◆1 来訪者 藪沢壬午と美作未卯
藪沢壬午が鏡谷擂村に着いたのは、太陽が頂点から傾き始めた頃の事だった。
藪沢壬午は大学の教授である。
主に日本古代史と民俗学、そこから派生する古い奇祭や神道、神霊信仰の伝承を研究し、纏め上げて発信している。
書籍もそこそこ売れており、日本を舞台にした歴史ドラマや映画等で監修に加わる事もある、ある程度に名の知られた人物だ。
そんな彼は今、山の斜面の木々の間に立ち、足下に広がる景色を一望していた。
山々に囲まれた巨大な盆地と、そこに広がる田畑と村落の風情は、まるで半世紀前から時間が止まったかの様。
令和の今では殆ど見られなくなった希少な光景が、彼の足下に広がっていた。
鏡谷擂村
東北地方に在る小さな山村。
村は楕円形の盆地の中にあり、周りを囲む険しい山々が村と外界を隔てている。
村に続く道は細い山道が主。
自動車道もあるが、長く曲がりくねり、山を幾つも越えないといけない遠回りの道。
何処かへ向かう幹線道路の途中にある様な宿場村ではなく、この村が長い経路の最終端。
この村に来る目的のある者以外に立ち寄る人間は居ない。
「先生〜、シャツが張り付いて気持ちが悪いですよぅ。
痛!…靴擦れ出来てるぅ…
ああ…お気にのパンプスが泥々じゃないの…
…こんな田舎に来ると知ってたら、スニーカーで来たのに…!
ねえ、聴いてます?先生。
何で行き先を前もって教えてくれなかったんですか?」
「………」
藪沢は最寄りの幹線道路に車を止めて、歩いて山を越えた。
ハイキングコースに入り、背後から聴こえる声を無視しながら細い山道を1時間かけて歩いてきた。
車で来るより早いからだ。
「ようやく開けた場所に着いたと思ったら、何ですか?此処。
随分と古臭い村ですねぇ…。昭和か?」
「……」
よくもまぁ…1時間もの間、ずっと喋り続けられるものだな。
藪沢はその女声に感心しつつ、聞こえない振りをしながらリュックからカメラを取り出した。
ファインダー越しに見る景観は美しかった。
険しい山に囲まれた古い村。
田畑の間にポツポツと見える茅葺きの屋根。
村の中心に向かってなだらかに形成された、緩いすり鉢状の段々畑。
そして村の中央を貫く川。
この村を紹介してくれた学生の話によれば、あれが龍神川と呼ばれるものなのだろう。
太い本流は、村の中央を蛇行しつつ貫いている。
本流から分かたれた細い支流は各田畑に向けて腕を長く伸ばし、村全体に水を分け与えている。
その姿はまるで、大きな生き物の体内を巡る血管の様に見えた。
「うわー!水、綺麗ですねぇ!
気持ちよさそうですねぇ…私も水浴びしたいなぁ。
服、ベトベト…汗流したい!
鮎いるかな?ご馳走様です!先生」
「……」
田んぼの水は冷たく透き通り、太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
村全体が宝石を散りばめた様に美しく、この光景に額を被せるだけで、見事な芸術作品と呼ばれるだろう。
「面白い形の村ですねぇ。
防風林というか防風森林?が川から一定の距離に綺麗に並んで、川の周りとそれ以外の場所を隔てている様に…」
「……」
パシャ…パシャ…
藪沢は逆光に気を付けながら、黙々と写真を撮り続けた。
手巻き式の古いマニュアルカメラのフィルムを1枚1枚送る度、彼は顔を上げて川の様子をじっと見つめた。
しばらく見つめた後、再びファインダーを覗き込んでシャッターを切り始める。
彼は一言も発さずに、村全体の様子をカメラに記録していった。
「ねぇ!先生、聴こえてます?
おーい!おーい!!」
…カシャッ!
背後から執拗に響く女声が山峡にこだまする。
その大声のせいで藪沢の手が振れ、ピントがずれてしまった。
「五月蝿い…君はいつも」
これ迄無視し続けていた藪沢も、流石に我慢の限界に達して、彼女の声に応えてしまった。
美作未卯。
藪沢の元ゼミ生なのだが、卒業後も彼のゼミに入り浸り、気付くと生徒達の間に紛れ込んでいる。
藪沢は陰で、彼女の事をぬらりひょんと呼んでいた。
彼女は他人と簡単に馴れ合える性格。
毎年ゼミに現れては、新しく入って来た学生達とすぐに仲良くなってしまう。
藪沢が彼女を追い出そうとすると、何故か彼が非難される。
そのうちに面倒くさくなり、彼は彼女が居座っていても無視する様になった。
元々、美作は経済学部に在籍していたが、とある事情で文学部へと移ってきた。
◆
こいつは昔から何を考えているか良くわからない奴だった。
はじめて会った時は、彼女の事を在学生だとは思わず、迷子だと思って追い返してしまった。
それくらいに幼い。見た目というより性格が。
行動に落ち着きがない。
回りくどく聞こえ良く言えば、子供の様な素直さと正直さを持った天真爛漫な娘。
端的に言えば五月蝿い。学生風に言ってウザい。
そのくせ論文は良いものを書くので質が悪い。
元々経済学部で優秀な成績を修めていたのに、途中から文学部に移ってきた。
単位不足・経験不足になる事も承知の上でだ。
なのに1年からずっと在籍している学生達よりも、遥かにマシな論文を提出する。
ただの馬鹿なら追い出せるのに、学校側から見ると非常に優秀なので、周りの教員達からは羨ましがられ、経済学部の教授達からは妬まれた。
ようやく卒業したかと思ったら、仕事の合間に来校し、私のゼミに顔を出す。
それだけでなく…
「…だってえ!先生が私の事を無視するんですもん!」
「そもそも同行を許可していない。
もう学生でもないのだから、フィールドワークがしたいなら一人で勝手にやって、一人で帰りなさい」
美作は、この村に来る為に朝早く大学を出た私の後を、勝手に尾行して来た。
「先生!いえ、お義父様!お手伝いさせて下さい!」
私がハイキングコース入口の駐車場に車を入れた時、すぐ隣に停まった車から降りてきた時のコイツの一声がこれだ。
「…手伝いはいらない。一人で充分だ」
「そんな事言わずに。未来の義娘が手を貸しますよ」
終始こんな調子だ。
コイツは息子のストーカーなのだ。
「この村の伝承を調べたいなら勝手に調べたまえ。
私の調査の邪魔をするな」
「ひどーい!せっかく手助けしてあげようと思って、ついて来てあげたのに!」
「頼んでない。荷物ひとつ持たないで何を言っている」
私の息子に惚れているらしい。
しかし、その息子は大学を途中でやめてしまった。
我が家にまで押し掛けたそうだが、当の息子は現在絶賛引き篭もり中。
会う手段を探っている最中に私が彼の実父だと知った彼女は、私に近づく為に文学部に移ってきたそうだ。
「将を射んと欲すれば…」
悪びれもせずに私の学生達に言っていたらしい。
誰が馬か!
「未卯はきっとお役に立ちます!」
そんな事ばかり言うが、途中から移籍して来たせいもあって、圧倒的に実地経験不足。
成績とレポートだけでも充分卒業資格があったので、手を尽くして社会に放り出したというのに。
ブーメランよりも早く戻って来た。
「優秀なわたくしの活躍、是非、息子様に喧伝して下さいませ!お義父様!」
…うるせぇ…この、ぬらりひょんが…!