①メアリの場合
いつか書いてみたかった、憧れの婚約破棄劇場。
「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」
その声を聞いた時、子爵令嬢メアリ・ラザフォードは、全く違うことを考えていた。
上の空で相手の話を聞くなど、婚約者としても人としても褒められた行いではない。
けれど、それを相手に感じさせない程度の社交は、幼少期からの淑女教育で、肌に馴染むように染み付いている。
だからいつものように、滅多に視線が交わることのない婚約者の前に座り、口元には柔らかな笑みを敷いて、メアリは心の内でこの茶会の後のことを考えていたのだ。
婚約者が珍しくメアリに視線を寄越し、それもいつになく真剣な眼差しで自身を見つめていることに気付いた今、その口から発せられた音をやや遅れて反芻してみる。
(婚約を…無かったことに、ね)
自身を見つめる婚約者の瞳の色は乾いたヘーゼルブラウン。その瞳の色をまともに見たのは随分久しぶりだな、と、メアリは取り止めもないことを思った。
メアリの婚約者であるテオドール・ファンネル伯爵令息は珍しく真剣な面持ちで、メアリの言葉を待っているようだった。
(ここ数年公式の場以外では、つまらなさそうなお顔か、うんざりしたお顔か…つまらなさそうなお顔しか、見ていなかったものね)
同伴した夜会や茶会では、婚約者として卒のない、澄ました顔をしているのはお互い様。
ただ、今日のような月に一度の交流の茶会、互いの家のどちらかでの席とはいえ、使用人たちも控える中、随分気を抜いているのだなと思わないでも無かった。
そうやって軽んじられていることも、メアリにとっては瑣末な事だったのである。
「婚約を解消したいということですけれど、」
手にしていた浅葱色の扇を口元で広げ、続く言葉を切る。
正直に言って、特に興味はない、そして特に聞きたいとも思わない。
ただ、まぁ、これも最低限の義務と言えないこともない。
「理由を伺っても?」
自分の声音に義務感が滲んでいないことに、メアリは満足した。
「随分国外の方が増えたのですね」
窓から見える大通りの人波に目を留めて、メアリは目の前の青年にそう告げた。自分を見返す、青みのある鮮やかな緑の瞳が楽しげに煌めいている。
「ええ、皇太子殿下が交易にかかる関税を引き下げましたからね。人も物も文化も、毎日新しいものが入ってきますよ」
「活気があるのは良いことですね。勿論、良いことばかりではないのでしょうけれど」
「そうですね、玉石混合、交われば快も不快もありますから」
そう言って鷹揚に笑う青年は、つい数刻前まで目の前に座っていた婚約者とは似ても似つかない、朗らかな空気を放っている。
齢は確かメアリよりも幾つか上、23、4歳だったか、19歳のあどけなさを残したテオドールに比べ、随分大人びた印象を受ける。
事実、自分やテオドールのような学生と違い、しっかりと自らの足で立つ大人であればこそ。
その自分達もあと2ヶ月もすれば、学院を卒業し、彼らの一員となるのだが。
手にしていたリグラン織の生地見本をティーテーブルの上にそっと置き、傍らの白磁のカップを手に取った。
水色の美しいお茶は目の前の彼、リアムが隣国で気に入り、我が国でも来月から売り出す予定のものだと言う。
華やかな香りと爽やかな渋み、ミルクに負けないしっかりとした味わいが、ミルクティー好きのメアリにも好ましい。
メアリが手がける服飾小物、その企画から流通までを一手に引き受けているオーランド商会の三代目、リアム・オーランド子爵令息とは、月に二度ほど、このような打ち合わせの機会を持っている。
その席では毎回、何かしらの新しいお茶やお菓子、茶器や雑貨など、リアムの目利きによって見出された品が華を添えてくれる。
その場でメアリが気に入って購入することも多いため、その抜け目のなさは大変商人らしいが、リアムにとっては単に、メアリに気に入ったものを紹介したい、という面が大きいらしい。
一口、口に含んだふくよかな味わいに、少し気が抜けたのだろう、ため息のような息が漏れた。
