気持ちは嬉しいけれど、今じゃない
「今度の新作パンはこのクルミパンにしようと思ってたんだけど、ちょっと欲張って取ってき過ぎちゃったかしら……」
まだ割ってないクルミは20個近くある。でも私にはもう割る元気はすっかりなかった。
厨房で包丁片手に黙々と割り続けていたけれど手も痛くなってしまったし、残りのクルミはまた別の日に割る事にして割った30個の中身を先の尖った串で取り出していた。
殻から取り出すと、ほんとに少量に見える。それくらい殻が固くて分厚いって事なんでしょうけど……。
葉平にも手伝ってもらってさっきよりは捗っているけど……いい加減飽きてきたわ……。
この苦労があるから美味しい物が食べられるって言うのは分かるのよ? この手間を惜しんでたら美味しい物が出来ない事もね。だけど途方もないわ……。
割ったクルミは30個だけど、二つに割ったから見た目60個。今日中に終わるかしら。
「フタバ。僕も手伝いますよ」
「え? そんな、あなたにやらせるわけには……。これは私の仕事でもあるし……」
正直、イズムスが手伝うと言い出して私はうろたえた。
こんな地味な作業をさせてしまうのは申し訳ない。手も黒くなっちゃうし……。
「いいんです。やらせてください」
「……じゃあ、少しだけ」
ほんとはあまり気乗りはしないのだけど、正直なところ手伝ってくれる事は私としてはとてもありがたい。
串とクルミを手渡すと、イズムスは見様見真似で実の取り外しに取り掛かった。
だけどやっぱり慣れてないせいか、串を刺してそのまま持ち上げて取ろうとするから、実がボロボロと崩れて砕けてしまう。
ふと隣を見れば、葉平はコツを掴んだのかスルスルと殻と実を綺麗に外して行っている。しかも良く分からない鼻歌まじりに夢中になっているところを見ると、楽しいんだろうなぁって思った。
「イズムス。これはね、こうやって取るんですよ」
私は実の部分に串を刺し滑らすように押し出すと、何の抵抗もなくスルンと外れた。
それを見ていたイズムスも同じようにやってみせるのだけど、やっぱり上手くいかなくて変に力が入ってしまうのかボロッと崩れてしまう。
ふふふ……。実はちょっと不器用なのかしら。
でも頑張っている姿を見ると、余計な口出しはしたくないと思った。あんまりあれこれ言うとやる気がなくなっちゃうから、私はあえて見守る。
苦戦するイズムスの隣で、私も実を外しながらさっきあった事を何となく話し始めた。
「最初ね、このクルミの殻を割るのにどうしたらいいか分からなくて、料理長にどうやって割ったらいいかって聞いたんですよ」
「料理長ってあの、ちょっと独特な雰囲気の方ですよね」
彼なりに気を使っているのかかなり控えめな言葉を選んで言っていたけど、言ってもフローラさんはそっちの人だものね。
「そうそう。それでその料理長がね、最初金槌を渡してきたんだけどやっぱり上手く割れなくって。そしたらその料理長がやってくれたんだけど、使い物にならないくらいものの見事に粉々になっちゃって」
それによって負傷者が数名出たと言う事は伏せておこう。私も加害者の一人だし。
粉々に砕けたクルミに対してはドヤ顔してるくせに、そのせいで負傷者が出て結果的にフローラさんの負担が増えて狼狽えていた姿を思い出すと笑ってしまう。
「パワフルな感じの方でしたからね」
「ほんとに、毎日そんな感じだから私としては仕事が飽きなくて楽しいんですよ」
くすくす笑いながら、顔の横に下がってきた髪を耳にかけ直して手元の作業に集中する。
その後会話が少しの間途切れて、殻から実を外す音だけが響ていた。
私はと言うと、今日中に殻から実を外せるかどうかが心配でせっせと手元の作業に集中していたんだけど、ふとイズムスの動きが止まっていることに気が付いて顔を上げた。
視線を上げてバチッとかち合った視線に思わずドキッとしてしまうけど、それ以上にイズムスの顔が赤らんでいる事が気になった。
「……イズムス? 本当に大丈夫?」
「え……」
「顔赤いわ。やっぱり熱があるんじゃないですか?」
クルミと串をテーブルに置いて彼の方へ少し身を乗り出して手を伸ばすと、イズムスはその手から逃れるように身を引いた。
え。何。何で逃げるの?
「だ、大丈夫ですよ」
「大丈夫って言うけど様子も何だか変だし、具合悪いんだったら無理しないで休んだ方が……」
「……いてっ」
真っ赤になった顔を背けた瞬間、イズムスは持っていた串で自分の反対側の手の親指の付け根を刺してしまった。
「やだ! ちょっと! 大丈夫?!」
「い、いえ本当に大丈夫ですから!」
慌てふためくイズムスに、私はとりあえずポケットに入れてあった三角巾でぎゅっと縛り付ける。
深くはないみたいだけど、ちゃんと手当しておかないと駄目だわ。化膿したら大変だもの。
「戻ったらちゃんと手当してもらった方がいいですよ。小さい傷でも油断すると治りも悪くなるし」
「ありがとうございます……」
きっちりと結び付けてから顔を上げると、やっぱり真っ赤な顔をして視線を外している彼の顔があった。
何か変じゃない? 彼、こんな表情をするような人だったかしら。私が知る限りもっと飄々とした感じだった気がするんだけど……。
「お母さん、ラブラブだね~」
後ろから嬉しそうに声をかけられて振り返ると、持ち分のクルミを全部取り終えた葉平がニヤニヤしながらこっちを見ていた。
な、何を言ってるの!? この子は!? 私はそんなつもりじゃなくて……。
「べ、別に、私はただ心配してるだけで……」
「え~。だってイズムスもさ~、顔赤いじゃん」
「こ、これは熱が出てるんじゃないの? ねぇ?」
「……い、いえ!」
そこは否定してよ。じゃないと私まで恥ずかしくなるでしょ!?
