3 高出力は男のロマン
君たちはどういうコーヒーが好きだろうか?エスプレッソ? ブラック? それともカフェラテ? 俺、草壁秋守は勿論エスプレッソだ。
エスプレッソとはイタリア語で、急行列車を意味する言葉。その名前の通り、短時間ですばやい抽出が特徴のコーヒーだ。
通常のコーヒーはハンドドリップを使用し、ドリッパーからお湯が自然に落ちるのを待って抽出をする。
しかしエスプレッソは専用のマシンを使い、9気圧もの非常に高い気圧を持って抽出するのだ。
9気圧がどれほどすさまじいのか、家庭用の圧力鍋を比較対象にすると、圧力鍋の場合食材にかかる気圧は約3気圧。そう、圧力鍋の3倍もの気圧で作られているのがエスプレッソコーヒーというわけだ。
強い風味と深いコク、それらが合わさったコーヒーに、たっぷりの砂糖を入れて飲む贅沢な一杯は、まさに極上と言わざるを得ない。
「お兄ちゃーん、遅刻するよー」
しかし、他の味が嫌いなわけではない。それぞれに良さがあり、適切な場面が存在する。寝起き、作業中、一息つきたいとき……
「おーい」
俺の生活を支えているのは、コーヒーだと断言できる。もしコーヒーがこの世に存在しなかったとしたら、俺は高校入学初日から不登校になっていただろう。
「いいかげんにしろ―!」
椅子に座ってくつろいでいる秋守の額に、強い衝撃が走ると共に鈍い音が鳴る。持っていたマグカップが揺れて中身がこぼれそうになるが、左手を即座に添えることで何とか事なきを得た。
「痛って……なにすんだよ、春」
草壁春、秋守の妹であり二個下の中学三年生。どうやら寝ぐせを直していたようで、濡れた黒髪が少しはねている。
「お兄ちゃんが全く反応しないのが悪いんでしょー?」
「悪かったって。お詫びにお兄ちゃん、春の為に何でもする」
「え、何かキモい」
オブラートを知らない、切れ味が良すぎるストレート。しかし、反論など頭の中に浮かんでこない。
それは一重に、俺がお兄ちゃんだからだろう。例えキモイと罵られようと、頭にヘアブラシが飛んで来ようと、全く気にしない。それが真の兄というものだ。
「それよりも、早く朝飯食べたほうが良いよ。霜月さん、そろそろ来ちゃう」
トースターから黄金色に染まった食パンを取り出し、真っ白な皿に乗せ、机の上にセッティングする春。
食パンからは香ばしい匂いが放たれている。
今思えば、パンは何故焼いただけで、ここまで食欲をそそる匂いを出せるのだろう? 発酵か化学反応か。いや、きっと魔法だろう。俺はそう決めつけることにした。
動画投稿サイトを見ているとき、無心でスクロールしているとたまに流れてくる、すっぴんの女性がメイクをすることで別人に入れ替わる動画も、全ては魔法。
「……? お兄ちゃん食べないの?」
「いや……いただきます」
不思議そうに首をかしげる、エプロン姿の春。これもきっと魔法なのだ。いつの間にか、俺は異世界転生をしていたらしい。俺の日常に、これほど魔法が浸透しているとは。
バカな考えをしていると、ピンポーンと聞きなれたインターホンの音が鳴る。
「ちょっと出てきて」
どうやら春は諸々の準備で忙しいようだ。着ていたエプロンもすでに脱いでしまっていて、落胆する。
「セールスか、宗教の勧誘かもしれない。ターゲットにされると嫌だからここは居留守を使うか」
「こんな朝に!? まだ7時半なんだけど……」
呆れたようにため息を吐く春。
朝七時からウォーターサーバーの契約を迫ってくる働き者がいたって、別に良いではないか。勤勉で信用できるかもしれない。この場合は勤勉というより、ブラックかもしれないが。
「い、い、か、らぁー! 早く出てきて!」
出たくない言い訳をひねり出そうとするも抵抗空しく、春に押されて玄関の前まで来てしまう。少し前までは10秒に一回ほどの感覚だったインターホンの音は、今では毎秒なっているかのような激しさを見せている。
鳴らしている主は、間違いなく怒っている。嫌だなー、今すぐ諦めてくれないかなー、と願うが、このまま放置しても問題は解決しないだろう。
来たる罵倒に備えながら、ゆっくりと鍵を捻り、ドアを開くとそこには……腐れ縁の幼馴染がいた。
◇
現状の説明をしよう。俺は椅子が目の前にあるのにも関わらず、床に正座させられていた。
目の前には霜月が足を組みながら座っている。
手入れの行き届いた艶めく銀髪が今にも逆立ちそうになり、グレーの瞳は、冷たい怒りを発していた。
「ねえ、草壁君。何か申し開きはあるかしら?」
先までリラックスムードが流れていたリビングは、戦場のような緊迫感が流れている。
春という空気清浄機がいてくれたらよかったのだが、学校で生徒会の仕事があるらしく、「じゃあ後はよろしくねー」とさっさと家を出て行ってしまった。
「ごめん、気が付かなかったんだ。次からは気を付ける」
「ダウト。春ちゃんに聞いたけど、居留守しようとしたって」
(妹よ、貴様はいったいどちらの味方なんだ!?)
不味い、俺の十八番「ゴメーン。気づかなかったー」戦法が通じないとなると、次に打つ手がない。
信じていた者の裏切りで窮地に立たされ、正に八方塞がりの状態。本能寺の変が起こっているときの織田信長の気持ちがちょっとわかった気がする。
もしかして「是非に及ばず」と言って切腹するしか道は残されていないのか?
「はあ、もういいわよ」
「え?」
完全に詰んでいる状態だったが救いの手は他でもない、霜月本人から伸ばされた。
「どうせ面倒だったとか、そこらへんでしょ? 怠け者さん」
「俺は怠け者じゃない。省エネな人間なんだ。面倒くさいことは事前に察知して、極力回避する。必須技能だろ?」
「それが怠け者なんじゃないかしら……というより、それって私が面倒くさいってことかしら?」
「いや、特に他意はない」
「ふーん」
霜月がジト目を向けてくるが、視線を逸らすことでその場をごまかす。妹の裏切りによって一時は窮地に立たされたものの、この程度、学校で「ペアを組んでねー」と言われた絶望感に比べればなんてことない。
あれのえぐいところは、最初少し期待してしまうところだ。新しく友達ができるかもしれない、クラスで一目置かれている人気者と偶然ペアになれるかもしれない。そんな幻想を抱いたとしても、待っているのはペアがいない者同士が組まされる気まずい瞬間か、人数が奇数だった場合、先生と組まされるという地獄だけだ。なんだろう、視界がぼやけてきた。
勝手に妄想してダメージを食らっている俺と、ジト目のまま無言の霜月。テレビから流れてくるお天気アナウンサーの声がやけにうるさい。
「その、なんだ……悪かった」
今回は流石に俺が悪かったと反省する。別に沈黙に耐えられなかったとか、そういうわけじゃない。
素直に謝ったことが意外だったのか、驚いた顔をする霜月。
「悪いと思っているのは、インターホンをいくら鳴らしても出ないことに対してか、間接的に面倒くさいと言ったことに対して、どちらかしら? 省エネ人間を自称して、自分の非を認めない怠け者さん」
「ホントすんませんでした」
お返しと言わんばかりに、痛いところを突いてくる霜月。俺はただ謝ることしかできない。
(今日の登校時間は、予鈴ギリギリになりそうだな……)
霜月から正論を飛ばされながら、七時五十分を指す時計を見てそう思った。