如才なく、リアムが言葉を紡ぐ。
「気に入っていただけたようで何よりです。この時期、ご卒業とその後の結婚のご準備もあって、お忙しいでしょう」
この国では、婚約者を持つ子息令嬢の多くが、学院の卒業とともに結婚する。
メアリ達も例に漏れず、いずれ子爵位を継ぐメアリの元に、テオドールが婿入りすることになっていた。
「そうですね、ただ、もしかすると婚姻は、幾分先のことになるかもしれません」
ほんの数刻前の婚約者の言葉を思い出しながら、メアリはついそんな言葉を口にした。
「そうですか。お忙しさが続きますね」
変わらない表情は、商人らしいとも貴族らしいとも言える。けれど僅かに、こちらを気遣うような雰囲気が滲んだ。
「リアム様もご承知のことでしたか。お恥ずかしい」
取引相手の内情を把握しておくのは当然のこと。
おそらくは、メアリが知るのと同じ情報をリアムも知っているのだろう。
そう、今日の茶会の席でテオドールが告げる内容など、とうに知れていたことだった。
要は、他に婚姻したい相手ができた、という、単にそれだけのことだった。
メアリは自分が、特段人よりも秀でた能力を持っていないことを自覚している。だからこそ学院に通う傍ら、自領のため、子爵家のため、優れた人材を探し、集め、誠意を持って関係を織り上げてきたのだ。
目の前に座るリアムもその一柱である。
父である子爵の力も借りて、自分の視点で自領のリグラン織を世に出し、販路を増やし、良いモノを創り上げてきた自負がある。人を見る目も培ってきたつもりだ。
だから自分の婚約者には特に求めるものはなかったのだ。
12の時に繋いだ縁は、お互いの家格や貴族の勢力図、商売の都合やなんやかんや、つまりは諸々の事情を踏まえた純然たる政略である。
そこに当人たちの個性や能力、人柄を加味したとしても、19で学院を卒業するまでの7年もの時間があれば、十分な準備が整う、どこにでも転がっている貴族らしい婚姻の一つに過ぎない。
だからテオドールの成績がいまいちパッとしなくても、いつまで経っても婚約者に寄り添う姿勢が見られなくとも、形ばかりの婿であることが目に見えていても、メアリにとってはこの7年、それ以外のことにかかる時間や準備の方が、ずっと重要だったのだ。
だからここ最近、テオドールの周囲に女性の影がチラついていたとしても、彼を婿に迎えるにあたり、特に障害にはならないだろうと思っていた。
どの道、子爵位を継ぐのは次期子爵であるメアリの子だ。入婿の愛人の一人や二人が子を産んだところでなんの問題もない。
そしてまぁ、身も蓋もないことを言えば、だからこそ、テオドールとの婚姻はそれだけのものだったのである。
「お相手は隣国の伯爵家の方のようです」
テオドールにそう告げられた時には、ああ、この時勢らしい婚姻だなと、そんなことを思ったくらいで。
そして子爵以上の家格だと知り、テオドールのこの告白は、すでにファンネル家の知るところなのだろうと、納得もしたのである。
それもきっと、リアムにも既知の事なのだろう。
「お気を落としになりませんように、メアリ様に瑕疵はないのですから」
その言葉に思わず笑みが漏れた。
「ええ、私、不思議なほど何も感じていないんです」
数刻前それを告げたテオドールにも、その事実にも、なんの感慨も湧かなかったのである。
我が事ながら可笑しい。
メアリにも少女らしく、自分の結婚に、婚約者に、少しは期待していた頃があったような気もするのだが。
いつからだろう。
ふと目の前の青年の姿に、多分、リアムと知り合った頃かもしれないと思い至る。
貴族の婚姻の多くが政略といえど、お互いに支え合い、信頼を築く夫婦も数多いる。
幼いメアリにも、子爵家を継ぐ自分とテオドールとで、真に支え合う関係をという憧れはあったのだ。
だから自分に興味のない婚約者の振る舞いに、傷付いたこともあった。
けれどあの頃メアリの世界は一気に広がった。
婚約が決まり、父に着いて領地経営を学ぶ中で知り合った、貴族、商人、役人、町人の有力者、そして同じように実地で学んでいる他家の子息令嬢達。
