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ハニーベルの不機嫌は最高潮に達していた。
「ハニーベルさん……可哀想に」
「とうとう愛想尽かされて逃げられたのか」
憐れみの視線を投げかける八月朔日宮兄弟をハニーベルは睨みつけた。
「そんなわけない! スミスが私を置いてどっか行っちゃうなんて絶対にない!」
ヒステリックに叫んだ彼女の目はかすかに潤んでいた。
スミスが買い出しに行ってからすでに四十時間が経過していた。ハニーベルを何より大切に思っているスミスが、何の連絡もなく外泊するなど、初めてのことだ。店は臨時休業ということで閉めてはいるが、店主が行方不明という噂がすでにたっている。
「携帯もつながらない。茶葉を買いに行った店も、確かにスミスは帰っていったって言うしなぁ……」
これでも玩馬と志熊で町中を探し回ったのだが、スミス発見には至らなかった。
「地下鉄に乗ったまでは分かったんだが……」
最寄り駅の新しののめから徒歩五分。カフェ〈ハニー&スミス〉まで迷うような道はない。増して五年以上この土地に住んでいるスミスだ。大規模な迷子のわけがない。
「何か事件に巻き込まれてるんだよ……あんたたちにも見つけられないようなところに監禁とかされて……ああああどうしよう! スミスがわけの分かんない連中にあんなことやこんなことまでされたりしてたら……!」
「あんなでかいおっさんをどうこうしようと思うヤツ、いるかねぇ……?」
スミスの身長は一八三センチ。志熊の一九二センチには負けるが、それでもかなり大柄だ。勿論、玩馬にとっては二人とも見上げなければ視線が合わない巨木なのだが。
「玩馬には分かんないかもだけどね! スミスはイケメンなんだよ! ハリウッドにだって行けるんだから!」
恋人の贔屓目とは恐ろしいものだ。お世辞でもそこまでは言えない。
「それはともかく、ボスは誰かに狙われるような人だから、ちょっと心配だね」
志熊の言葉に、ハニーベルがかすかに息を飲んだ。
玩馬と志熊が営む民間ボディガード会社〈しののめガードサービス〉――通称・SGS。その元締めをしているのがスミスだ。喫茶店のマスターとしては何ら問題はないが、ことSGSのボスとしては問題がありすぎる。今まで八月朔日宮兄弟が成敗してきた悪党どもに狙われることも、あり得なくはない。
「どうしよう……スミス、やっぱり何かあったんだ!」
「落ち着けよ、ハニーベル」
おろおろと狼狽し、顔を覆ってしまったハニーベルの肩を玩馬が叩いた。鋭い吊り目の隻眼が、同僚の悲哀に同情の色を示す。
「とりあえず、櫛灘さんに相談してみるか。あれでも一応、警察だからな」
パーカーのポケットから携帯を取り出し、電話帳を漁り始めた時――
「それには及ばん」
ドアベルの涼やかな音と共に重低音が玩馬の手を止めた。
「スミス!?」
「あ、お帰りなさい」
色硝子の美しいドアを乱暴に押し開けた店主――スミスの突然の帰宅に全員が目を剥いた。
「スミス! よかった無事で……ってくさっ! スミス、くさい!」
歓喜の抱擁をしようと飛び出したハニーベルすらはね除ける悪臭を放つスミスは、不機嫌極まりない顔で志熊に何かを放り投げた。
「ぷぎっ」
志熊の胸板に思い切り飛び込んできたそれは無様な声を上げた。
「ちょ、マスター!? これ、人だよ!?」
「おいおい、マジかよ……」
受け取ったそれは、しののめ女学園の制服を着た、妙に薄汚れた少女ではないか。スミスと同じく形容しがたい悪臭を纏いながら、すみません、と謝ってきた。
「いくらアンタが制服フェチだって言ってもさすがに誘拐はどうかと思うぞ」
「スミス! どういうことか説明しろ! 私というものがありながら何でこんなばっちい小娘を連れてきたんだ!」
キーキー五月蠅い外野に溜息をつきながら、スミスは短く、鋭く言い放った。
「何も言わず俺とこの嬢ちゃんを匿え。コードEを速やかに実行」
ぴり、と空気が張り詰めた。
「……了解、ボス」
先程までの喧噪は霧散した。未だ状況を読めていない茉弥を玩馬が引きずり、スミスと共に裏の事務室に詰め込んだ。ハニーベルは換気扇を回し、窓を開け放つ。淀んだ空気が徐々に入れ替わっていく。志熊が手近にあったモップで床についた泥の足跡を消し終わったその直後、ドアベルが新たな来訪者の訪れを告げた。
