◆2 鏡谷擂村
「遠いどご、良ぐ来てくれだ。藪沢せんせ」
村の集会所に着いた藪沢達を出迎えたのは、恐らくは還暦を20ばかり過ぎたであろう年齢の老人、高下屋敷家の主人だった。
「この村の『下田』の長やってら、高下屋敷治郎右衛門と申します。
よろしく見知り置ぎを」
農作業着のまま、座敷の上から挨拶するお爺さん。
腰は少し曲がっているが動きはキビキビしている。
外仕事を長年、真面目に続けた結果の土方焼け。
農業に適した筋肉に覆われた肉体。
顔に入ったシワの数と反比例するかの様に、若々しい身体つきをしていた。
「わざわざお出迎えいただき、有難うございます。
藪沢壬午と申します。
文学部の教授をしております。
ある程度の話は治三郎君から伺っております。
今回は実地での調査を許可して頂き、感謝致します」
藪沢は深々とお辞儀をして、謝意を伝えた。
治郎右衛門は藪沢の丁寧な態度を見て一つ頷き、ゆっくりと口を開いた。
「偉え大学の先生が、この村の伝承記録さ遺してけるのは、大変喜ばしい事だ」
深い皺をニュッと曲げて、黒く日焼けした口角を引き上げて微笑んだ。
「孫の治三郎は大学休めねぁーそうで、村には戻れねぁーらしい。
先生さ案内出来ねぁー事、詫びでらった。
出迎えはおらだげだ。すまねぁー」
藪沢壬午は、此処、鏡谷擂村に来る前に、あらかじめ必要な話は通しておいた。
彼のゼミ生に、高下屋敷治三郎という学生が居る。
藪沢は治三郎から、彼が生まれ育った村に特異な伝承があるという話を聴き、強く興味を惹かれた。
治三郎を通じて村民や彼の親族に連絡を取り、現地取材と、この村関連の発表に関する許可を手に入れていた。
その際、治三郎の先生ならば…と、宿泊出来る場所も村の方で用意してくれたのである。
しかし…
「…孫がらは、来るのは先生お一人ど言う話だったど思うのだけれど?…
…そぢらのおなごは?娘さんだが?」
集会所の入口に立つ美作を、怪訝な目で見る高下屋敷治郎右衛門。
歳の割には鋭い眼光で、彼女を睨みつけている。
自分の事が話題に上がった事で、美作はニコリと微笑んで応えた。
「始めまして。
私は藪沢の助手を務めます未卯と申します。
藪沢の義娘です。
なので別部屋の用意等は結構で御座います。
空いている場所で適当に休ませて頂きますので…」
しずしずと頭を下げ、おっとりと上品に『礼』を示す美作未卯。
彼女の変貌に驚き、藪沢は顎が外れそうになった。
だが、かろうじて口を挟まずに我慢した。
ここで話が拗れると、約束が違うだとか揉め始め、最悪、現地調査にならなくなる可能性を懸念したからだ。
「ほぉ…実娘さんでしたが。
確がに、調査さ助手はづぎものだべ。大変なすごどだがらね。
テレビでも、そったな事言ってらった気がするなぁ。
……そごまで考えが至らずにおもさげね。
部屋は、集会所の此処しかねぁーが、後で追加の布団届げさせるべー」
彼女の人畜無害そうな笑顔に絆されたのか、騙されたのか、彼は優しい笑顔を浮かべて、彼女の宿泊許可も出してくれた。
藪沢達は靴を脱ぎ、畳座敷に上がった。
治郎右衛門は、集会所の各部屋を軽く紹介した後、畳座敷に戻って自分の上掛けを脇に抱えた。
そして、部屋に置かれている物は自由に使ってくれて構わない、必要な物があれば言ってくれれば届けると言いながら、自分の履物に手を伸ばした。
「んだんだ、ご飯はおらの家で用意するがら。
…んだなはん、五時ぐりゃーになったら来てくなんしぇ」
彼は、農作業用ニッカボッカの上に被せる様に深底の靴を履き、足首全体を脚絆でギュッと絞めた。
「至れり尽くせり、有難うございます」
「治郎右衛門様のご厚意、ご親切に、深く感謝致します」
藪沢が軽く頭を下げる横で、美作は両手両膝を揃えて正座し、深くお辞儀をした。
「良ぐ出来だお嬢さんだね。ウチの孫の嫁さ欲しいな」
彼はそう言って、笑いながら軽トラックに乗った。
そして、窓から軽く手を振りながらエンジンをかけて、集会所を後にした。
「…流石は、ぬらりひょんだな」
藪沢は頭を下げたまま美作に向けて囁いた。
「誰が茶飲み妖怪ですか。
此処では『実娘の未卯』と仰って下さいませ。お義父様」
彼女は治郎右衛門に見せた作り物の笑顔を藪沢に向けた。
◆
「随分と辺鄙…長閑な村に来ましたねぇ。先生」
集会所の畳の上で、ゴロゴロと転がる美作未卯。
先程までの『出来た娘』の皮を脱ぎ捨てた途端、ひどくだらし無い姿へと変貌した。
藪沢は彼女を無視しながら、調査用機材の準備を始める。
「先生ぇ先生ぇ…『下田』の主ってどういう意味です?」
美作は、先程の治郎右衛門との会話中に気になっていたらしいが、話の腰を折らない為に遠慮していたらしい。
藪沢は言おうかどうか迷った。
だが、彼女を助手として紹介してしまった以上は、彼女も知っておかないと色々と余計に勘繰られると思い、仕方無いかと愚痴を溢しながら口を開いた。
この村はすり鉢状になっていて、川に近い家々を『下田』、川から離れ、坂を登った防風林に隔たれた先の家々が『上田』と呼ばれている事を説明した。
「高下屋敷の家は代々、川沿いの家々の纏め役をしているそうだ」
彼は、学生の治三郎から聞いていた話を、彼女に聞かせた。
「へぇ…高下屋敷君って、村の有力者のボンボンだったんだ〜」
しょっちゅうゼミに潜り込んでいる彼女は、当然、高下屋敷治三郎とも知り合いである。
「乗り換えてもいいんだぞ?
治郎右衛門さんも喜ぶだろう」
藪沢は、美作が息子から離れてくれる事を期待半分に、軽口で促した。
「私は貴方の息子様一途ですのよ?浮気は致しませんの。
安心して下さいませ。お義父様」
彼女は口角をわざとらしく持ち上げて、ゾッとする様な笑顔を作ってみせた。
「表裏ありの妖怪みたいな奴が傍に居て、安心出来る訳ないだろう?」
藪沢が嫌味をぶつけると、美作は「ひどーい」と言いながらケラケラと笑った。
「ところで先生、『上田』の纏め役は誰なんですか?」
寝そべり、大の字の格好のまま聴いてくる美作。
「上屋敷さん…だそうだ。
しかし伝手が薄くてな。連絡は取れなかった」
藪沢は彼女から目を逸らし、ビデオカメラの動作チェックを始めた。
「下田が高下で、上田が上ですか。
単純な様な奇妙な様な…変な苗字ですねぇ」
美作はうんしょと起き上がり、胡座をかいたまま縺れた髪の毛を手で梳く。
「それで、この村の特異な伝承とは何なのですか?お義父様」
彼女は藪沢の背中に問い掛けた。
「河童子…と呼ばれている妖怪の伝承だ」
藪沢はボイスレコーダーを胸ポケットに仕舞い、ビデオカメラのバックを肩にかけ、ゆっくりと立ち上がった。