急に変な雰囲気になってしまって、私たちはお互いに顔を俯けてしまった。
って言うか、彼も女性には慣れてるんじゃないの? なんでそんなウブっぽい反応するわけ??
「あ、俺、仕事終わっちゃったから先に部屋に帰ってるね~」
葉平はそう言うと、本を持ってさっさとこの場を後にしてしまった。
ちょっ!? 待って待って!! 何でこういう時にそんな気を利かせるの!?
……って、それを7歳の子供に聞くのもおかしな話ではあるけど。
気まずくなってチラッと目線を投げかけてみると、イズムスはまだ赤ら顔でこちらに視線をよこす余裕もないようだった。
王族の人はいろんな女性と交友関係を持っているだろうと思っていたけど違うのかしら。何て言うの? 言い方は良くないかもしれないけど、女の扱いは心得ているというか……? 普通はそういう物だと思っていたのは私の偏見だったのかしら……。
いや、とりあえずこの状況をまず何とかしなくては……。
「え、ええっと、とりあえず熱じゃないんですよね?」
「……はい。違います」
「じゃ、じゃあ大丈夫ですね?」
「はい」
「……」
「……」
はい、会話終了。
……じゃなくて!
「あ、あの……。変な事聞くけれど、イズムスは他に女性とお付き合いしたことはないんですか?」
「あ……いえ。学生の時に何人かとは……」
そうよね。私と違ってその年で誰ともお付き合いした事がないっていう方がおかしいと思うわ。
別に過去の女がどうだとかそう言うのは気にならないから構わないんだけど、今までもこんな反応してたのかなと少し気になったわけで。
「何人かとお付き合いした事は確かにありますが……あなたほど心から惹かれた人はいませんでした」
「……っ!」
な、なにを急に言い出すかと思えば! そう言う恥ずかしいセリフは平気で言うのね。
「さっきの、あなたの仕事をする横顔がとても綺麗でした。それについ見とれてしまって……」
「……うっ、ゲホゲホッ!!」
思わず私がむせてしまうと、イズムスは心配そうに背中を撫でて来る。
昨日の今日でそんなに間を詰めて来ないで欲しい。
「すみません……。昨日あなたの言った言葉で、今の僕にはあなたの隣に立つ資格すらまだないと分かっているんです。でも、伝えておきたくて……」
「……」
また違う意味で急に気まずくなってしまった。葉平がいてくれたならもう少し雰囲気も紛れたのに。
だけど、いい機会かもしれないしちゃんと伝えておこうと思う。私の状況と言うか考えてる事を。
私はクルミと串を置いて、小さく溜息を吐いた。
「……実は、私も少し考えてたんです。周りに心配されるような、そう言う生き方や物言いしか出来ない自分は、もしかしたら誰よりも子供だったのかもしれないって」
「……」
「でも昨日言ったことは嘘じゃありません。だけど、このままでいいとも思わないんです。私は自分の殻に閉じこもっているだけなんだって気付いたから……」
私は目の前のクルミを見つめながらそう呟いた。
私が纏っている殻は、このクルミみたいに強固で簡単には破れそうにはない。殻を破るためにはゆっくりと水に浸水させるように、時間をかけなければその糸口である裂け目は出来ないのかもしれない。だって、私が歩んで来た道は男の人が背負うものと女の人が背負うもの、両方ともを背負わなきゃいけないある意味茨の道だった。最初は柔らかだった殻も、時間と共に強固なものになってしまったと言えるから。
そして同時に、その殻を割るには外からだけじゃなく内側からも力を加えなければいけないんだろうなって事も……。
「……あなたの言葉は私に気付きをくれたんです。同時に、私にも色々な覚悟が必要なんだと気付かされました」
葉平と共に生きる覚悟はとうに出来てる。葉平が自立して私の元から巣立った後、一人で生きていく覚悟も離婚すると決めた時にした。だけど、また別の人と新しい人生を歩むという覚悟は何も出来ていない。だって、もう必要が無いと思っていたから。それでいいんだと腹を据えていたから。だから今更赤の他人ともう一度同じ道を歩むって……やっぱり手が出しにくい。
「ただ勘違いしないで欲しいのは、イズムスが私の事を気にかけてくれてる事は、すごく嬉しいんですよ? でも……今じゃないんです」
何より彼とは身分差も大きい。先々傷つくことが分かっているなら、最初からスタートしちゃいけないんだろうなって言うのも分かってるし。
我ながら、ちょっと寂しい考え方をしているのかもしれない。
「じゃあ……待ってます」
「え?」
「それまでの間、あなたに頼ってもらえるくらいの男になれるように努力します。もし、それまでの間にあなたに他に頼れる誰かが出来たら、僕はその人以上になります」
イズムスの言葉はあまりに真っすぐ過ぎて、私には少し重たい。若さゆえの真っすぐさかな。逆に言えば、待っている間にあなたの方にいい人が出来るかもしれないものね。
「……期待してます」
私は困ったように小さく笑った。