「いらっしゃいませー。申し訳ありません、今日は臨時休業なんです」
落ち着いた声でハニーベルが客を迎えた。接客業特有の不自然さを滲ませない笑顔の出迎え。しかしハニーベルが言外に滲ませた拒絶を、
「ええ、知っています」
その客人は受け流した。
妙な客だ。
黒服の男が三人。明らかに堅気ではない。後ろの二人はおそらく何らかの格闘技の心得のある人間だ。立ち居振る舞いからして違う。一分の隙もなく立つその緊迫感は、前にいる長髪の男一人のためのものだ。余程の重要人物なのだろうか。
「こちらに長身の男とセーラー服の少女が入っていったと思うのですが……。容姿は赤みがかった茶色のショートヘア、猫のような吊り目に泣き黒子が左右一対。しののめ女学園の制服を着た少女です」
先程の少女と見事に一致するその容姿に、厄介ごとの匂いをかぎ取り、喫茶店の面々は内心溜息をついた。
長髪の男は穏やかな笑みを浮かべてはいるが、目は笑っていない。暗く淀んだ瞳。まるで泥沼のようだ。その目が油断なく店中を蹂躙していく。
「いいえ、来ておりませんよ」
志熊が人の良い笑顔で断言した。これ以上この男に居座られては襤褸が出る。じっとりと背中にかいた汗を感じながら、志熊は努めて平静に応対した。
「そうですか……」
男は尚も店に踏み込み、顎に手を当てなにやら考え始めた。墨染め衣のような黒のスーツに、わずかに光を反射する黒の長髪。黒尽くめの男の顔は、血の気が感じられないほどに白い。
「私の勘違いでしょうか? その二人から発せられる下水の匂いがするのは……」
すらり、と抜き身の刃物のように男の目が志熊を捕らえた。表情こそ柔和な笑顔を保てたが、志熊の心臓は早鐘を打ち始めている。急場しのぎの換気では間に合わないほどの悪臭が今でも店中に漂っているのだ。男は目敏く……否、鼻敏くそれに気づいた。男の足は正確に匂いの方向――事務室に向かっていく。
「ごめんなさい、おきゃくさま」
舌っ足らずな声が男たちを制止した。
裏からひょっこり顔を出したのは玩馬だった。いつもつけている鎖がついた黒の眼帯ではなく、医療品の白い眼帯に付け替えた玩馬が、甘ったれた声で続ける。
「おうちの方のおトイレがこわれちゃってて……へんなにおいするから、それで今日お店、お休みなの」
作戦コードE。「日常を装え」を遵守しているのだ。玩馬が容姿を活かして幼女の真似事をしたのは含まれていないが、この喫茶店がやましさの欠片もない店だとアピールするには最適である。いつもの口と柄の悪い素では怪しまれかねない。
重たげな睫毛に縁取られた瞳を潤ませる。細身と痛々しい眼帯が、彼らの目には薄倖で病弱な少女に映っていることだろう。
「……そうですか。それは失礼いたしました、お嬢さん」
長髪の男は柔らかく玩馬のフードを被ったままの頭を撫で、笑った。今までの雰囲気とはまるで違う。そう。喩えるならばまさに、純真無垢。汚泥の濁りの片鱗すら感じさせぬ笑顔に、玩馬は大きな隻眼を瞬かせた。
「男の方はさておき、制服の少女は我々にとってとても大切な御方なのです。もし見かけることがありましたら、こう伝えてください」
男は向き直り、ハニーベルと志熊を見据え、静かに言った。
「柚木一路が探しております、と」
内ポケットから一枚の名刺を取り出し、志熊に渡す。
――宗教法人〈月ノ輪信奉〉代表秘書。
「裏に私の携帯番号がありますので、発見の際は是非ご一報いただきますようお願いします」
慇懃に頭を下げ、柚木一路は三人に背を向ける――
「あぅっ」
気の抜けた声と共に一路は顔から倒れた。
「一路様! 大丈夫ですか!」
「あうぅ……だ、大丈夫です……いつものことです」
一路はなぜか何もない平坦な床に躓いて転んだ。先程までの緊迫した空気はかき消え、男二人がかりで抱き起こされる一路の背中に悲哀が滲み出ていた。この時カフェの面々は瞬時に理解した。この男、どじっ子だ、と。
「本当に……本当に見かけたらお願いしますよ! 私が来たこと、伝えてくださいよ!」
