルーファスには、血の繋がりはない。
けれど幸いにも、利発な子供だった兄のことを、父は早くから、次期子爵として厳しく目をかけてきた。
その好遇を、幼い頃から母によくよく言い聞かされている兄だ。
義妹に対して生まれた淡い感情を、周囲に気取らせるようなことは決してしなかったように思う。
幼い兄の中に、前妻の娘であるエレオノーラがこそ、正統な血筋であるという複雑な思いもあったのだろう。
彼女が手にするべき福音を、自分が横取りしてしまった後ろめたさが。
だからいずれ当主となる自分が、エレオノーラを娶ることこそが、彼女への償いであり、正道なのだと、そんな風に思っている節もあった。
ルーファスは、ミュリエルにとっては血を分けた兄だ。
優秀な兄の、姉にだけ向けられる冷淡さの裏側にある屈折した思いに、ずっと気づかないふりをしてきた。
(何となく……お父様は、気づいているような気もするのだけれど)
全てにおいて無関心な父が、兄にだけは、時に厳しく当たることがあるのは、当主としての期待からなのか。
いずれにしろ、他の家族……出来の良い息子を信頼し、頼みにしている母は、きっと気づいていないだろう。
兄に露ほどの興味もない、当の姉も同様に。
子供の頃、姉と一緒に、ドレスを仕立ててもらった時のことだった。
『お嬢様は美しい黒髪をお持ちですから、こんなお色はいかがでしょう』
そう言って、馴染みの仕立て屋が幼い姉にあてがったのは、目の詰まったシルク地の、濃い緑のドレスだった。
それは確かに、同じ年頃の少女たちよりも大人びた姉の相貌と、豊かな黒髪によく似合っていた。
『少し、渋すぎるのではないかしら』
けれど母は、先ほどの淡い色の揃えの方が、気に入っているようだった。
同じシフォンの生地の、爽やかな水色と、淡い桃色のドレス。
それはミュリエルの、白い肌と榛色の髪によく似合う色だった。
ミュリエルと同じ髪色をした母の、新しい藤色のドレスとも。
母の中にはずっと、家族らしくあらねばという思いがあったのだろう。
一人だけ色の違う義理の娘が、このガドリエの中で浮かないように。
それが母なりの、家族としての義務感だったのかもしれない。
(純粋な誠意……だけではなかったのでしょうけれど)
だって幼いミュリエルの目にも、緑色のドレスの方が、ずっと似合って見えたのだから。
だからそう思うままに、告げたのだ。
『でもお姉様は、こちらの緑の方がお好きでしょう?』
ミュリエルは、鏡越しの姉がわずかに、嬉しそうに笑んでいたのちゃんと見ていた。
『まぁ、そうなの?』
『……いいえ、お義母様。私はお義母様が選んでくださったドレスで構いません』
不安げな色を浮かべた母に、姉はそう言って、大人びた顔で笑った。
その時、ミュリエルは思ったのだ。
(これがお姉様の……お姉様がこの家で生きていくための、知恵なのだわ)
『ごめんなさいお姉様、私の勘違いね。お姉様とお揃いで、私嬉しいわ』
『ええ、私もよミュリエル』
時折ミュリエルが、無邪気な顔をして見せるのと同じように。
王宮の広間に現れた姉は、美しかった。
いつもは結い上げられている黒髪が、深紅のドレスの裾と共に、姉の動きに合わせて艶やかに翻っている。
ウエストラインを絞った旧式のドレスは、流行のふんわりとした胸の下から広がるドレスよりも、姉の浅黒い肌と相まって、そのスタイルの良さを際立たせていた。
それはかつて、屋敷の奥でこっそりと目にした、父の先妻である亡き夫人の肖像画と、瓜二つの姿だった。
(お姉様は、こんなにもお美しかったのだわ)
そしてその深紅のドレスは、何よりも雄弁に、求婚者である王子への否を告げていた。
『意に沿わないドレスを着て、夜会に出たことは?』
耳に、一人の男の言葉が蘇る。
兄姉と共に通う学院で、姉が密やかに会う男がいることを、ミュリエルは姉付きの侍女の一人から聞いて知っていた。
一人だけ帰り時間がいつも遅い姉を、心配しているのだと言いくるめて聞き出したのだった。
『……ございません』
ミュリエルの衣装は、あの頃と変わらず、姉と一緒に母の意向を聞いて選ぶ。
姉妹二人分の、季節ごとに仕立てられるそのどれもが、柔らかな素材や、淡い色のドレスばかりだった。
ミュリエル自身は、そういう色や素材の方が、自分には似合うと知っている。
どうしても、その男に会ってみたくて、ある日ミュリエルはこっそりと、姉の学年の区画へと足を踏み入れたのだった。
