勝手なライバル視をされてとんでもない
厨房から部屋に戻ると、葉平はしっかり持って帰ったパンを食べてベッドの上でふてくされたように横になっていた。
「葉平?」
「……」
「何ふてくされてんの?」
「ふてくされてない」
そう言いながらこっちを見ないのは、完全にふてくされてる証拠じゃないの。
私はベッドの端に腰を下ろして、葉平の小さな肩をつんつんと突っついてみた。すると葉平は体を捩って私の指を振り切ろうとする。負けじとつんつんと突っついていると、次第に耐えられなくなったのかクスクスっと笑い始めた。
頃合いを図って、葉平の小さな背中を見つめながら私は口を開く。
「……ねぇ。葉平は家族が欲しい?」
「そりゃ欲しいに決まってるじゃん。お母さんはいらないの?」
「私は葉平がいるもの」
「そうじゃなくて……」
むぅっと口を尖らせてこちらを睨むように見る葉平を見下ろし、小さな溜息を吐いた。
何だかさっきのイズムスに言われた言葉が妙に自分の中で引っかかってて……。
寂しいとか不安とか、戸惑いとか心配とか……。
考える暇がなかったわけじゃなくて、考えないようにしてたことだけど、本当は不安も戸惑いも心配も山のようにある。
旦那と結婚して長い間一緒に暮らしてきた。それが、バラバラになることで葉平との二人での生活にならざるを得なくなった時から、それは私の中に埋め尽くされていた。毎日毎日、後ろ向きで良くない事ばかり考えて、気落ちして自信もなくて……。でも、それでも働かなきゃいけないしやらなきゃいけない事が当たり前のように押し寄せてくる。
だから自分の中でひたすら考えないようにしていた。忙しさに身を任せてしまえば、考えなくて済むから……。でも、改めてそこを聞かれると、思い切り心がぐらついてしまう。
分かっていたはずなのに、知らんぷりを続けることで保とうとしていた物が、大きく傾いだ。それでも旦那とよりを戻すことは考えられなかった。あの人は、自分の家族に責任を持とうとせず、逃げ出してしまった人だから……。
「俺ね、何度も言うけど、お母さんはもう一回結婚しなきゃいけないと思う」
「葉平……」
寝転んでいた葉平は起き上がり、ベッドの上に珍しく正座をすると真っ直ぐに私を見て真剣な表情で訴える。
「お母さんが幸せにならなきゃダメなんだよ。そうじゃなきゃ俺も幸せになれないんだから」
……そう言われてしまうと何も言えなくなる。
強がりとか見栄とかそう言うのを張って強がっていたら駄目なんだと、自分の子供に言われるだなんて思ってもみなかった。
私が幸せにならないと葉平も幸せになれない、か……。
「……今更こんな私をもらってくれる人なんて、いるのかなぁ」
ぐらついてしまったが故にこぼれる弱音を、葉平は力強く肯定してくれる。
「いるよ! 絶対いるって。お父さんに彼女が出来るぐらいなんだよ? お母さんにできないわけがないじゃん」
「ふふ……。そうだね。そうだといいなぁ」
あまりに力強いその言い方に、私は思わず笑ってしまった。
そんなに自信たっぷりに言われると、そうなのかなって思わなきゃいけなくなる気がするわ。
「だからイズムスがいるじゃん」
「……あ~……彼はダメよ」
「何で駄目なの? やってみなきゃ分かんないじゃん」
いや、やってみるとかみないとか、そういう話じゃないんだよこれは。
「ここにはさ、日本にいた時よりもずっと難しいルールがあるのよ」
「そんなの、幸せだったら関係ないじゃん」
葉平のその言葉に、ドキッとする。
……あれ……何か、もっともな事を言ってる?