何とも情けない去り際の台詞があったものだ。からんからん、とドアベルが空虚に鳴り響き、一路たちは姿を消した。向かった方角から一際激しい犬の鳴き声と「へあぁぁぁっ!」という聞き覚えのある声の叫びが聞こえてきた時には、もはや三人の口から言葉が出ることはなかった。
「……何だったんだ、あれ……」
ハニーベルが口を開いたのは、柚木一路たちの気配――日常では聞くことはない奇声と喧噪が去ったあとだった。犬の鳴き声の後は植木鉢が落ちて割れる音、車のクラクション、自転車のベル、そして鴉の鳴き声と羽ばたきが彼らの向かった方向から聞こえてきた。
「い、一路さんは先天的どじっ子なんですぅ」
這いずるように出てきた制服の少女・澁澤茉弥が気の抜けるような声で言った。
「一歩外に出れば何もないところで転び、西に犬がいれば必ず噛まれ、東に側溝があれば絶対にはまり、南に不良がいれば目も合っていないのに絡まれ、北に鳥が群れていれば鴉どころか雀や鳩にすら追いかけられてつつかれちゃう、そういう類の人なんです」
「君も大概似たり寄ったりだったがな」
文字通り引きずられて出てきたスミスが独りごちた。何ともいかがわしい光景だ。いい年をした成人男性が女子高生に引きずられてくるとは。しかも匍匐前進状態で。低級ホラー映画もここまで無様なことはすまい。
「とりあえずそれ止めろ。犯罪くさい」
玩馬渾身の侮蔑の視線を受け、茉弥とスミスは静かに立ち上がった。服はこれ以上汚れようのないほど汚れ、しののめ女学園の清廉なる純白のワンピースも台無しだ。
「それにしても玩馬の芝居……ぶふっ、なんだあれ、よくばれなかったな……」
静かに肩を震わせて笑うスミスに玩馬は激しい舌打ちをした。
「俺の助け船を何だと思っていやがるこの変態! この玩馬様の機転がなけりゃあの……あーなんつったっけ? いい、イチロー? とかいうやつに今頃その女連れて行かれただろうが! お前が作戦コードとか使うから協力したのになんだその態度は! お前、助けてもらったらありがとうって言うの、国の母ちゃんに教わらなかったのか!」
黙っていれば少女人形のような玩馬だが、こうも地が出ると台無しだ。唾を飛ばしながら清純そうな顔を歪ませる玩馬を、事も無げにスミスはあしらう。
「お前、見かけによらず意外と古風だよな」
「話はぐらかしてんじゃねぇよ!」
スミスは人を食ったような笑い声を上げた。玩馬の小さな体が怒りに戦慄き、爆発する寸前、
「そうとも。はぐらかすな、スミス」
絶対零度の声がかかった。
「……ハニーベル」
金髪ウェイトレスの端正な顔がいつもの笑顔を浮かべている。なのになぜか背中を滝のような冷や汗が走った。音がするほど大きく、スミスは生唾を飲み込んだ。
「きょ、今日のミニスカニーソも似合っているぞ……さ、さすがはハニーベルちゃんだなー……」
引きつった笑顔に棒読みの美辞麗句。しかしハニーベルは照れもしなければ呆れもしない。変わることなく優美な笑顔を浮かべてスミスとの距離を詰めてくる。
「お馬鹿な私にも分かるように説明してくれるよね? 可愛いハニーベルちゃんを四十一時間四十三分二十九秒もほっといて見知らぬ制服少女を拉致してあまつさえその子を探している人たちを作戦コードを使うっていう卑劣な手段で追い返させたり・ゆ・う……」
「落ち着け、ハニーベル。まずはその手に持ったモップを置くところから始めよう。話はそれからだ」
顔面蒼白。立ち上るハニーベルの怒気にスミスは腰を抜かし、ずりずりと後ずさりをした。これがアラフォー男の姿だろうか。若い玩馬と志熊は情けなさで涙が出そうになった。
「私とモップは関係ない! 今関係あるのはスミスとそこの制服処女だ!」
「‘う’が抜けているぞ! 一文字足りないだけで大惨事だ!」
「大惨事はお前の返答次第で超惨事になるぞ、スミス!」
「あ、私処女じゃありませんよ」
「スゥゥゥミスゥゥゥゥッ! 貴様、無断外泊の上、処女の花を散らすとは男の風上にも風下にも置けない鬼畜野郎だ! このハニーベル、世の女性たちに成り代わってお前を去勢してやる!」
「君はいらん爆弾投下するな! とりあえず黙れ! ハニーベルも頼むから落ち着いてくれ! ちゃんと説明するから!」
しっちゃかめっちゃか、擦った揉んだの痴話喧嘩+α。男性陣は女の悋気がここまで激しいものだということを、この日身をもって知った。