どうしてだか、知っているような気がする
双葉たちと別れたイズムスは、王宮を抜けて別邸へと戻る為に入口に向かって歩いていた。
入口には、待たせてあった馬車がある。その前で供として一緒についてきていたイッサンと言う初老の付き人は、青ざめた顔で行ったり来たりしていた。
「イッサン」
「あぁ、イズムス様! どちらにいらしてたんですか!」
仕えるべき主が戻ってきたことに心底安堵したのか、イズムスの元に駆け寄ってきた。
「もう毎回毎回やめて下さいよ。国王陛下にこの事が分かってしまったら、私の首が危ないんですから……」
「何でさ? ちゃんと仕事をしているんだから、別に問題ないだろ?」
「そこですよ! 仕事をしているって言いながらフラフラされてばかりじゃございませんか! そんな事が知られたら、どんな理由をつけるおつもりでいるんですか!?」
あぁもう駄目だ。そんな事を考えたら恐ろしさのあまり死んでしまいそうだ。
そんな勢いのイッサンに、イズムスは大きなため息を一つ吐く。
「最低限やるべき事はやってるだろう? それでイッサンに何か被害がこれまであったかい?」
「いいえ、ございません。ございませんけれども、仕事を途中放棄してどこぞへ行かれているのも事実でございます。その事が知られたらと思うと気が気ではないのです」
「本当に、イッサンは心配性だなぁ。大丈夫だよ」
ポン、と肩に手を置いて馬車に乗り込んだイズムスを、イッサンはしょんぼりと肩を落とした。
「イズムス様。このイッサン、あなた様を幼い頃から見てまいりました。これから先もあなた様にお仕えすることが私めの生き甲斐でございます」
「うん。ありがとう」
馬車のドアを閉じると、ゆっくりと馬車は走り始める。
王位継承権を持たないイズムスが、なぜ本来継承権を持つ第一王子のアジールがしなければならない仕事までも担ってしなければならないのか。
それもこれも、アジールが聖女に入れ込んでいるからだ。
この世界には異世界から召喚される聖女信仰は強く根付いている。聖女は世界を救ってくれる。それが当たり前のようにあるからこそ、アジールは常に聖女の傍にいて彼女に入れ込んでいる。その様子はとてもではないが目も当てられない。さらに言えば、その聖女はあちらこちらでお眼鏡に叶った男たちを周りに侍らせており、その聖女の手がイズムスにも伸びているのは言わずもがなだった。
アジールの腑抜け具合にも反吐が出る。王宮に溜まっている仕事は全てイズムスが捌かなければならず、彼は毎日のように王宮に来てはその仕事の処理を行っていた。
「面倒ごとは嫌なんだ。なのに勝手に巻き込まれて……僕はもっと自由に生きたい」
来る日も来る日も同じように書面に向かったり、外交に出たり……。イズムスは息が詰まりそうになり、ちょっとした気晴らしのつもりで公務の合間を縫ってはサボる事を覚えたのだ。
イッサンにとってはそれがとても気がかりになっているようで、落ち着かないらしい。
イッサンには家族がいて稼ぎ頭となっているのだから、例え小さなミスでもおかしたくないと思う気持ちが強いのも分からないわけじゃない。だからといって真面目一貫がいいかと言われるとそうではない気がする。
「……肩肘張り過ぎなんだよ、イッサンは」
ふぅ、と溜息を吐いて、窓から外に目を向けた。
離れていく王宮を見つめて、イズムスはもう一度溜息を吐いた。
眉間に深い皺を刻み、ため息交じりに頬杖を付いて窓の外を見つめていると、思い出されるのは葉平と双葉の姿だった。
彼らの名前から、聖女と同じように他の世界から来たのかもしれないが彼らには縛られるものがないように見えた。もちろん、必要な生活での束縛などはあるかもしれないが、それでも……自由だ。それが羨ましくて、色々話を聞きたいと思った。
葉平とはあのバラの庭園で愛読書を読みながらのんびり過ごしている時に、王宮の庭師が丹精込めて綺麗に整えている生垣の真ん中から顔を覗かせたのには驚いた。
理由を聞くと、「この少しの隙間が、くぐれそうな感じだったから」と屈託のない笑みを浮かべて答えた彼の姿に、イズムスは思わず笑ってしまった。