むしろ、頑なになって意固地になっているのは、私の方じゃ……。
時に子供は大人が驚くような事を言う事があるけど、今の彼の言った言葉はまさにそう。
私は何となく、ポケットに入れてあったハンカチを取り出してそれを見つめる。
「あ、それ、イズムスのだ。どうしたの?」
「え? うん。さっきパンをあげたらお礼にってくれたのよ」
「へぇ。そうなんだ」
別にイズムスがどうとか言う訳じゃないけど、私はいつの間にか無くしてしまっていた、女性らしさと言うものをもう一度取り返してみてもいいような気がした。
毎日忙しさに負われて自分の事をおろそかにし続けてきていたから、それが私にとって普通になっていた。でも、見方を考えれば家族と言う縛りが、完全ではなくても解けた事で私は私に割ける時間も出来たと言えるはず。
無造作に束ねた髪も与えられるままに着ている地味な服も、それが当たり前だと思っていたけど、本当はそうじゃないはず。ただ、バランスが悪くなってるだけなのよ。比重が家族に偏り過ぎているだけなんだわ。
「……そう、ね。葉平の言う通りかもしれない。私にも、もう一度チャンスがあっても良いわよね」
前向きに、葉平の本当に望むものに向き合ってみようと思えた。
目を背けず、言い訳なんかしないでちゃんと現実を見ないと駄目よね。
でも、やっぱりハードルの高さが変わるわけじゃない。
もう一度結婚をするのなら、第一条件に葉平を自分の子供としてちゃんと接して、愛してくれる人でなければ駄目だ。そこは何が何でも譲れない。
私は手にしていたハンカチをぎゅっと握り締め、にっこりと微笑んで葉平をぎゅっと抱きしめた。
「お母さん、頑張るわ。葉平の為にもお父さんよりもずっといい人探すことにする」
「うん、そうだよ。そうした方がいいよ!」
機嫌を損ねていた葉平も、私のその言葉に嬉しそうに頷いていた。
翌日。
私は鏡の前で今までは無造作に結んでいた髪を丁寧に梳かし、長い髪を丁寧に編み込んで持っていたヘアピンで固定する。
厨房に入るのに余計な飾りをつけるわけにはいかないし、アクセサリーはそもそも今は持ってないから付けられないけど。
支給された服をきちんと来て、背筋をピンと伸ばして身支度を整えていると葉平はいくつかの本を抱きしめたまま、私の方を見ていた。
「お母さんはやっぱり可愛いよね~」
「そう? ありがとう。あ、葉平。お給料出たらお洋服を買いに城下町に行ってみようか」
「うん! いいよ!」
にこやかに笑って頷いた葉平は「イズムスのところに行ってくる」と言って、本を抱えたまま部屋を後にした。私は彼を見送って、気合を入れてエプロンを腰に結び付ける。
よし、こうやって少しずつ自分に自信を取り戻していこう。忙しい毎日にかまけないように、少しずつ自分を磨き直していくんだから。
「おはようございます!」
気合十分。厨房の扉を元気よく開くと、朝から忙しそうに働いていたコックさん達と、昨日どうやらイズムスに会えなくて落ち込んでいるフローラさんがこちらを見て、全員が仕事の手を止めた。
……あ、あれ? 何か変だったかな……?
あまりに皆が同じ行動を取って、お鍋で食材が煮える音以外の音が全部消えたものだから、思わず戸惑ってしまう。
「……フタバ、今日は今日でどうしたのよ? 何の心境の変化なの?」
「え? 別にどうもしませんよ。ただ、女性として忘れていた物を取り戻そうかなって思って」
私のその言葉に、一瞬厨房の中がざわめいた。
何? 何なの? そんなにざわめくような事だった?
そう思った矢先、フローラさんが自分の右手親指の爪を齧っている姿があった。
「……女ってこれだから末恐ろしいのよ……。油断も隙もない。色気づいたら私の敵が増えるじゃない……」
「り、料理長?」
「アタシ、同じ女としてあなたには負けないんだからね! 何よ! ちょっと作るパンが美味しいからって、調子に乗るんじゃないわよ!」
彼……いや、今は彼女と呼んだ方がいいのかしら。
一人で勝手に私をライバル視して、悔しそうに騒ぎながら自分の持ち場に戻っていった。
「ぼーっとしてんじゃないわよ! さっさと手を動かしなさい!」
何て叫んでて、あれはほぼ八つ当たりと言ってもいいのかもしれない。
手を止めたままだったコックさん達は、不機嫌なオーラを放つフローラさんに、慌てふためいて作業に戻った。
って言うか、私髪型を変えただけで他は変わりないんですけど……? そんな、ライバル視されるぐらいですか? ほんと、フローラさんって味方になったりそうじゃなくなったりコロコロとよく変わるなぁ。私にはあんまり持ち合わせてないけど、ザ・女子って感じ。
私はふぅっと溜息を吐いて、荒ぶるフローラさんを横目に自分の持ち場に向かった。