葉平は見てないようでちゃんと見ています
「イズムスは、いつお母さんの事好きになったの?」
昨日の疲れも何のその、少しばかり遅く起きれば子供の体力は大抵元に戻っているもので、葉平はいつもの中庭で教科書代わりに広げていた本と紙を前に頬杖を着いて、目の前に座って愛読書を開いているイズムスを見上げた。
突然のその質問に、本からわずかに顔を上げるとかけていた眼鏡を指で少し押し上げた。
「どうしたんだい? 急に」
「ん、何となく」
真顔で尋ねられたその質問に、イズムスは広げていた本にしおりを挟んで閉じ、僅かに照れた様子で葉平から視線をそらして僅かに悩むように小さく唸った。
「……いつからだろう。何か目が離せなくなってて」
「それっていつ?」
「具体的にはよく覚えてないよ」
どことなく煮え切らない返答と、困ったように笑うイズムスに、葉平は眉間に皺を寄せて怪訝そうに口を開いた。
「じゃあ、何でそんなに元気ないの?」
その問いかけに、思わずドキッとする。
子供は見てないようできちんと傍にいる人の様子を見ているのだと言う事を思い知らされる。
「それは……」
ふと、昨日の事が思い返された。
双葉は単純に強がっているだけだと言う事は分かる。虚勢を張らなければ自分を保てないと言う事も、そうしなければやって来れなかったのだと言う事も、昨日の言葉でよく分かった。
問題なのは、そんな彼女をただ好意を寄せているからと言う単純な理由で近づくことが出来ない事と、その覚悟も、この人になら弱音を見せてもいいと思ってもらえるだけの度量が自分に足りない事だ。
彼女に頼って貰えるだけの人間にならない内は、どんなに言い寄ったとしても昨日のように袖にされてしまうのは分かっていた。
「イズムス?」
「あ……いや……。別に、元気がないわけじゃないよ」
葉平の言葉に、イズムスは笑って首を横に振った。
「ただ……」
「ただ?」
「難しい課題が沢山あるな、と思ってね……」
「難しい課題?」
「身分とか、気持ちとか……色々ね」
「ふ〜ん?」
葉平の追求は鋭い。だが、今それを伝えても彼にはまだ難しいだろう。現に彼は首を傾げている。
「そういえば前から感じていた事だけど、フタバとは前にどっかで出会ったような感覚があるんだ」
「どっかって、俺たちまだここに来てそんなに時間経ってないよ? あ、もしかしてサザンディオにいる時に会ってたとか?」
葉平の言葉に、イズムスはくすくすと笑って首を横に振った。
彼は本来、好き勝手に好きな所へ出掛ける事は出来ない。となれば当然、この国から離れているサザンディオのある村まで足を運ぶこともない。そもそも、用があっても自ら村を訪ねるような事はまずない。
「僕はそこまで自由に外を行き来できないから、サザンディオのパン屋の噂ぐらいは侍女に聞いて知ってるってぐらいだったよ」
「ふ~ん。じゃあ何でお母さんの事をもっと前から知ってるって思ったの?」
何とも答えにくい質問をしてくる葉平は、子供らしいと言えばそうなのかもしれない。
イズムスはそんな葉平の言葉を面倒くさがる事もなく、適当にあしらう訳でもなく真面目に答えた。
「……運命、なのかな」
「運命?」
「そう。もともと出会う運命。もしかしたら前世では一緒だったのかもしれない」
この時ばかりは少しばかり照れ臭そうに笑って、眼鏡を外す。
葉平は聞きなれない言葉に首を傾げて質問し返した。
「前世って何?」
「前世って言うのは、僕たちが生まれるずっと前の事を言うんだよ」
「ふ~ん、そうなんだ。でも、俺とお母さんはここじゃないところから来てるんだよ? なのにそんな事ってあるの?」
「……分からない。けど、そんな気がして仕方がないんだ」
漠然とそんな気がしていた。イズムスにはむしろ、それがやたら確信に近い物を感じていたのだ。
自分と双葉は、出会う事がすでに運命づけられていた、と。
王様のお抱えパン職人と王族と言う身分を持ったイズムス。この身分差はどうやっても埋められそうにない。この格差がない世の中になれば、世間の目など気にせず堂々と双葉と親睦を深めることも叶うと言うのに……。
そう思うと、イズムスはいつになく溜息がこぼれた。
「ねぇねぇ、あとさぁイズムスって勉強嫌いって言ってるのに、何で俺に付き合ってくれるの?」
「フタバ想いの優しい子だからって言うのと、僕もヨウヘイが大好きだからだよ」
ニッコリ笑って答えると、葉平ははにかんだような笑みを浮かべて「そうなんだ。何か照れるなぁ」と呟いた。