王宮内では見たこともない子供の姿にも驚いたが、彼のその身なりが貴族ではなく市民の姿をしていることが一番驚いた事でもある。
「君……王宮の子じゃないね?」
「うん。俺、お母さんと一緒にさっきここに来たんだ。何か、王様がお母さんの作るパンを気に入ったからなんだって。今日からここで働く事になるみたい」
と、あっけらかんとした口調で話してくれた。
普通、貴族と分かれば遜る人間がほとんどの中で、葉平はそんなことなどまるで気にしていないようだった。それがやけにイズムスには興味をそそられて、彼に色々な話を聞いてみたくなったのだ。
その中で、彼は母親と二人暮らしだと言う事、日本の鎌倉と言う聞いたこともない場所から来たのだと言う事を知った。
「どうしてここに来たのか、俺も分からないしお母さんも分からないんだよね。家に帰る時に階段から落ちたのは確かなんだけどさー」
話せば話すほど、葉平の人当たりの良さと人懐っこさにどんどん惹かれていく自分をイズムスは感じていた。
そうだ。自分は他の誰かに遜ってほしいわけじゃなく、敬ってもらいたいわけでもない。
普通の人として、一人の人間として接してもらいたいと心のどこかで感じていた物を、葉平はいとも簡単にやってのけている。
だからこそ彼とその母親である双葉に強い興味を抱いた。
「君は名前は何て言うの?」
「俺? 俺は葉平だよ。お母さんは双葉って言うんだ。お兄さんは?」
「僕はイズムスだよ」
「そっか」
葉平と双葉……。
この辺りでは聞かないような変わった名前だから、イズムスはすぐに記憶する。
「ねぇ、お兄さん、それ何読んでるの?」
ふいにそう訊ねられ、葉平はイズムスが持っていた本に興味を示す。
執務室から持ってきたイズムスの愛読書でもある「冒険奇譚」なのだが、覗き込む葉平にはまるで読めない。
「俺、ここの文字知らないんだよね。お母さんもなんだけど、お母さん、字が読めなくて困ってるときがあったから……」
「……じゃあ、僕が教えてあげようか?」
「ほんと!? 教えて!」
心底嬉しそうな表情を浮かべる葉平に、イズムスは初めて人に頼られる事がこんなにも嬉しいものなのだと感じることが出来た。
自分が知っている知識を、葉平が望むならいくらでも教えてあげたいとさえ思った。
「じゃあさ、それ最初から読んでよ」
「あぁ、いいよ」
そうして読み聞かせながら、机の上に広げた本を見ながら葉平は「今どこ読んでんの?」「今ここ?」と指で追いかける。その中で不思議に思う単語が出てきたら「これは何て読むの?」と意欲的に聞いてきた。
この時間がイズムスにはとても楽しくて、つい夢中になってしまう。
その最中に、双葉がバラの生垣の端からひょっこりと顔を覗かせてきたのだ。
「葉平?」
「……!」
「あ、お母さん!」
背後から声をかけられて、葉平が双葉に駆け寄る姿を追いかけるように後ろを振り返ると、思わず息をのんだ。自分より年上なのだろう双葉。その姿を見た瞬間にどこかで会ったことがあるような、そんな感覚が押し寄せてくる。
どこかで会っている? いや、それはないはず。
葉平たちは王宮に来たのはついさっきだと言っていた。何より、その期間に遠出するような事もないのだから“どこかで会ったことがある”と言う感覚自体がおかしい。
それでも、なぜかその感覚が拭いきれずに呆然と双葉に見入ってしまった。
「ご、ごめんなさい! うちの子がご迷惑おかけしませんでしたか?」
そう言って頭を下げる双葉から、どうしても目がそらせない。
ただ無性に彼女をここに繋ぎとめておきたい衝動が強く出る。そして、他の人間と同じように遜るのでもなく敬うのでもない、普通に接してほしいとさえ強く望んだ。
どうしてそう思ったのか良く分からないけれど、彼女との繋がりを求めたくて仕方がなかった。
「フタバ。明日もここでまた会えませんか?」
急ぎこの場を立ち去ろうとした双葉に対して、ついそう聞いてしまった。
戸惑っている様子の彼女だったが、絶対ではないにしても来れたら来ると言ってくれたことに安堵を抱き、同時に楽しみに感じた。
「公務はちゃんとやるよ。だけど、あの二人に会う時間も作るから」
イズムスは誰に言うでもなく、近づいてくる別邸を見つめながらそう呟いた。