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最終話 不確かな自覚


 今日の侵入者は非常に大きい。私の張り巡らせた糸からは、心地良い振動というよりミシミシと今にも壊れそうな音と、幾何学模様全体を引き裂くような大きなうねりが次から次へと身体全体に伝わって来る。


 今朝やっと修復を終えたばっかりの私の絵画である。壊されでもしたらたまらない。私は、私の絵を壊そうとしている元凶を確かめる目的と壊される前にそいつの動きを封じ込める為に侵入者に近づいた。


 それは一匹の蝉と呼ばれる生き物であった。やつは私の芸術を台無しにしようとしていた。私は怒りにまかせて噴出する残虐的な衝動をもう抑える事が出来なかった。

 こうなると、もう生きるか死ぬかの決闘である。


 下手すると、私は自分のキャンバスの上から叩き落され、地面に叩きつけられて内臓破裂で死んでしまう可能性だってある。いくら命綱の糸があるからと言っても油断は出来ない。糸が途中で切れてしまって血面に叩きつけられ、潰れて死んでいる自分が見えた様な気がした。


 最初の三十秒が勝負と考えた。その短い時間で私は出来るだけ太い糸で蝉を縛り付ける必要があった。


 最近、自分の生き方に大きな疑問を感じる事が少なくなって来た。それとは逆に私の動物的判断力とそれに伴う身体の反射神経は一層研ぎ澄まされ始めてきた。

 そのお陰で私は大きな危険を冒す事も無く、そいつの巨大な動きを封じ込める事が出来た。


 私の描いたキャンバスのうねりはやがて次第に小さくなって来た。それでもいつもとは比較にならない程の強力な振動が続いていた。


 私は、自分の勝利を確信した。

 それと同時に、手足に伝わって来る蝉の命の脈動が少しずつ快感に変化し、独り恍惚感に浸る事が出来た。


 是迄に経験した獲物から感じられる快感とは比べ物にならない程、命の脈動がとてつもなく巨大で、しかも長く長く続いている。

 彼が絶命する迄の時間が長ければ長い程、私の快感はかって経験が無い位いに長時間続くであろう。


   “ 何故、蝉の命の波動はこれ程迄に強大なのであろうか ”


 私は自分が人間であっただろう頃の知識をゆっくりと思い出す事にした。蜘蛛に変化してから相当長い時間が経過しているので、思考能力は相当に低下している筈であるが、その事を余り心配する必要はなかった。蝉が完全に息を止めるまでには未だ未だ多くの時間が残されているはずである。

 少しずつゆっくりと思い出せば良い。


 蝉の一生は他の生物とは少し違う。交尾の終わった蝉は秋を待たずに死んでしまう。ひと夏で死んでしまう動物の種類は数え切れないほど多い。それでも蝉は長い物でも一ヶ月程度、短い物は1~2週間で死んでしまうという。 それで、身体に似合わない様な高い声で鳴くと云う人もいるが、それは人間の感傷を含めた勝手な思い込みであろう。


 蝉の生存期間の短さは自然界で見る限り大して珍しくもない。他の生物と異なるのは、地中での生活が極めて長い事にある。一般的には4~5年、長いものでは7~8年、地中で幼虫として生活している。


 木の枝や葉の裏で孵化した幼虫は、地中深くに潜り込み、木の根っこから樹液を吸って長い時間をかけて成長する。やがて長い長い暗闇での生活に終わりを告げ、(さなぎ)となりやっと待ちに待った太陽の降り注ぐ地表に這い出し、そこで羽化して成虫になる。


 一旦成虫になってしまうとそこから後の彼らの寿命は極めて短い。

 生きている時間だけで見ればどちらが本当の蝉の姿か解らなくなるが、生物の繁殖活動の観点から見れば時間がいくら短くても、子孫を残せる形態の成虫が蝉の本当の姿という事になるのだろう。


 今、自分が持っている蝉に関する知識は、私が人間であった時に知り得た情報だろうか、それとも、私の絵画に見せられて飛び込んで来た蝉の生命の鼓動から今回自分が知覚した情報なのであろうか。


 何れにしても、そんな事はもうどうでも良い様な精神状態になっている。

 ただ、自分の現在の状態が夢なのか、或いは本当に変身してしまったのか分からない状況下に於いて人間であった頃の潜在意識がフッと私に蝉のことを思い起こさせた可能性もあった。


 彼の命の鼓動が殆ど感じられ無くなる迄には、丸一日以上を必要とした。幸い、特に腹が減っていたという訳ではないので、彼の息の根が完全に止まるまでの長い時間を快楽と恍惚感の中に身を浸す事に没頭し、食欲は彼が完全に死んでから満たす事にした。