姉は丁度よく、いつも居るという旧い図書室に、まだ現れていなかった。
『意に沿わぬ装いを纏う……それは自分への冒涜だとは思わないか?』
古ぼけた蔵書が並ぶ図書室の奥の席で、誰かを待っていた様子の青年は、最近この学院の女生徒たちの噂の的である、隣国の侯爵家の子息だった。
訝しげな青年に、ガドリエの名を名乗ると、その目に興味の色が浮かんだ。
そうして唐突に、謎かけのように問いかけられたのだった。
『知らなかったな。エレオノーラ嬢に、君のような妹がいたとはね』
切れ長の緑の目を細めて、楽しそうにその青年、シルヴィオ・ダーンリーが笑う。
姉とよく似た艶やかな黒髪の青年は、物腰の柔らかさとは裏腹に、どこか野生の獣のような油断のなさがあった。
『ガドリエ家の者達は、彼女に関心がないのかと思っていたが』
その言葉に、先日の夜会での、姉の姿を思い出す。
その日の姉は、ミュリエルと揃いで誂えられた、柔らかなジョーゼットの新緑のドレスだった。
ドレスの繊細さを壊さぬよう、黒髪を纏め、化粧も柔らかな印象で。
シルヴィオが背にした窓のすぐそばに、蔓薔薇の茂みが見えていた。
綻び始めている赤い花弁が、チラチラと、視線の先に燻っている。
『逆だな。彼女が、君達に関心がないんだ』
それは例え冗談でも、言われたくない言葉だった。
カシャン!パリンっ。
「ミュリエルお嬢様!お怪我は」
慌てて部屋に入ってきた侍女が、心配げに声をかけてくれる。
「大丈夫よ、ごめんなさい。カップを落としてしまって」
乱雑に叩きつけたカップが、受け皿と共に割れている。
あの時のシルヴィオとの会話を思い出したら、衝動を抑えきれなかった。
侍女に向かって、いつも通りの顔を作ると、眉を寄せて笑って見せる。
「手がね……滑ってしまったの。ごめんなさい」
そんなミュリエルはきっと、姉の出奔に心を痛めている妹に見えていることだろう。
侍女達の気遣う視線を感じながら、割れた破片が片付けられていくのを眺めていた。
思い出すだけで腹立たしい。
あの、姉を理解しているのは自分だと言わんばかりの視線が、笑みが。
(気に入らない)
けれど、あの間抜けな王子よりは幾分かマシだった。
自分の理想を押し付けたドレスを、あてがってくるような男に比べれば。
ずっと姉の、自分だけが耐えている、という物憂げな顔が嫌いだった。
(美しくて、傲慢で、自分勝手で)
あの父が、自分達家族に、何の興味も持っていないことくらい、ミュリエルにもとうに分かっている。
それは別に、姉だけに向けられたものではない。
夕餐の席で問いかけられる、勉強の進捗や近況について、何も期待されていないのは、あの兄ですら変わらない。
あの母を、失望させることくらい、何だというのだろう。
年頃の少女が、母親の意向とは違う、好きな色や希望のドレスを強請ることくらい、普通のことではないか。
煌びやかな夜会の場で、赤いドレス姿の姉は、美しく笑んでいた。
あの黒い瞳には、金色の王子も、家族も、この国ですら最早映っていなかった。
けれど、とミュリエルは一人ごちる。
(傲慢で、それが堪らなく美しかった)
この屋敷で、虐げられた顔をしているよりも、余程いい。
情けない兄と、愚かな母と、どうしようもない父と。
このどうしようもない家族のことは、任されてあげよう。
(私からの結婚祝いよ、エレオノーラお姉様)
夜会で最後に、馬車に乗りこむ姉の姿を見た者の話では、その隣に、あの黒髪の青年がいたらしい。
抜け目のないあの男なら、この国から姉を連れ去ることくらい、容易くやってのけそうな気がする。
自分ならば。
この家族と、上手くやっていけるだろうとミュリエルは思う。
ミュリエルはただ、周囲がミュリエルに似合うという色を着ている、そんな自分が嫌いではないのだ。
(あんな赤色は、私の顔立ちには強すぎるもの)
とりあえずは目下、あの無駄に優秀な兄が、よからぬ気を起こさぬよう、それだけは目を光らせておかねばならない。
それがミュリエルの、あの美しい姉への餞になるだろう。
伝えることはなかったけれど、それはだって、姉だって同罪だから。
情けない兄と、愚かな母と、どうしようもない父に囲まれた、こんな日々が。
自分にとってはなんだかんだ、幸福なのだと。
淡い桃色のドレスの裾を揺らして、ミュリエルはそう、思うのだ。
ずっと書きたいと思っていたミュリエル編。
兄上のことを、気持ちわ……どうしようもねぇな、とは普通に思っているミュリエル。




