◆9 河童子の起源
藪沢は上屋敷長左衛門と別れた後、高下屋敷家に向かった。
門を潜り、広い敷地を通り過ぎ、大きな玄関の扉を叩いた。
「ごめんくださいませ。藪沢です」
大声で挨拶をすると、家の中からパタパタという足音が近付き、玄関の扉が開かれた。
「あらまぁ…先生、未卯ちゃん。もう昼飯だが?
すまねぁー、まだ用意出来てなぐで…」
顔を出したのは琴だった。
「いいえ、お昼は結構です。ありがとう御座います」
首を振る藪沢を見て、琴は首を傾げた。
「なら、治郎右衛門さ会いに来だのだが?
今さっき集会所周りの水路、確認さ出でしまった。
もうすぐ戻るど思うども、中で待づ?」
藪沢は少し考えた後、首肯して玄関を上がった。
通された応接室は昨晩食事した所とは違う部屋だった。
三十畳はありそうな大広間の畳敷きの上、長毛絨毯が敷かれ、大きな樫の一枚板で作られた座卓が置かれている。
「相変わらず広い…何部屋あるのかしら…?」
「掃除が大変なだげで、何の利点も無えのよ。
建物が大ぎぐでもねぇ…住む人が少ねぁーがらねぇ」
琴はお茶を用意しながら笑った。
「ああ…お構いなく。
村を出る前にお別れの挨拶に来ただけなので」
琴は目を丸くして藪沢を見た。
「もうだが?早ぇな…
河童子さの事、わがっだんか?」
「ええ。大体の事は。
…私の考察を聞きますか?」
藪沢も琴から視線を外さず、優しい声で問う。
「…おらはどぢらでも構わねぁーが、聞いで欲しいんだら、どうぞ」
菓子を乗せた盆を座卓の真ん中に置き、琴は微笑みながら対面に座った。
空気が変わった様に感じ、美作は二人を見比べながら黙って席に着いた。
◆
大学教授 藪沢壬午
さて…これからお話しする事は、あくまで私の持論です。独り言だと思って下さい。
答え合わせを求める様なものではありませんので、つまらなければ背景曲か虫の声だとでも思って下さって構いません。
先ずは、この村で河童子伝承が生まれた件の考察です。
その解説の前に、先に龍神川について改めて説明しなければなりません。
もし間違っていたら指摘して下さい。
伝承歌の蛇神とは龍神川の事。
この村の真ん中を蛇の様に横断する様から、川の隠喩として使用してきたのでしょう。
鏡谷擂の地名も、元は恐らく蛇谷擂。
山間を進む大蛇の通った跡の様な、特異な地形から来ているのでしょう。
…昔はよく氾濫した川だったのでしょうね。
川のうねり具合、川沿いに堆積した石土の種類、支流の分岐位置、葦の原の分布状況…。
過去に何度も溢れ、地形と川の形成を変化させてきた事が判ります。
昔の人達からすれば、龍神川の氾濫は蛇神の怒りの如く見えたのでしょう。
この村も、日本各地にある伝承と同様の方法で、神様の怒りを鎮めようとしたのです。
河童子伝承歌にも記載されています。
蛇神への生贄として、村の子供を捧げてましたね。
では、生贄の子供達をどの様に選んだか。
…ところで、現在この村の長は上屋敷家が務めている様ですが、代々そうなのでは?
…やはりそうですか。
現村長が上屋敷長左衛門、恐らく90歳超。
そこまで高齢になっても長の地位から離れません。
なのに、村民からは一切の異論が出ていませんでした。
昔は今と違い、選挙や投票等で長は選びません。
苗字からして、元武家。代官…地方官吏に近い役職だったのでしょうか?
この村では常に上屋敷家=村長=村の支配者なのですね?
生贄は普通、支配者とその周りからは選ばれません。
つまり、上屋敷と上田の者達の中からは選出しない。
ならば?
当然、下田の人達の中から選びます。
龍神川が氾濫すれば、下田の人が一番被害を被ります。河の近くに住んでますからね。
上田の人からすれば、河を鎮める為に対価を払うのは当然下田の者である。…その様に考えるでしょうから。
何百年前から始まったのかは、この河童子伝承が口伝でしか残ってないので判りません。
恐らくは長い間、上屋敷家が下田の家の人達の中から生贄を選出したのでしょう。
それは、蛇神の怒りの度に繰り返されたのでしょうね。
結果、その選出に対する強い不満や憤り、そして怒りが『河童子』という存在を生み出したのだと、私は考えています。
恐らくは、下田の人達による復讐が始まったのでしょう。
一方的に大切な我が子を殺されるのです。当然の感情です。
では、どの様に?
