◆11 姿
…どうが、どうが…お願いします。
そう言って、琴は三指をついた。
深々と頭を下げる彼女の様子は、昨夜から今朝にかけての彼女とも、藪沢が考察を話していた時の彼女とも違った。
子供を心配に思う母親の様だった。
藪沢は彼女の話と態度に圧されて、黙って頷く事しか出来なかった。
突拍子もない話に困惑する藪沢達は、お互いに顔を見合わせた。
先に口を開いたのは美作だった。
「先生…お暇しましょう…」
そう言って彼女は腰を上げた。
藪沢は頭を下げたままの琴に向き直り、口を開いた。
「…直接の御礼も出来ずに立ち去る非礼、お詫びしていた事を治郎右衛門さんにお伝え願えますか?」
「承った。どうかご安心くなんしぇませ」
藪沢は琴に伝言をお願いすると、彼女は静かに顔を上げて承諾した。
その時、藪沢達はギョッとして目を見張り、琴の顔をまじまじと見つめた。
「顔が……」
ポツリと漏らした美作の言葉に気付いて、琴は自分の顔に触れた。
そして自分の腕を見ながら、ああ…と呟いた。
今の琴の顔付きはとても幼く、瞳の虹彩が猫の様に縦に伸びていた。
両腕は細く、二の腕には薄く鱗の模様が浮かび上がる。
がっしりしていた筈の彼女の身体は華奢になり、十代前半の娘の様相。
藪沢達は、思わず息を止めて覗き込んでしまった。
「ああ…すまねぁー。…血の気が引いで姿が戻っただ。
あの子らの事、こったら話したのは初めでだったがら、結構緊張したがらね。
人の血が薄まり、あぢらの血の方が濃ぐなる時さ、まなぐつぎが戻ってしまうのだ」
そう言いながら二、三度瞬きをする。
すると顔も肌も元に戻り、身体つきもがっしりと太くなる。
琴は、いつもの朗らかな母親姿の彼女に戻った。
「これは記さねぁーで欲しいのだけれどね。
実は、河童子は成長する事も出来るんだ。
…らずもねぐ遅いどもね。
おらは、こう見えでも上屋敷の長左衛門よりも、ずっとずうっと歳上なんだ。
上屋敷のもんと下田の連中は知ってらよ。
…下田の幾人がは、おらと同じだがらね。
んだども…息子は知らね。
…治三郎には、どうが内緒にしてででくなんしぇ。
あの子は、普通の人どして生ぎで欲しいがらな…」
琴は、そう言って再び頭を下げた。
藪沢は静かに立ち上がり、頭を下げたままの琴に一礼して部屋を出た。
「………じゃあね。琴ちゃん。…またね。
ご飯、美味しかった。ありがとう」
そう言って部屋を出る美作の後ろ姿を、琴は何も言わずに、平伏したまま見送った。
◆
藪沢達は集会所に戻り、荷物を纏めていた。
リュックに機材を仕舞いながら、二人は高下屋敷家で見た事をぽつりぽつりと話した。
「先生…」
「彼女の話にはなんの根拠もない。
鶏泥棒と血の手形を誤魔化す為の作り話だ」
「でも琴ちゃんの顔…」
「…君の見間違いだ」
「先生も驚いていましたよね…?」
「……」
「長左衛門さんが琴様って言ったのを聞いて、琴ちゃんが村の長だと判断したんですよね?」
「…そうだな」
「彼女が河童子なら神の子だから…」
「…伝承は実存してはならない…もし在れば…」
「在れば…?」
「…いや、よそう。話は此処までだ」
「……」
藪沢達が荷物を片付けて集会所の玄関を閉じた時、丁度背後にトラックが止まった。
「おっ?先生、未卯ぢゃん、…何してらの?
まさが…河童子の調査は終わったが?」
高下屋敷治郎右衛門が、トラックの運転席から手を振りながら声を掛けてきた。
「ええ…一通り聞ける事は聞いたので、今日中に帰って原稿に取り掛かろうかと思います。
挨拶が後になり申し訳御座いません」
藪沢は冷静さを装い、淡々と答えた。
「ああ…もう帰るどいうのは寂しいなぁ。
もう一晩ぐりゃー泊まってっても良いんだよ?」
最初に逢った時と違い、警戒を解き、柔らかな笑顔で二人に接する治郎右衛門。
「有り難いお誘いですが、あまり大学を空にすると生徒達が寂しがるので…」
「それもそうだな。仕方ねぁーねぇ。
どれ、この車で送ってあげるべー。
何処までえぐのだが?」
断るのも変だなと考え、藪沢は了承した。
「ちょっ…私は何処に乗れば良いんですか!?」
二人乗りの軽トラックを見て、美作は二人を呼び止めた。
「ああ…荷台で我慢してくなんしぇ」「お前は荷台だ」
治郎右衛門と藪沢の声が被る。
美作は頬を膨らませて抗議したが、治郎右衛門がエンジンをかけると、慌てて荷台に跳び乗った。
◆
「こったなとごろで良いのがい?」
治郎右衛門は、藪沢達が村に入って来た時に使用した登山道の出口まで来ると、エンジンを止めて二人を降ろした。
太陽は昼を僅かに過ぎた位置。
丁度、昨日二人が村に入って来た時と同じ時間帯だった。
「相変わらず…綺麗…」
美作は昨日と同じ位置に立ち、同じ景色を見下し、感嘆しながら呟いた。
「ありがどごあんす。綺麗な光景だべ?
…んだども、時代遅れな光景だ。」
治郎右衛門も彼女と同じ方向を見ながら、しかし寂しそうに呟いた。
「おららの代が居なぐなれば、この景色も河童子の事も、誰もが知んねぁーまま消えでってしまうのだ」
治郎右衛門は溜息をついた。
「若え者達は、皆、都会さ出でってしまう。
田んぼ継ぐ者が居なぐなれば、川整える者も必要なぐなる。
河童子達、識る者が消えでしまうのは辛えこった」
彼は龍神川をじっと見つめながら瞳を潤ませていた。
愚痴とも嘆きともいえる彼の言葉を聴いて、藪沢が口を開く。
「…まだ、治三郎君が居ます。
それに私の記す河童子伝承を知れば、うちの若い連中もこの村に来ますよ」
空虚な言葉だなと思いながら、彼は治郎右衛門を慰めた。