何は無くとも、仕事です
訳が分からず頭を抱えて倒れてしまった私を見て、二度助けてくれたこの家の女性……もとい、サーシャさんは余程気の毒に思ったようで、目が覚めた私にしばらくここにいてもいいと言ってくれた。
記憶喪失になっていると思われたのかもしれない。でもそれならそれでもいい。今は。
ベッドに横になったままの私の傍らに座っていた葉平は緊張感のない顔をして、私の介抱をしてくれている。
「お母さん、これからどうするの?」
「……どうしよう。どうしたらいいのか分からない」
「大人なのに分からないの?」
いや、この状況はたぶんどんな大人でも分からないと思うよ、息子。
大人は何でも知っていると思ったら大間違いなんだぞ、息子。
そもそも、どうしたらいいのか私が教えて欲しいくらいでパニックになってるって言うの。
「とにかく、状況を整理しよう。もしかしたら、ただ夢を見てるだけかもしれないし」
「それにしたらリアルな夢だよね~」
なんて言いながら、葉平はサーシャさんが置いて行ってくれたパンを籠から取り出してもぐもぐと食べだした。
……呑気だな、息子よ。
いや、しかしなんだ。ある意味そう言う性格をしていてくれて良かったのかも。
これでパニックになって泣き叫ばれでもしたら、私もイライラして収集つかなくなっていた可能性もある。それに、彼がそのテンションでいてくれるとこちらもいくらか冷静でいられるからありがたい。
「お母さん、これ美味しいんだけど固いね」
「フランスパンか何かなの?」
「え? フライパン? 食べられるの?」
……違うぞ息子よ。フライパンは食べ物じゃないことぐらい知ってるでしょ。
しかも分かり切ってる事を真顔で訊き返してくるんじゃない。
でも、確かに見るからに固そうなパンだ。噛り付く彼の様子を見ていると、噛み千切るのも一苦労している。フランスパンと言うより、どちらかと言えばドイツパンが近いのかしら。プレッツェルみたいな。
「食べるの疲れた……」
しばらく悪戦苦闘していたが、半分も食べない内に葉平はパンを机に置いてしまった。
「食べかけは良くないわよ。ちゃんと食べなさい」
「だって固すぎるんだもん。ねぇ、ほかに何かないの?」
「そんな事言われても……」
「俺ご飯が食べたい。白飯」
いやいや、だからそれ言われても今の私にはどうすることもできないから。
「とにかく、今どんな状況にあるか確認するのが先よ。それからどうするか考えなきゃ……」
「え~! 白飯食べたい~!」
「今は無理だって言ってるでしょ」
「え~!?」
「だって家に帰る方法も分からないし、ここは全く知らない世界だし? 無理なものは無理よ」
「……分かってるけどさぁ」
もの凄く不満そうに顔を顰めて、グダグダし始める。
出た。いつものぐずり。
でも彼はこの程度で済んでくれるからまだマシだと思う。
仕方ない。もしかしたらお米があるかもしれないし、一度サーシャさんに聞いてみよう。
そう思った私は、ベッドから起き上がると自分の体の調子を確かめてみる。
うん、思ったより悪くないって、そりゃそうよね。混乱しただけで体調を崩していたわけじゃないんだもの。
私は葉平を残して部屋を出てみた。すると一階部分から焼き立てパンの良い香りがしてくる。
あ。美味しそうな匂い……。
その匂いに誘われるように廊下突き当りの階段を降りると、厨房でせっせとパンの生地を捏ねている男性がいた。
「あの~……」
真剣に捏ねていて、仕事中で邪魔しちゃ悪いと思いながらも声をかけると、男性はパッと顔を上げてこちらをみてにっこりとほほ笑んだ。
何だろう。サーシャさんといいこの男性と言い、人の良さが顔に出てる。
「やぁ、目が覚めたんだね。具合はどうだい?」
「あ、もう大丈夫です。ありがとうございました。あの、サーシャさんは……?」
「家内は今外のカウンターで接客中だよ」
旦那さんは粉で真っ白い指をドアの外に向けると、またひたすら捏ね始める。
体力仕事だって聞いたことあるけど、やっぱりそうなんだろうなぁ……。
なんて思いながらドアから顔を覗かせると、列をなしたお客さんが店内に溢れていた。
置いてあるのは、編み込んであるパンだったりフランスパンみたいな長いパンだったり、食パンみたいなのだったり丸かったり……。
お客さんが注文するパンをテキパキと籠に入れてお会計をするサーシャさんの手際の良さに、思わず見入ってしまう。
「あ! ちょうどいいところに! ええっと、確かフタバって言ったね? 悪いけど手伝ってもらえないかい? 言われたパンを籠に入れるだけでいいからさ」
「え?! あ、いや、えええっと?」
あまりの忙しさにこちらが断る暇も与えられずカウンター内に引きずり出された私は、訳も分からず言われたパンを手渡された籠に入れていく。
ちょっと、良く分からないんですけど?!
でも、しばらく置いてもらう事を考えたら、これぐらいの手伝いはするべきだとは思うけど、これはいくらなんでも急すぎるってば!
*****
「いや~、助かったよ。ありがとうね、フタバ」
ピークを過ぎて、たくさんいたお客さんがいなくなると、サーシャさんは嬉しそうに笑っていた。
私はと言うと……もう疲れて動けません。お腹も空いたし……。
「はい、サンドイッチ。ヨウヘイにも持って行ってあげるといいよ」
そう言って手渡されたのは、奥で旦那さんがいつの間にか仕込んでくれていたのだろう。
たっぷり卵のサンドイッチと、私たちの世界でもよく見るような野菜のサンドイッチ。
さっき上で見たパンより断然おいしそう。
「あの……。変なこと聞くかもしれないんですけど、ご飯とかって……無いですよね?」
「ゴハン?」
「お米です。白い……」
「オコメ? それって食べ物なの?」
……ですよねぇ。
分かってた反応だけど、やっぱり無いよね。ご飯なんて……。
葉平がご飯大好きなのは分かっているけど、ここにいる以上諦めてもらうしかなさそうだわ。
「あ、いえ。分かりました。いいんです。ちょっと聞いてみたかっただけなんで……」
「そうかい? と、言うか、フタバ。あんたいい仕事するねぇ。無茶なお願いしたのに要領よくこなしてくれて……。飲み込みも早いし覚えもいいし。ね。良かったらうちで働かないかい?」
「え?」
突然の申し出に、私はキョトンとしてしまう。
サーシャさんの目はとても本気なようで、サンドイッチを持っている私の肩を掴んで来た。
「給料は出してやれないけど、手伝ってくれたら部屋は自由に使ってくれて構わないし、食事の事も気にしなくていいよ」
彼女の申し出を断る理由は、今の私にはない。むしろ、そうしてくれたらありがたいくらいだった。
「いいんですか?」
「あぁ、もちろんだよ! 人手が足りなくて困ってたところなんだ。うちの息子は使えないし、フタバがいてくれたら凄く助かる」
「あ、ありがとうございます! こちらこそ、そうして頂けるなら助かります!」
右も左も分からないこの世界。迂闊に放り出されたら(もう放り出されてるようなものだけど)、路頭に迷って飢え死にするに決まってる。そうならないだけ有難いと思わなきゃ。
あと、ここで働きながら、この世界の事を知っていかないとね。
私たち、もう日本に帰れないかもしれない。だからと言って帰れないと決まったわけでもないけど、ここで生きていく覚悟を決めておくことも必要だと思った。