「じゃあ、今度は僕から質問。ヨウヘイはお父さんの事は好き?」
「え? う~ん……。まぁ、嫌いじゃないかな。喧嘩する時のお父さんは嫌いだけど」
「僕の事は?」
「うん、好きだよ。だってイズムスはさ、ちゃんと話をしてくれるし聞いてもくれるし、あと勉強も教えてくれるし、一緒に遊んでくれるから」
ここまで慕われていれば、何も文句はない。むしろ有難いくらいだ。
イズムスは子供が好きだった。彼には4つ下の妹がいるのだが、小さい頃から妹の面倒をよく見ていた。親よりも兄である自分が妹の面倒をよく見ているものだから、好かれ過ぎてるのが少々困りものではあるが……。
公務で王宮に行くと言うと一緒に来たがるが、それを何とか言いくるめて来るのが大変なほどに好かれ過ぎてはいる。
「そう言えば、ヨウヘイには好きな子はいないの?」
ふとそう訊ねられると、葉平はピクッと反応を示して顔の表情はいくらか緩みながら、身を捩って首を傾げた。
「え~……。まぁ、いるかな」
「へぇ。どんな子?」
「まだ名前は知らない。知らないんだけど……可愛い子」
葉平は照れたようにはにかんだまま「恥ずかしいからもういいじゃん」と、話をはぐらかそうとする。
そう言うところは双葉によく似ている。
「どこで会ったんだい? 王宮?」
「ううん。前にお母さんと買い物に城下町に言った時に会った。果物売ってたよ」
葉平の想い人は、城下町で出会った商人の娘。
彼の想いは障害も何もなく、叶えようと思えば叶えられる相手だった。
「でも最近買い物に行ってないから、会ってないんだ」
「そうか……。それは会いたいね」
「でも俺、一人で買い物行けないしさ。お金もないし。だからさ、いつも朝お母さんが厨房に行く時に城下町の市場を見れる場所に行って上から見る事しかできないんだ」
葉平は両手で頬杖をついて、長い溜息を吐く。
双葉にはもうすでにバレている葉平の恋だが、自分の力でどうにかできるような状況にないのが歯痒い様子だと言う事がわかる。
今立たされている彼の状況は、まるで切なさを秘めている少女のようだった。
そんな彼を見ていると、イズムスは気の毒に思えて自分に出来ることがあるならしてやりたいと思った。だが、立場上何も手出しは出来ない。
「そうか……。じゃあ、またフタバに連れて行ってもらうしかないんだね」
「うん。そうなんだよ」
しゅんとなった葉平に表立って何もしてやれないにしても、何かしてやれることはないかとイズムスは考えた。そしてふと、懐に閉まっていた小さな飾りを取り出してそれを葉平の前に差し出した。
「何これ?」
「これは服の袖を止める飾り止めだよ。次もしその子に会える事があったら、これをプレゼントするといいと思う」
「でもこれイズムスのじゃん?」
「気にしなくていいよ」
そう言って葉平の手に握らせると、葉平はもう一度その飾り止めをまじまじと見つめて、ぎゅっと握り直した。
「うん、わかった。ありがとう」
余りに素直なその反応に、イズムスもにっこりと微笑んで返す。
「イズムスってさ~、イケメンだよね」
「イケメン?」
「あ~、えっとね、カッコいい男の事だってお母さんが言ってた」
その言葉を聞いた瞬間、思いがけずボッと火を噴いたかのように顔だけじゃなく体中の体温が急上昇した。まさか、双葉がそういう風に自分を見ているのかもしれないと思うと、嬉しさと同時に恥ずかしさがこみ上げてくる。昨日、その可能性をほぼ打ち消されたと言うのに、どうしてもそう考えてしまうのは惚れた弱みと言うところだろうか。
赤らんだ顔を隠すように顔をそらしたイズムスに、葉平は不思議そうな顔をして顔を覗き込んできた。
「どうしたの? 顔赤いよ? 熱でも出た? 大丈夫?」
「……い、いや。大丈夫……」
双葉に直接言われたわけでもないのに、こんなにも恥ずかしくなってしまうとは……。
早まる鼓動と熱を落ち着かせるようにそっぽを向いたまま深呼吸をしていると、バラの生垣の陰からひょっこりと双葉が顔を覗かせた。
「ごめんなさい。クルミを割るのに夢中になってたら遅くなっちゃったわ」
申し訳なさそうにする双葉と視線がかち合うと、落ち着かせようと思った鼓動が再び激しくなってくる。そんな事などつゆ知らず、双葉はイズムスの顔を覗き込んできた。
「顔が赤いですよ。どうしたんです? 風邪?」
「な、なんでもないです……」
慌てて首を横に振るイズムスに、双葉と葉平は不思議そうに首を傾げるのだった。