…双子や似た背格好の兄弟に、生贄にされた子供と同じ髪型、同じ服装をさせたのでしょう。
そして、上田の者達が見ている前でわざとらしく遊び、周りの子供達はその子を生贄の名前で呼ぶ。
蛇神が子供達を河の子供にして、生かして返してくれた…通称を『河の童子』と呼びなさい。
…その様な物語を聞かせながら。
万が一、再度その子が殺された時は、新たな『河童子』を用意する。
そして何度も何度も同じ物語を、上田の人達に見せつける。
下田の人達は口裏を合わせ、『河童子は神様の子。幾ら殺しても帰ってくる』等と言い、上田の人達に抵抗したのでしょう。
…ついには不死身の神の子『河童子』の誕生です。
河童子が成長しない伝承も、贄役の子供を皆が入れ替わり立ち替わり、交代で演じていたからでしょうね。
神秘性を持たせるのにも丁度良かったのでしょうし。
…ところで、皆様からお話を伺う中、私は少し違和感を感じました。
上田の方々は下田に行く事を酷く避けていた印象がありました。
未だに下田に建てられた集会所に行ったことが無いと仰る上田の方が居ました。
行くと年寄り達にとても怒られるから…だそうです。
同じ村の中なのにですよ?
河童子を見てしまうから?
確かに、これまで経緯を考えれば上田の人達が河童子に近寄りたくないと思う気持ちは解ります。
だけど、本当にそれだけでしょうか?
私は彼らの怯え方を見て、話を聞いて、それだけが理由では無いように思いました。
…気を悪くしたら申し訳ない。
…邪推ですが、下田に迷い込んだ上田の子供を拐って、龍神川に沈めていたのではありませんか?
行方不明となり、「蛇神様が河童子を蔑視する上田の人間を喰ってしまった」と言い触らす。
万が一、取り返しに来る上田の大人が居れば、鬱蒼と茂る葦の原に身を潜めて襲いかかり、何度も繰り返し龍神川に沈める。
そんな事を繰り返すうちに、上田は川を恐れて近付かなくなる。
子供達が下田に行こうとする事を止める様になる。
その位の怯え方でした。
…あくまで邪推です。当然、記録に残すつもりはありません。
上田の人達は誰も下田に近寄りたがらなくなる。
ついには、上屋敷家は龍神川の管理を下田に一任するしかなくなる。
必要な時以外、下田に近付く事もしないでしょう。
河童子と龍神川を鎮める役目は下田の役目。贄を出すのも選ぶのも下田の役目。
対価として、上田の者は必要な食料金銭を下田に分け与える。
結果として、裕福な下田と貧困の上田という逆転現象が生じた。
その名残は下田の人達の苗字にも表れているのだと思います。
下田の方々の苗字に『高』『鷹』『貴』等の1字を加えたのは、河童子伝承のせいでしょう。
元々は下屋敷や井、田など、身分、土地の特徴だけを捉えただけのもの。
その周辺に住む者として、井戸北の〇〇、◯番棚田の〇〇〜と呼んでいたのでは?
それが、明治八年の平民苗字必称義務令の時、井、田、下屋敷で登録する事に対して、異議が出たのでしょう。
その時には既に、下田の人達は『神の子』を祀る祭祀。
単純な苗字は相応しくない…と、抗議したのではないでしょうか?
『巫女』や『祭儀者』という立場に相応しい苗字を下田の方々が求め、上田の方々が応じたのでしょう。
当然、公式記録には残っていないでしょうし、完全に個人的な推測ですが。
そして名前です。
下田の方々は、氾濫の無くなった後に産まれた男子にまで、『二番目』や『水』に関連する漢字を付けていましたね。
これは、上田に対する威嚇・脅し、嫌がらせがあったのではないかと…これも邪推ですね。
お前達に長男を沈められた、河の管理者に手を出すな…等の婉曲的な意図を含んだ名付けだったのではないでしょうか?
上田の方々の名前には、普通に長男を意図する漢字が含まれてますからね。明示的な対比でしょうか?
…長々と話してしまいました。
結論ですが、上田と下田は表面上はお互いに助け合う関係に見せつつ、実は、下田の方々が上田の方々を脅している関係だったのではないかと考察いたします。
その結果生まれたのが『河童子』なのではないですか?
…ふむ…名前だけでは上田を脅している証拠としては弱い?確かに。
ただ、上田の方々が下田全体を酷く嫌悪、忌避しているであろう証ならばありました。
道祖神です。
ご存知ですね?
この高下屋敷の裏手の丘を登って上屋敷家に続く道の途中、草むらの陰に道祖神がある事を。
上屋敷家が祀ったのでしょうか?
長左衛門さんが大切にしてらっしゃいました。
道祖神の役割のひとつに『厄の排除』があります。
村の外と内の境で道祖神を奉る事で、外から齎される『災厄』を防ぐ。
そう。本来は村の内外なのです。
何故、上田と下田の境にあるのでしょうね?
鏡谷擂の村の実情は、鏡谷擂上田村と蛇谷擂下田村に別れている。
上田の人達にとっては、下田の『河童子』は『災厄』に等しい『祟神』なのです。
しかし今は明治でも大正でもありません。
近現代に入ってまで、上田の方々は未だに恐れ続けています。
下田の川底に住む『河童子』が、上田まで昇って来る事を?
未だに彼等が恐れる事が続いているのか?
まだ僅かに足りないのです。情報が。
…出来たらお聞かせ願えませんか?
高下屋敷琴さん、貴女なら全てを知っているのでしょう?