 それから後は同じ様な大きな変化のない日常が続いている。

 時折、自分が人間であった頃にやっていたと思われる仕事の事が思い出されて少し気になったりもしたが、最近ではその回数も少しずつ減少してきた。


 居間では未だ妻と娘の会話が続いていた。しかし、自分の声が二人に届かない事に関して、もうあまり気にならなくなって来た。


 どうやら、名実共に私は完全な蜘蛛に変化を遂げているのであろう。いずれ、人間としての思考能力は全く無くなってしまい、私の絵に餌が飛び込んで来た時の、あの打ち震える樣な快感と恍惚に身を委ね、腹が減ったら食欲を満たすだけの単純な生活になってしまうのであろう。それなら其れで良い様にも思える。


 その日私は昨日捕らえた餌が壊してしまった幾何学模様の絵の修復に全精力を注ぎ込んでいた。その為、ちょっと危険を感じるのが遅くなった。

 黒い飛行機の様な物体が私の絵画を目がけて飛び込んで来た。幸い自分への直撃は避けられたものの、私の自慢の絵画は跡形も無くその黒い物体が破り去ってしまった。


 私はその時の大きな衝撃で遠くへ跳ね飛ばされてしまった。本来だと私の尻から出て来る糸により元居た場所まで戻る事が出来るのだが、衝撃が強過ぎ、命綱である糸はとっくに切断され、とても長い間私は空間を漂っていたような気がした。私は近くにあった木の葉に必死でしがみついていた。


 どうやら、地面への直撃は避ける事が出来た様である。

 飛行機だと見えたあの物体は、鳥であった様な気もする。

 少し自分の気持ちの整理をして落ち着きを取り戻そうと周囲を見渡したが、見る限り餌場としては格好の場所に移動出来たと感じ、ひとまず安堵に胸を撫で下ろした。

 私はこの新しい場所で、新たな絵画を描き始めた。


 今日は天気も快晴で、抜ける様な青空が強く目に染みるが、絵画の出来栄えはその分更に素晴らしい物となっており、私は出来上がったばかりの作品に魅入っていた。そして、何時の間にかその幸せな時間の中で一眠りした。


 目を覚ますと、そこからは、人間としての記憶の中にある私が購入した建売住宅はおろか、自分が蜘蛛に変身してからづっと見続けていた妻と娘が楽しそうに話している姿も見えなかった。私はとんでもないほど遠くに吹き飛ばされた事を、その時初めて悟った。


   “ もう此れで、自分が人間であった事を証明してくれる存在は

   全て無くなってしまった ”


 自分と人間とを結びつけていた唯一の物が今完全に閉ざされてしまった。その事を悟った瞬間、今までに感じた事のない不安に襲われ始めた。


 二度と人間に戻ることも、妻や娘と逢う事も出来ないと考えると、あの時飛行機の直撃を受けていっそそのまま死んでしまっていた方が、どれほど幸せであったろうと涙が止まらなくなっていた。


 暫くして、私の涙に濡れた顔を誰かが優しく拭いて呉れているのを感じた。

 遠くで微かに雷の音が響いている。どうやら、私はあの蜘蛛で居た時の静寂の世界から、いつの間にか人間である時に感じていた音のある世界に戻って来た様である。


 私は長い時間をかけて一生分の夢を見続けていたのかもしれない。そしてたった今、その長い夢から目が覚めたような気がする。いや、夢から覚めたと思っている事それ自体が夢なのかもしれない。


 今現在も未だ夢を見続けているのかもしれない。


 目を覚ましたと思っている事それ自体が夢の様な気がしてならない。


 蜘蛛となってしまった自分が夢なのか、人間であると思っていた事が夢だったのか今一つ判然としない。

 しかし今の私にとって、その事はもうどうでも良かった。蜘蛛が夢を見るかどうか等は知らない。

 それでも自分が蜘蛛となってしまった妄想(夢)は、単調な自分の生活の中に大きな一石を投じたのは確かな様に感じられた。


 長い長い夢(?)から覚めた私の顔は、溢れ出た汗で少しベタついていた。重い腰を上げ、妻と娘が話しているテーブルの側を通り抜け、洗面所へと向かった。

 そして、顔に浮かんだ汗を洗顔料で落とし、自分の顔を見た時、鏡の中の自分の瞳がルビーの様に赤く光った気がした。

 何故か、私はそれがとても嬉しかった。


                   


                終

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