それに比べ、月に一度のテオドールとの交流は、どうにも小さな世界に感じられたのだった。
テオドールにしてみれば、一気に大人びていくメアリに対し、面白くない気持ちもあったのだろう。
けれどその不満を顔に出し、メアリにぶつけてくるような子供らしさは、自分より年嵩の大人たちの会話に必死に着いて行こうとする自分やリアム達に比べると、なんとも幼いものだった。
それが年相応の子供らしさだったとしても。
いつも自分の一歩前で、大人達に囲まれ、堂々と言葉を紡ぐリアムのような子息令嬢達の姿を眩しく、少しでもそこに追いつきたいと思う頃には、テオドールに特に何の感情も湧かなくなっていたように思う。
この7年、まずは自分が、この領地を納めうるに足る人材にならなければと、そう思うばかりだった。
傷付く暇も勿体無いほど、大人達の世界は忙しく、そしてまた学ぶことが多くあったのだ。
目の前のリアムとの出会いも、この婚約の顛末の、一つの切掛ではあったかもしれない。
「学ぶことや、仕事にかまけていた私にも、至らぬところがあったのだと思います」
とはいえ、婚約は家同士の問題であり、国の承認を得た歴とした契約なのである。そして何より、捨ておけないのが貴族の体面である。
解消になるのか、破棄になるのか、はたまた白紙となるのか。けれど後はもう、現当主達に任せておけばいい。
この7年は決して短くはないが、見合うだけのものを、メアリはすでに手にしている自負がある。
背伸びしていた踵にヒールは馴染み、その視界の高さはすでに当たり前のものになっていたのだった。
「では、後はメアリ様の次のご婚約ですね」
いつもの、長引く商談の空気を鮮やかに切り替えるような声音で、リアムが朗らかに告げる。
「もしよろしければ、推薦したい者がおりまして。いかがでしょう?」
面白そうな光を宿した緑の目が、一際楽しそうに煌めく。
機を逃さない、その如才のなさに笑ってしまった。
「リアム様のお見立てでしたら、きっと間違いありませんね」
メアリの相談役として、ラザフォードの一部の家内産業だったリグラン織の商品を、扇、ハンカチ、ランプシェード、そしてついには太子妃殿下のご成婚のドレスにまで押し上げた手腕に、メアリの父も、リアムの生家も、今や王家ですら一目置いている。
縁者か、店の従業員か、顔の広いリアムの事だ、婿入りを希望する他家の次男三男か。
誰にしろメアリのこれからに変わりはない、領地のために粛々と、子爵家を盛り上げていくばかり。
「そう言っていただけると幸いです。婚約をせずに待っていた甲斐がありました」
そう言って笑うリアムに、そういえば彼は次男だったかと思い至る。
「…我がラザフォードに…リアム様のお眼鏡に叶うものがありましたでしょうか」
声音に驚きが滲んでしまった。
数刻前、婚約破棄を告げられた時とは比べるべくもない。
知り合ってから数年、身近にいる異性とはいえ、そういう対象に思ったことすらなかった。
「良いものを良いと語り合える相手というのは、何よりも得難いものですよ」
それは一重に、リアムがしっかりと線を引いてくれていたからだと、その声音で分かった。
今までの印象を鮮やかに塗り替えるような、面映くなるほど甘い響きだった。
「貴女には色味のある、鮮やかな色が映えると、ずっと思っていたんです」
過去数度、夜会の前に茶系のドレスを仕立てたのは、リアムの口利きのドレスショップでだった。婚約者の瞳の色とは言え、メアリの灰みのある栗色の髪色には、同系色の、地味な色合わせである。
今日も手元にある、先日仕上がったばかりのリグラン織の鮮やかな扇は、そういえば、リアムの瞳の色によく似ている。
本当に抜け目がない。でもそんなところも、身内になるなら一層、心強いばかりだ。
そう、その彼が、今までよりもずっと近い場所に居てくれるなら。
今までに感じたことのない気持ちが、メアリの顔にも滲み出たようだった。
頬が熱い。
リアムが嬉しそうに、緑の眼を煌めかせて笑った。
いつから彼の掌の上なのか。それもまたよし。
二人は雑貨好き同志。




